変言字在49−『そよ風』が吹いたあと (3)

『むすぶ 559』(2017年8月発行)より

 4年前に62才で亡くなった入部(旧姓・長沢)香代子さんは、日本脳性マヒ者協会大阪青い芝の会の闘士として知られています。車いすから引きずり出すのも苦労しそうなファッティな身体、気弱な相手なら逃げ出してしまいそうな豪胆な笑いはまさに「大阪のおばちゃん」そのものでした。その人柄から多くの人に慕われ、ジバンもカンバンもカバンもない市民候補として40才で大阪府豊中市議選に立候補、見事当選を果たして2007年までの連続4期16年を市政改革に努めました。××政経塾出身みたいなプロの政治家ではありませんでしたが、24時間介護が必要な全身性の障害のある議員として、議会の中でもその存在感はピカイチでした。バリアフルな議会の建物はあらゆるところで改造が必要でしたし、議案の採決の仕方だって従来通り起立でというわけにはいきません。それに、どこに出張するにも介護者が必要です。彼女が体調のこともあって5期目の立候補を断念した時、一番ほっとしたのは議会事務局ではなかったでしょうか。

在宅障害者訪問活動のこと

 そんな入部さんの後半生しか知らない人は信じがたいでしょうが、若いころの彼女はとてもスリムでした。父親は早くに亡くなっていて、母親と5才下の妹との団地での3人暮らしはとてもつましいものでした。彼女との初対面は今でも忘れられないほど印象的なものでしたが、その話をする前に当時の障害者運動のことを少しだけ話しておいた方がいいかも知れません。

 当時、と言うのは1970年代の初めごろですが、重度の障害者には収容型の施設に入るか親の庇護の下で在宅生活をするか、ぐらいしか選択肢がありませんでした。その頃私は後に青い芝の会を結成することになる人たちと一緒に、在宅の障害者を訪ねる活動をしていました。この訪問活動は障害者が外に出るきっかけを作るという意味で活動の柱でしたが、とても苦労をした記憶があります。まず、どこに障害者が住んでいるかという情報がない、友人のツテをたどってやっと住所が分かって訪ねても「うちにはそんな子はいない」と追い返される、そのうちに玄関の中には入れてくれるが本人には会わせない、やっと会えても一緒に外出するのは許されない、といった何重もの壁があったんです。

 どうして親や家族は、私たちと障害者が出会うことをそんなに恐れたんでしょう。最初は、親が私たちの訪問をあやしい新興宗教の勧誘か何かと勘違いしたのか、あるいはわが子の存在を世間から隠しているからではないかと思いました。でもどうもそれだけではない。そのうち気づきます。それまでおとなしく親の言うことを聞いていたわが子が、私たちと出会ったせいでいろんな欲望に目覚めることが怖かったんです。喫茶店に入りたい、旅行をしたい、彼女(彼氏)を作りたい、結婚したい…。障害者を産んだということで世間に遠慮しながら生きてきた親にとって、そんなわが子の欲望ほど怖いものはなかったんじゃないでしょうか。だから親は、いわば差別的な社会に背中を押されながらわが子と私たちとの出会いを邪魔しようとしたんだと思います。後に青い芝の会は「親は敵だ」という主張を展開しますが、それは親による障害児殺しを告発しているだけではなく、そんな日常的な親子や家族の関係を背景にしているのです。

箒(ほうき)になった彼女

 ただし入部さんの場合は、そんな一般的な在宅訪問とは趣を異にしていました。入部さんの施設時代の友人に紹介されて、私は豊中市の団地の3階にある自宅を訪ねました。確かもう一人、女性が一緒だったと思います。お母さんはとても開放的な人で、初対面の私たちを歓待して、すぐに彼女の部屋に案内してくれました。4畳半ほどのその部屋に入って、私は一瞬わが目を疑いました。部屋中至る所に人形やぬいぐるみが置かれ、壁紙もカーテンもピンクや赤の花柄で覆われています。そしてその真ん中で22才の香代子さんはちょこんと座って私たちを見上げていました。

 血気盛んな学生だった私は、その彼女を相手に口角泡を飛ばしながら障害者差別を語り、外に出て活動することの重要性を訴えました。その間彼女は反論することはもちろん、口を開くこともありません。その時のことは後に彼女のそれまでの人生を知って冷や汗とともに思い出すのですが、13才で父を亡くして以来苦労に苦労を重ねた彼女と生意気な学生との話がかみ合うはずがないのです。しばらく聞く一方だった彼女が最後にぽつりとこう言いました。

「あなたはそんなことを言うけど、五体満足な人の中にもいい人はたくさんいる。それをそんな狭い見方で、差別、差別と言うのはおかしい」。

 その時の彼女の真剣な眼差しを今でも私は忘れることができません。

 その後外出を重ねるうちに彼女は積極的に青い芝の会の活動に関わるようになり、まさに豹変します。ある日、青い芝の会の会議が終わって、私が車で彼女を送ることになりました。夕刻、団地に着くと車から彼女を降ろして車いすに乗せます。そして3階まで駆け上がってインターフォンを鳴らすんですが、どうしたことか誰も出ません。引き返して彼女にそう言うと、「とにかくドアの前まで連れて行って。そこで母を待つから」という返事。しかし、5階建ての団地にはエレベーターがありません(当時の建築基準法ではそれでよかったんですね)。私はまず彼女を背負って3階まで上がり、ドア横の壁に彼女を“立てかけ”、それから引き返して車いすを運び上げました。ほんの1分ほどですが、彼女はまさに一本の箒になったのです。今から考えると、その間にソヨと風が吹いただけで彼女がバランスを崩し、頭を強打するなんてこともあり得たわけで、背筋を冷たいものが流れます。

 制度もシステムもないところで「そよ風のように街に出よう」とするのは、そんな危険に満ちていました。しかしそれを怖がっていては世の中は変わらない。彼女にも私にもそういう確信がありました。その後彼女は24才で大阪青い芝の会の会員になり、25才で一人暮らしを開始。28才で結婚して2児の母となり、40才で市議会議員になりました。彼女とカラオケに行くたびに私は中島みゆきの「化粧」の歌詞の「バカだね〜あ〜んた」の「あ〜んた」ところを「香代子」に代えて歌い、そのたびに彼女は「がっはっは」と大笑いしたものでした。時々もう一度一緒に歌いたくなるけれど、それはかないません。でも彼女の活動は「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」として引き継がれ、今も全国で後輩たちが活躍しています。62年間良く生きた!と心から拍手を送りたいと思います