変言字在54−青山さんが逝ってしまった

『むすぶ 573』(2018年10月発行)より

 野田事件の青山正さんが逝ってしまいました。9月18日から19日に日付が変わってすぐ、私の携帯に電話が入りました。電話の主は知的と身体の重複障害のある青山さんの生活をサポートしているMさんで、「入院中の病院から今、青山さんが突然心肺停止になったという電話があった」と知らせてくれました。Mさんが取りあえず車で病院に向かうと言うので、私は自宅で彼からの知らせを待つことにしました。布団に入っても、もちろん眠ることなどできません。最悪の事態に備えてあれこれ考えを巡らせているうちに、Mさんから再び電話が入りました。「結論から先に言います。亡くなりました。心臓マッサージなど手を尽くしてくれましたがダメでした。死亡確認時刻は午前1時14分です」。享年70。再審請求最中(さなか)の突然の死でした。

 数年前から体調はよくありませんでした。自宅でよく転倒したり幻覚症状が出たりするようになったので、本人も周りも一人暮らしは無理だと判断して、一昨年の4月からサービス付き高齢者住宅に移りました。サ高住での生活は順調で、青山さんもだいぶ元気を取り戻したようでした。ただ腸の中に異物(小さな金属片)が見つかって、去年の春にそれを取り出す手術をしたあたりから徐々に覇気がなくなり、動作も緩慢になっていきました。そして昨年末、排尿に支障が生じて尿道カテーテルを入れることになりました。今から振り返れば、このころから腎臓や膀胱の機能がかなり衰えていたのではないかと思います。そして最後の入院となったのが今年の8月下旬。尿道カテーテルがうまく働かないので、カテーテルを直接膀胱に入れる膀胱ろうの手術を行うためでした。10分もかからない簡単な手術のはずだったのです。ところが原因はよく分からないのですが、入院時にはかなり意識レベルが落ちていて、見舞いに行った私ともほとんど話ができない状態でした。そして手術は成功したものの意識がもうろうとした状態が続き、ついに元気になることはありませんでした。死亡診断書の死因には「誤嚥性肺炎」と記されました。 

 青山さんは千葉県野田市の、のどかな田園地帯に生まれました。1979年、そこで小学校1年生の女の子が下校途中に襲われて殺されるという悲惨な事件が起きました。青山さんが31才の時です。女の子は性的な暴行も受けていました。捜査本部は、事件発生後すぐに青山さんに捜査の網を絞りました。彼は女の子の遺体が発見された現場のすぐ近くに住んでいましたし、中程度の知的障害もありました。警察は「幼児性愛」と知的障害を安易に結びつけて、最初から彼が犯人に違いないと思い込んだのです。その後の捜査と裁判は、その最初の思い込みにどのようにして証拠をくっつけていくかという儀式に過ぎませんでした。自白にはたくさんの矛盾や変遷がありましたし、物的証拠にも不確かなものが多かったのです。その上、一番重要な証拠とされたものが、実は警察によってねつ造されたのではないかという疑いも出てきました。女の子のカバンから切り取られた布片が青山さんの定期入れから出てきたというのが、その証拠ですが、当時の女の子のカバンと裁判所に保管されている証拠のカバンにいくつか見逃せない違いがあると弁護団は主張したのです。しかし最高裁まで争われた野田事件裁判で、結局青山さんは懲役12年の有罪判決が確定して服役することになりました。

 その彼が千葉刑務所を満期出所したのが94年8月です。87年の一審判決前から知的障害者が巻き込まれた冤罪事件ということで注目していた私は、「青山正さんを救援する関西市民の会」の立ち上げに関わり、出所の日にも千葉までお迎えに行きました。刑務所の門を出てきた青山さんの顔がとても白かったのが印象的でした。島田事件の赤堀政夫さんが再審無罪をかち取って死刑台から生還した時の集会にも参加しましたが、その時の赤堀さんの肌も本当に白かった。刑務所生活とはそういうものだと、妙なところで感心したのを覚えています。

 青山さんは出所後、千葉県内の作業所で代表の障害者と同居しながらクッキーづくりなどに励みました。その代表はもちろん事件のことを知っていて、青山さんの無実を信じていました。でもその生活も長くは続きません。一緒に働く仲間の中に「あいつが小さい子を見る目はおかしい」「やっぱり犯人ではないか」という思いが芽生え、疑心暗鬼を生じて、ついに代表も青山さんを支え切れなくなりました。そして関西市民の会に「青山さんを大阪で引き受けてくれ」というSOSが届いたのです。

 そして代表たち数人と一緒に青山さんが大阪に車でやってきたのが95年1月、阪神淡路大震災の1週間ほど前でした。彼は代表を「お母ちゃん」と呼んでとても慕っていました。ですから、まさかそのまま一人大阪に置いていかれるなど想像もしていなかったと思います。その日の夜のことは今でも忘れられません。代表たちが千葉へ発った後、彼はこれから住むことになるアパートで、周りの目をはばかることなく「オー、オー」と声を上げて泣き続けました。私はなすすべもなく、涙がしたたり落ちる彼の頬を見つめるだけでした。

 それから私たちは青山さんの再審無罪を求める活動を進めながら、彼の大阪での生活を支えることになりました。出所後半年も経っていませんから、しばらくは誰かがそばについて街中での暮らしに慣れる手伝いをしないといけません。幸い同居してもいいという人も見つかり、近くの知的障害者授産施設で働くこともできるようになりました。それからの青山さんの変貌ぶりは見事でした。最初の夜の涙が嘘のように天性の明るさが戻って授産施設でも人気者になり、たくさんの友人ができました。同居人がいなくなってからは、時にストレスをためて夜中に壁をドンドン叩いて近所とトラブルになったり、水洗トイレにパンを袋ごと流して詰まらせたりということもありましたが、しぶとくたくましく一人暮らしを続けたのです。 

 彼の死で再審請求の前途はとても厳しくなりました。長く音信不通だった彼の姉が請求人になってくれる可能性はかなり小さい。しかし今はその可能性を追求するしかありません。棺の中の青山さんのわずかに腫れた顔を眺めながら、彼の人生を想いました。母と姉とその二人の子どもとの関係が生活のほぼすべてと言っていい狭小な田舎暮らしを続けていた彼は、突然事件に巻き込まれ、家族との関係を断ち切られ、野田から遠く離れた大阪に連れてこられ、そして二度と故郷に戻ることはありませんでした。彼を取り調べ裁いた者たちは敵意と権力によって彼を翻弄し、一方で私たちは共感と支援によって彼を翻弄しました。そのことに私たちは、いや私は、自覚的でありたいと思います