変言字在46−始まりと終わりの話 (10)

『むすぶ 547』(2016年10月発行)より

 これまで9回にわたって「人生の始まりと終わり」にまつわる話を続けてきたわけですが、そこから見えてきたのは人間の命の(質の)選別が加速度的に進んでいるということでした。それも以前のように国家や強大な権力が力づくで命を選別するのではなく、出生前診断や安楽死という形で人びとが自ら進んで選んでいるように見える事態が、世界、とりわけ先進国と言われる国々で進行しているのです。この間取り上げてきた脳死下臓器移植の問題も、そのような命の選別と決して無縁ではないと私は考えています。脳死を人の死とすることに疑問を抱かせる事例として、前々回脳死後の出産例を紹介しましたが、今回、脳死体は実際どのようなものなのか、あまり知られていない事実を紹介して「始まりと終わり」のシリーズを終わりにしたいと思います。

 反応する脳死体

 脳死体が動くと聞くと「えっ?」と驚く人もいるでしょうが、脳死であっても脊髄は機能しているわけですから、いわゆる脊髄反射によって体が動くのはごく普通のことです。小松美彦さん(現・武蔵野大学教授)の『脳死・臓器移植の本当の話』(2004年PHP研究所)によれば、既に1973年にはカナダのレスリー・イヴァンによって「脳死者に刺激を加えるとゆっくりとした首の運動をはじめとした種々の脊髄反射が出現する」ことが報告されています。その割合は脳死者の75%に及ぶとされています。同書で紹介された事例の中には、「ベッドより飛び上がる程の粗大な運動効果を伴う」ものまで含まれています。脊髄反射によって体が動くことは日本の厚生労働省も認めています。「法的脳死判定マニュアル」(2010年)の「深昏睡の確認」の項目には、注意事項として「脊髄反射、脊髄自動反射は脳死でも認められるので、自発運動との区別が必要である。反射が認められた場合は、誘発したと思われるのと同じ刺激を加え、同じ反射が誘発されれば脊髄自動反射と判断する。ただし、自発運動との区別に迷う場合は脳死判定を中止する」と書かれています。

 体が動くだけでなく、様々な体の反応も報告されています。守田憲二さん(医療ジャーナリスト)のウェブサイト「死体からの臓器摘出に麻酔?」によれば、1997年に日本で最初の脳死下臓器移植を行った高知赤十字病院の医師は、記者会見で、臓器摘出開始時に急に血圧が上昇したため麻酔を実施したことを公表しています。その後も、臓器摘出時に麻酔薬や筋弛緩剤を使用した例はたくさん報告されています。体にメスを入れた時、血圧や脈拍が急上昇するケースは決してまれではないのです。移植を推進する医師たちはこれらの脳死体の反応も脊髄反射として説明しますが、そうした見方を否定する専門家もいます。血圧の上昇や頻脈は一般的な手術時の反応と同じものですから、ある程度脳が機能していると見る方が自然だというわけです。つまりメスを入れられた時に、脳死体が痛みを感じている可能性があるというのです。もしそれが事実だとしたら、脳死体をわが身に置き換えて想像すると身震いするほど恐ろしいことです。

 死から蘇るラザロ

 先に紹介した「法的脳死判定マニュアル」の注意事項には「ラザロ徴候」という項目があって、「無呼吸テスト中等に上肢、体幹の複雑な運動を示すことがある(ラザロ徴候)が、真の自発運動と誤ってはならない」と記載されています。ラザロというのは「ヨハネによる福音書」に登場するキリストの友人で、キリストが「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけたら墓の中から蘇ったという人物です。ラザロ徴候というのは実際にどんな動きなのか、その映像が残っていないかと探して、一つのニュース番組を見つけました。2006年10月に放映されたフジテレビの「時代のカルテ―臓器移植シリーズ」の中に、ごく短い時間ですがラザロ徴候をとらえた映像があったのです。ベッドに横たわった男性の両腕が何かをつかむように持ち上がり、胸の上で組み合わされたり交差したり、かなり複雑な動きをしていました。脊髄反射と言えば、かっけの検査で膝頭を叩いた時に足が跳ね上がる反射運動を思い起こしますが、そのような瞬間的で単純な動きとはまったく違います。その番組に登場した医師は、ラザロ徴候の映像を見ながら、自分も同じような脳死体の動きに出会ったことがあり、それは決してまれなケースではないと語っていました。

 『脳死・臓器移植の本当の話』にも、ロッパーという米国の医師の報告が次のように紹介されています。「人工呼吸器をはずしてから4〜8分後のあいだに、腕や胴体に鳥肌が現れたり、腕にわずかな震えが生じた。ついで30秒以内に両肘が急激に屈曲した。そして2秒もしないうちに、両手は胸の中央部に移動し、ほんのしばらく小刻みに動いた。さらに両手は、急速に首や顎に移動したり、胸から十数センチ持ち上がった」、「弓なりにのけ反ったり、肩を内側にすぼめる脳死者もいる」、「人工呼吸器のチューブをつかもうとしているように見える症例もあった」。

 以上紹介した脳死体の実際の姿は、私たちにほとんど知られていません。そして脳死下臓器移植は「いのちの贈り物」とか「いのちのバトンリレー」といった美しい言葉で飾られて私たちに届きます。私は、ここで立ち止まる必要があると思っています。脳死下臓器移植は一方にドナー(臓器提供者)があり、もう一方にレシピエント(受容者)がいてはじめて成り立ちます。ところがこの二者は、情報の量と質においてまったく対等ではありません。なぜならほとんどの場合、ドナーは交通事故や脳出血などによってある日突然出現します。それに対してレシピエントは、時に何年もの間ドナーが現れるのを待ち続けます。それが幼い子どもであった場合は多くの人の同情を呼んで、海外移植を実現するために1億円を越えるカンパが集まったりします。テレビや新聞が好む(=私たちが好む)テーマがレシピエントの側に集中しているのです。その一方で脳死体は何も語りません。専門家たちも脳死や脳死体に関する情報をなかなか明らかにしてくれません。そんな中で、私たちは本当に正しい判断ができるでしょうか。

  さて、10回にわたって「人生の始まりと終わり」を考えてきましたが、それは結局私たちは人間社会の仲間として誰を迎え入れ、誰を排除しようとしているのかを考えることでした。理性的で自立した個人こそが生きるに値するという人間観は私たちの心身の奥深くに巣食い、それが表面に噴き出してあの相模原障害者大量殺害事件を引き起こしました。その人間観は、巨大な岩のように私たちの前にそびえ立っています。私も私たちもあまりに非力です。しかし「雨だれも石をうがつ」。そう信じて、これからも考え行動していきたいと思います。