変言字在55−2020に貼りつく物語

『むすぶ 575』(2018年12月発行)より

 

 私はスポーツ好きを自認しています。中学生の時はバレーボール部のキャプテンとして島根県大会で3位になったことがあります。と言っても、それは50年以上も前の話。今のような6人制ではなくて9人制、ポジションは固定していてローテーションもなく、サーブ権と言ってサーブをした側にしか得点する権利はありませんでした。ですから今のVリーグなど、まるで別のスポーツを見ているようです。それと田舎の学校だったからか、練習も試合も室外が多く、胸から飛び込むスライディングレシーブをやると土に混じった砂や小石のせいでウェアに血がにじむ、なんてことも日常でした。それがまたスポ根(これも死語?)ドラマの主人公になったような気分にさせたりしたものです。

 その後中年の一時期テニススクールに通った以外は、スポーツはもっぱら観るものになりました。特に球技が好きで、バレーやテニスのほかサッカーやラグビーをよく観ます。テレビ観戦がほとんどですが、ラグビーはごくたまに花園ラグビー場などに出かけることもあります。ラグビーは選手たちと観客との距離が近く、肉体と肉体が激突して振動した空気が観る者の肌に伝わってきます。あれがたまらない。それにビッグゲームでもない限り、たいてい空(す)いていて、職場の同僚たちや家族連れがお酒を呑んだり弁当をつついたりしながら声援を送っている。応援団の野次も面白い。中でも近鉄ライナーズ(前期最下位でトップリーグを陥落してしまいましたが)の応援団が相手チームの選手にあびせる野次は必聴に値します。

 前置きが長くなりました。ここでスポーツ談義をしたいわけではありません。2020年にオリンピックの後についてくるパラリンピックの話をしたいのです。かくもスポーツ好きの私ではありますが、どうもこのスポーツの国際的祭典は好きになれません。オリンピックについてはこれまで、その背後で生み出される莫大な経済的利権やナショナリズムの鼓舞の問題などが盛んに議論されてきました。国際オリンピック委員会が定める憲章の「根本原則」は「オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である」と宣言しているにもかかわらず、「個人」でも「団体」でもない「国家」が前面に出てメダルの数を競い国威を競い合う姿はとても醜い。パラリンピックは関係者の努力で「オリ・パラ」と並び称されるほど市民権を得つつありますが、オリンピックの二の舞にはなってほしくないというのが正直な気持ちです。

 パラリンピックに対してはいろいろな意見があります。まず、スポーツそのものが人々に競争を強いたり美化したりするものだという批判があります。でも、私はそうは思いません。一定のルールのもとで競い合うのは楽しく魅力的で、人間の持つ遊びの精神を満足させてくれます。問題は競争を遊びの領域から社会全体に拡げ、人間の価値判断に結びつけることだと思います。あくまで遊びは遊び、だから実際にやっても観ても面白いのです。ほかにも、パラリンピックはもともと傷痍軍人のリハビリのために始まったものだから反対だという意見もあります。もちろん戦争を肯定する気はありません。でも戦争が付随的にもたらしたものはいろいろあります。今、この原稿を書いているパソコンや携帯電話だってそうです。もっとも、戦争が技術や文化を加速させたのは事実だとしても、その元になるものは平穏な時代に培われたというケースがほとんどです。起源がどこにあるのかは「歴史」としてちゃんと知っておかなくてはいけないとしても、起源だけで否定することはできないと思います。

 ただし、先ほど「遊びは遊び」と言いましたが、鬼ごっこやかくれんぼ(これらも死語?)と違って国際的ビッグイベントともなると、ことはそう簡単にいきません。一言で言うと、社会的な価値観をまとった物語がそこに貼りついてきます。パラリンピックも例外ではなく、市民権を得るにつれてパラ特有の物語の臭いがしてきて、2020を前に一層それが強まっています。その一例が、10月に東京で起きたポスター騒動です。

 そのポスターは東京都主催のパラスポーツ応援プロジェクトの一環として制作され、東京駅の構内などに張り出されました。全部で23種類作られたそうですが、その中の1枚に書かれたフレーズが「障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ」。その大きな文字の下にバドミントンのラケットを握ったパラアスリートの写真が入っていました。どきりとする文章です。それを目にした障害者は「まるで自分が否定されているようだ」「典型的な差別だ」と反発しました。それも当然です。障害者がこの社会で生きていくのに「負けたら」、「それはきみ自身のせいだ!」と叱られているとしか思えませんから。その後東京都は、批判を受けてこのポスターを撤去しました。それも当然でしょう。

 そのポスターに登場したパラバドミントンの選手は27才の杉野明子さんです。彼女のブログには「千葉県市原市生まれ。出生時に左腕に障がいを負い、機能不全となる」とあります。彼女は確かに過去のインタビューで、ポスターに掲載されたような言葉を語っています。ただし次のように、です。

 「健常(者)の大会に出ているときは、負けたら『障がいがあるから仕方ない』と言い訳している自分があった。でもパラバドでは言い訳ができない。負けたら自分が弱いだけ」。

 障害者と対戦して負けたら、その原因を自分の障害に求めることはできない。とても当たり前のことを語っています。それを東京都のどの部局かは知らないけれど、前述のようなフレーズに圧縮した。10月16日のJ-CASTニュースによれば、都は「過去のインタビューにおいて発信された言葉を基に、競技団体の御協力・御確認の下に、東京都が責任をもって制作したものです。この言葉は、選手御自身が競技に向き合う姿勢を表したものであり、決して他の方に向けられたものではありません」と言い訳をしたそうです。「競技団体の御協力・御確認」を強調したかったのだと思います。しかし仮に競技団体のチェックに問題があったとしても、これは単なる簡略化ではなく発言のねつ造と言うべきです。そのように言葉を作り変えることによるあるメッセージ性の強化を、都の担当者は当然分かっていたはずです。

 このポスター問題には、パラスポーツに貼りつけられる社会的価値観の物語が典型的な形で現れています。この間世間を騒がせている新型出生前診断、強制不妊手術、公的機関の障害者雇用数水増し問題と同根の、社会が抱える障害者に対する価値観の物語です。この価値観はすべてを吸い込むブラックホールのように強大ですが、2020がパラアスリートたちの一人ひとりの思いを利用し変形させてその物語を強化することには何としても抵抗したいと思います。