変言字在56−改元の年に

『むすぶ 577』(2019年2月発行)より


 

 私が代表を務めるりぼん社には、全国各地の障害者団体が発行するミニコミ紙・誌が毎日、多い時で10通近く、平均すると3〜4通届きます。全部に目を通す余裕はありませんし、正直に言うと、身内にしか通用しないような「隠語」を使って身内の話ばかり書かれているような記事は、あまり目を通す気になれません。でも、マスメディアが取り上げない地元で起こった差別事件や、介護制度が十分に機能しない地方で障害者が地域生活を送ることの大変さなどが取り上げられることもあって、貴重な情報源であることは確かです。

 そんな各地から届く通信物ですが、今年(2019年)に入ってからちょっと気になることがあります。それは「元号」です。5月1日に皇太子ナルヒトが新天皇に即位することが決まると、世の中には5月の10連休に向かって浮かれムードが漂い始め、通信物にも「平成最後の……」とか「平成を振り返って」といった記述が目立ちます。でも、そうやって元号に触れながら、ほんの一言でも元号や天皇制が持つ問題に注意を向けるような表現がほとんど見られないのです。

 天皇制の問題はこの国の差別・被差別の問題と切っても切り離せません。「生まれながらにして尊い存在を認めるということは、生まれながらにして穢れた存在を認めることだ」という部落差別における言説は説得力がありましたし、先の世界大戦における天皇の戦争責任がきちんと問われないまま今日に至っていることの問題はとても大きいと私は考えています。私と同世代かやや上の団塊の世代にとっては、天皇制を支持する人にとってもそうでない人にとっても、天皇制を議論の対象とするということは当然だし必要なことだという認識があると思います。

 りぼん社に通信を送ってくるのは、障害者団体の中でも、国や自治体とは一線を画して差別ときちんと向き合っているところが多い。介護制度を利用して地域で暮らしながら、人びとの心に潜む障害者を排除する考え方と日々ぶつかり、少しずつそこに風穴を開けてきた。そんな闘いを何十年も重ねている団体の通信に「いよいよ平成が終わります。次はどんな元号になるか楽しみです」などという記述を見つけると、おっとっとと腰が砕けるような気分になります。天皇制に反対すべきだ、と言っているのではありません。障害者運動の質が大きく変わり、世代交代も進んでいます。団体の中にいろいろな考え方があるのは当然です。ただし、元号や天皇制の問題をスルーしてほしくない。いきなり賛成だ、反対だという議論をするのではなくても、ちょっと立ち止まって考えを巡らせてみるというのは大事なことではないかと思うのです。

 天皇制に限ったことではありません。世の中にまかり通る「常識」や「文化」や「政治」が障害者の生を圧迫してきたというのは歴史的事実なのですから、それらを疑ったり批判したりするのはとても大切なことだと思います。ずい分前にある障害者団体の総会で、「私たちの団体は政治的には無色透明でないといけない」という議論が交わされている場に遭遇したことがあります。どんな文脈での議論だったか忘れてしまいましたが、私は傍らで話し合いを聞きながら「そんなことが可能なわけがない」とつぶやいていたのを覚えています。確かに政治党派とは無関係な障害者団体の中で一定の政党への投票を訴えたり、賛否両論が激しく対立する政治的な問題への態度決定を迫ったりするのは問題でしょう。でも、障害者の運動には何を置いても基本的人権の保障という大きな目的があるわけですから、世の中のさまざまな出来事が障害者をはじめとする社会的マイノリティたちに与える影響について関心を向けるのは当然のことです。そしてそこには、政治的な問題も含まれるはずです。

 そういう時に「無色透明」であるとはどういうことなのでしょうか? そもそもそういうことが可能なのでしょうか? ここで私はある元新聞記者の言葉を思い出します。

 「住民と市町村が対立するなら住民の側に、市町村と都道府県が対立するならまず市町村の側に、そして国と都道府県が対立するならまず都道府県の側に身を置き考え、取材し、報道する。『まずは弱き者の側に』を報道の基本姿勢としてきました」(前泊博盛『沖縄と米軍基地』204205頁)。

 30年近く沖縄の地元紙・琉球新報の記者をした後、現在は沖縄国際大学で教鞭をとる前泊さんは、沖縄という特別な場に身を置くことによって、常に「『権力』をどう制御し、弱き者が殺されない社会をどう実現するか」(同書)という問題意識をもとに報道をしてきたと言います。彼は中立や客観を標榜するのではなく、はっきりと「弱き者の側に」立つことを宣言します。それは「弱きを助け強きをくじく」といった任侠道とは異なります。政治力や情報発信力が圧倒的に強い者と弱い者との間にトラブルが発生した時、その「客観的な中間点」に立つということは、強者の勢力範囲内に立つのに等しいということを彼は知っているのです。だから事実に迫ろうと思えば、まずは弱者の側に立つ。それはとても合理的で現実的な考え方だと私は思います。

 この世に生存する以上、私たちは政治的な問題からまったく自由でいることなどできません。「私は不偏不党を貫いている」と大言壮語する人がいるかも分かりませんが、そのようにどこにも属さず偏らない(ように見える)生き方というのは、時の権力者がもっとも好むものです。なぜなら、道が大きく右にうねっても左にうねってもいつもその中道を歩くというのは、結局は「流されるまま」ということですから。という意味では「無色透明」は実は「強者(権力者)の色」の別名です。私はそう思います。

 私たちにとっては、今後、介護や福祉の制度がどうなっていくのかは自らの死活に関わる大問題です。ですからそのことについて関心を寄せ、通信を通して情報を発信するのはとても重要なことです。ただ、まだその先があります。介護や福祉の問題は、私たちが今後どんな社会を作っていくのかというさらに大きな問題につながっています。そして元号や天皇制は、これからの日本という国のあり方に深く関わる問題です。障害者団体の通信物の中にも、ちょっと立ち止まってそんなことを考える企画を入れてほしいなと、改元の年に老いた編集者は思うのです。