変言字在51−『そよ風』が吹いたあと (5)

『むすぶ 563』(2017年12月発行)より

 昨年7月26日の相模原障害者殺傷事件から1年半が経とうとしています。被害者数においても知的障害者がターゲットにされたという意味においても戦後最悪のこの事件は、多くの障害者やその関係者に衝撃を与えました。長年編集の実務を担った障害者問題誌『そよ風のように街に出よう』の終刊を決めた半年後に事件が起きたことで、私が受けたショックもそれに劣らないものでした。その時私は小さな志を立てました。どんなにしつこいと言われようと、事件とその背後にあるものについて語り続けようと。1年半が経って、世間はすっかり相模原を忘れてしまったかのようです。そして事件後の日本の政治や社会の動きを見ると、自分に都合のよいところだけを事件から吸収し不都合なところを葬り去ろうとしています。であるのならなおさら語り続けないといけないと思うのです。

一層強化される“思想”

 事件の犯人として逮捕され、5か月間の精神鑑定留置を経て2017年2月に起訴されたU被告は、現在横浜拘置支所に収監されています。起訴から7か月経ってやっと第1回の公判前整理手続が開かれていますから、裁判員裁判が始まるまでにはもう少し時間がかかるようです。

 では今、U被告は拘置所の中で何を語っているのでしょう。事件から丸1年が経った17年7月26日の前後、マスメディアはU被告との面会や手紙のやり取りの内容を報道しました。内容は各社ともほぼ同じで「世界には“理性と良心”とを授けられていない人間がいます」、「人の心を失っている人間を心失者(U自ら「シンシツシャ」とルビを振っています)と呼びます」といったものです。「“理性と良心”とを…」は、明らかに1948年に国連で採択された世界人権宣言第1条の中の「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」が意識されています。つまり「理性と良心」があってこそ人間なのだから、それが失われた人間には生きる権利がないと主張しているのです。この1年ちょっとの間、彼は拘置所という閉鎖空間の中で自分の考え方を補強するためにいろいろな資料や本を読んで“学習”しているようです。(余談ですが、実は私も別のところで優生思想の根深さについて書いて、この人権宣言第1条の同じ部分を問題にしたことがあります。まさにUと視線が重なっていたのを知ってかなり驚きました。)

 私の知る限り最近のU被告の主張をもっとも詳細に紹介しているのが月刊『創』(創出版)で、篠田博之編集長はUが面会や手紙で語ったことを何号かにわたって掲載しています。その17年9月号に、同年7月21日消印のUの次のような手紙が紹介されています。

 「私は意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております。私の考える『意思疎通がとれる』とは、正確に自己紹介(名前・年齢・住所)を示すことです」。

 「重度・重複障害者を養うことは、莫大なお金と時間が奪われます。/彼らには多種多様な個性がございます。/何もできない者、歩きながら排尿・排便を漏す者、穴に指をつっこみ糞で遊ぶ者。/奇声をあげて走りまわる者、いきなり暴れ壊す者、自分を殴り続けて両目を潰してしまった者」。

 「ナチスの優生思想や現代の共生社会は物事の本質を考えることなく短絡的な思考に偏り、人間の尊厳や定義が蔑ろにされております。/一、自己認識ができる。/二、複合感情が理解できる。/三、他人と共有することができる。/これらが満たされて人間と考えられます」。

 U被告が並べる「多種多様な個性」は引用するだけで腹立たしくなります。障害者に対する彼の余りに貧しく浅く一面的な認識は、事件当時とまったく変わっていません。でも、最後に引用した3つの「人間の条件」は、彼が自己を正当化するために世界人権宣言だけでなく生命倫理に関わる議論をも取り込もうとしていることを示しています。そして報道によれば事件の前、彼は周囲の者に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っていますが、それも修正されています。「ナチスの優生思想や現代の共生社会は…」のところです。つまり、ナチスのユダヤ人ホロコーストは「人間の条件」を備えた者を殺害している点で「人間の尊厳や定義が蔑ろにされ」たと言っています。それだけではありません。「現代の共生社会」も、「人間の条件」を備えない者に生きる権利を与えているという点でナチスと同様に断罪されるべきだと主張しているのです。

 そして翌8月の半ば、U被告は篠田編集長に1冊の大学ノートを送りつけます。Uはそれを冊子にして出版し読者のアンケートを取りたいので協力してほしいと書いています。そしてその核心は「新日本秩序」と題する次の7つの提言です。

 「1、意思疎通のとれない人間を安楽死させます。また、自力での移動、食事、排泄が困難になり、他者に負担がかかると見込まれる場合は尊厳死することを認めます。/2、大麻を嗜好品として使用・栽培することを認めます。/3、カジノ産業に取り組みます。…/4、軍隊を設立します。…/5、婚約者以外と性行為をする場合に避妊することを義務づけます。/6、女性の過度な肥満を治す為に訓練施設を設立します。… /7、深刻な環境汚染による地球温暖化を防ぐ為の遺体を肥料とする森林再生計画に賛同します」。(『創』10月号)

 事件から1年が経過した時点においても、U被告は事件前に衆議院議長宛の手紙に書いた優生思想的な考え方と、自己を対象化できずに嵌(は)まり込んでしまった特異なドグマを持ち続けたままだと言えます。そして前者については、孤独な閉鎖空間の中でその考え方が一層強化されています。そのために彼はいろいろな材料を利用しようとしていて、そしてここが問題なんですが、その材料は世の中にふんだんに用意されています。以前この連載でも紹介しましたが、生命倫理学で語られる「パーソン論」はまさに「生きる権利を主張することができる人間の条件」を確定しようとする試みでした。そして私たちの人生の始まりの場面ではゲノム編集や出生前診断の技術が飛躍的に向上し、終わりの場面では脳死下臓器移植が進み尊厳死・安楽死の法制化が声高に語られます。

 U被告が「人の心を失っている人間を心失者と呼びます」と語る時、その言葉はこだまのように跳ね返って彼自身にも突き刺さるはずです。でもそのことに彼は決して気づこうとしません。そして、この社会が凶悪犯として処刑台に送るためにUに浴びせる言葉は、彼のその言葉と同じような軌跡を描くに違いありません。私たちはそれに気づかないといけない。19人の命と27人の深い傷はそのことを求めていると思います。