変言字在50−『そよ風』が吹いたあと (4)

『むすぶ 561』(2017年10月発行)より

そしてキャノワードが残った

 1979年の『そよ風のように街に出よう』創刊時からずっと一緒にやってきた編集長の河野秀忠が、9月8日の午後、息を引き取りました。彼の息子さんから私の携帯にメールが入ったのはその日の朝7時前でした。

「今は安定していますので安心してほしいですが一時危険でしたので報告します。今朝4時半頃、父の血圧(上)が30台まで下がり、病院から緊急呼び出しを受けました。呼吸も一時弱くなったとのことで心配していましたが、今は安定しています」。

 その時私は、かつて普通学校への就学闘争で「東の金井康治、西の梅谷尚司」と並び称された尚司さんの泊まり介護に入っていました。知的障害のある尚司さんは、子どもの頃は「多動性情緒障害児」と呼ばれ、54才になった今は「強度行動障害者」などとラべリングされています。奈良北部の山あいでお母さんと暮らしていて、大阪に住む私は片道2時間以上かかるんですが、今も月に2回泊まりに入っています。もう40年以上の付き合いになります。

 隣の部屋でまだ眠っている尚司さんに気付かれないように、布団を頭からかぶってガラケーのボタンをポチョポチョと押しました。

「ご連絡ありがとうございます。すぐに駆けつけたいですが、昨夜から今日の夕方まで奈良の梅谷さんの所です。また連絡します」。

 それから庭をはさんだ向かいの棟にいる母親の明子さんに、「代わりの介護者を探してもらえないでしょうか。ただすぐに危ないというわけではなさそうなので、無理ならけっこうです」とメールを打ちました。すぐに息子さんから「今は兄弟で見守っており、血圧も平常値近くに戻って安定しています。駆けつけ等は不要です」というメールが返ってきました。結局介護者は見つからず、私はその日の夕方まで尚司さんのところにいることになりました。

 ところが胸騒ぎも少しおさまった昼過ぎ、息子さんから今度は電話がかかってきました。
「父が亡くなりました。いったん家に戻ったところに病院から電話があって、私も弟も間に合いませんでした」。半月先の75才の誕生日を、ついに迎えることはできませんでした。

 河野は昨年6月に自宅で転倒して前頭部を強打し、脳挫傷と硬膜下出血で緊急手術を受けました。一時は生命すら危ぶまれる状態だったんですが、その後部分的ですが意識を取り戻し、リハビリ専門病院に移ってからは自分でミキサー食を口に運んだり、車いすの乗り降りもできるようになっていました。月に1回程度面会に行っていた私は、編集メンバー宛ての当時のメールにこんな河野とのやり取りを記しています。

私「最近、歩く練習してるの?」
彼「してない」
私「えっ? してるって聞いたよ」
彼「ヤスコさんは、ちょっと歩いてる」
私「ヤスコさんって、連れ合いの?」
彼「そう。ちょっとだけ歩いてる」

 保子さんは、この会話の9年前にガンで亡くなっています。恐らくその時、彼の意識の中には闘病中の妻の姿があったのだと思います。保子さんを亡くしてから、河野は年を重ねるごとに弱っていきました。6月の転倒の2、3年前から歩幅がずいぶん狭くなり、自宅近くで飲んでは帰りに転ぶということを繰り返していました。言葉数もめっぽう減って、元気なころの彼を知る人は驚きを隠せないほどでした。その延長線上に最後の転倒があったんだと思います。

 ともあれ、身体的には少しずつ元気を取り戻していましたから、認知症のおじいちゃんとしてこれから地域でどうやって生きていくか、私はそんな相談を友人たちと始めていました。もちろん本人の思いが第一なんですが、「河野さん、家に帰りたいでしょ?」と尋ねても、「帰っても仕方ない。やることない」などと無気力な返事をすることが多くて、私はそちらの方が心配でした。

 ところが今年の5月下旬、入浴中に嘔吐をしたことがあって、それ以後急激に状態が悪化しました。時々片言を口にすることもあったようですが、何度か私が訪ねた時はいつも意識が混濁していて会話はまったくできませんでした。酸素マスクをつけ、中心静脈栄養の点滴を受けながら必死で呼吸を続ける姿からは、生きようとする強い意志を感じましたが、かつて障害者解放運動の中で示したその強靭な意志も病を撃退することはできませんでした。 

 通夜と告別式は、河野の友人の僧侶が取り仕切って仏式で行われ、全国からたくさんの友人が参集しました。廊下やロビーは会場に入りきれない人たちで溢れました。棺の中の河野は小さくやせ細っていて、脛(すね)に触ってみましたが冷たく硬く、骨に皮が貼りついただけのようでした。精根を使い果たしたんでしょうね。右手に杖、左手に六文銭、そして足元に草履。唯物論者を自称していたのに、三途の川を渡る準備は万端のようでした。まあ、これぐらいのチグハグは河野にとっては大したことではありません。何せ人間丸ごとの解放を夢見、人びとに檄を飛ばし、時にその傍若無人ぶりがたたって作らなくてもいい“敵”も作りました。

 9月14日の朝日新聞「天声人語」氏は河野の死を悼んで次のように書いています。
「『鉄の意志がなければ生きられない社会は、鉄のように冷たい』『社会に不可欠なのは水道、電気、ガス、そして福祉』『心のアンテナを全開状態にしていないと、風のように吹き抜ける幸せをつかまえられない』。河野さんが本紙に語っている。平易で奥深い言葉は、在野の哲学者を思わせる」。

 河野は勉強が不得手でした。中学になってやっと時計の針の見方を覚えたと、いつだったか語っていました。そしてこれは「恐らく」ですが、五十音は最期まで覚えなかったんじゃないかと思います(その証拠を私はいくつか握っています)。でも彼は行動の人であり、箴言(しんげん)の人でした。短いけれど人を動かす言葉を知っていました。パソコンには最期まで手を出さ(せ)ず、ワープロ専用機のキャノワードのキーを右手の人差し指1本でポコポコと打って、まるで事務作業でもするように文章を書きました。次から次に言葉が出てくるようで、遅筆の私はとてもうらやましかったのを覚えています。

 今、彼の机の上にはそのキャノワードのほか、大量のフロッピーディスク、録音テープ、酸化し変色した雑多な書類、自分でコツコツと作ったミニコミの版下の束(貼りつけた紙の糊が乾いてヒラヒラと揺れている)などが山をなしています。まさに跡を濁しに濁して立ってしまいました。それも河野らしいと言えば実に河野らしい。あの世など存在しない、死は無だ、というのは河野と私の共通認識ですが、でも、やっぱりどこかでもう一度呑みたい。