変言字在57−強制不妊手術判決を受けて

『むすぶ 581』(2019年6月発行)より


 

 以前にも書いたかも知れませんが、私は数年前から「雨だれ石を穿(うが)つ」を座右の銘としています。よく知られた箴言(しんげん)で、例え小さな力でも根気よく続けていれば目的を達成することができるといった意味です。私の場合「雨だれ」には、自分の力はとても小さいという自覚と、でも一つのことにずっと取り組んできたというささやかな自負が含まれています。そして「石」はさまざまな社会の矛盾を指しますが、その中でも私が強く意識してきたのが優生思想です。この思想については本連載でも、出生前診断や安楽死、脳死下臓器移植の問題などとからめて何度も書いてきました。2016年7月に相模原市で19人の知的障害者が殺される事件が起きた直後は、マスメディアでも優生思想の問題が盛んに取り上げられました。でも、それはほんの一瞬でした。これまでもこの思想は社会の表面に顔を出してはすぐに消えるということを繰り返してきました。私に言わせれば、建て前として倫理的に否定され、本音の部分でひそかに肯定されるということの繰り返しです。それではいけない、「雨だれ」のしつこさで優生思想を問題にし続けないといけない、と私は思っています。昨年7月に友人たちと同人誌を創刊し、それに『季刊しずく―だれ一人しめ出さない社会へ』というタイトルをつけたのは、そんな思いがあるからです。

 その優生思想に大いに関わりのある判決が、5月28日に仙台地裁で言い渡されました。旧優生保護法の下で強制不妊手術を受けた宮城県内の女性2人が、国に損害賠償を求めた裁判の判決です。同種の裁判は今、全国7つの地裁で20人が原告となって進行中ですが、その中で初めての判決で今後他の裁判に与える影響は大きいでしょう。法律用語は難解なところもありますが、判決の中身を少し丁寧に見てみたいと思います。

 まず、96年に廃止された旧優生保護法が違憲だったかどうかについてです。判決(要旨)はこう言っています。「子を産み育てるかどうかを意思決定する権利(リプロダクティブ権)は、幸福の源泉となり得るとすると、幸福追求権を保障する憲法13条に照らし、人格権を構成する権利として尊重されるべきだ」。だから「旧優生保護法に合理性があるというのは困難で、違憲であり無効だ」。はっきりと法の違憲性を認めた画期的な判決だと言えるでしょう。

 しかしそこから先が問題です。まず、不妊手術を受けてから40年以上が経過する原告に、民法724条が定める20年という除斥期間が適用されるかどうかということです。判決は「手術から20年経過する前にリプロダクティブ権侵害に基づく損害賠償請求権を行使することは、(社会的背景や原告が置かれた状況を考慮すれば)現実的には困難であった」と認め、「損害賠償請求権を行使する機会を確保するために、所要の立法措置を執ることが必要不可欠であった」としながら、国会がその立法措置を執らなかった不作為という違法行為を認めなかったのです。

 その理屈はこうです。「我が国においてはリプロダクティブ権をめぐる法的議論の蓄積が少なく、本件の規定や立法不作為について憲法違反の問題が生ずるとの司法判断が今までされてこなかった」。だから「少なくとも現時点では」立法措置が必要不可欠だということが国会にとって明白ではなかったと述べます。ですからリプロダクティブ権侵害に基づく賠償請求については20年の除斥期間が適用され、その権利は失われているというわけです。「少なくとも現時点では」と限定しているので今後この部分の判断が変更される可能性はありますが、それにしてもこれでは旧優生保護法が違憲だと認めたことが原告の利益にまったくつながっていないと言うことができます。

 ここが、ハンセン病者の強制隔離の根拠となった「らい予防法」の違憲性をめぐって争われた裁判との大きな違いです。ハンセン病者13人が「らい予防法」は違憲だとして国に損害賠償を求めた裁判で、熊本地裁は2001年に原告全面勝訴の判決を言い渡し、国は小泉純一郎首相(当時)談話を発表して控訴を断念しました。この熊本地裁判決は今回の仙台地裁判決とは異なり、国会の立法不作為をはっきり違法だと認めました。熊本地裁はその根拠をこう述べています。「新法(らい予防法)制定当時のハンセン病医学の状況等に照らせば、新法の隔離規定は、新法制定(1953年)当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきである」。そして遅くとも60年には新法の隔離規定はその合理性を失っていたとし、「特殊で例外的」なケースではあるけれども60年以降に隔離規定を改廃しなかった立法上の不作為について国家賠償法上の違法性を認めました。

 熊本地裁判決と今回の仙台地裁判決の違いは、損害賠償権を行使する機会を確保するために国会が立法措置を執らなかったのは違法(熊本)か合法(仙台)かというところにあります。それを私なりに言い換えれば、ハンセン病患者の強制隔離政策は当時の社会的な意識として明らかに違憲だったけれども、障害者の強制不妊政策は(今に至るまで)そうではなかったということです。それをさらに言い換えれば、強制不妊手術の背景にある人々の考え方や倫理観、つまり優生思想に基づく政策は違憲ではないという社会意識を裁判所が「致し方ない」と認めたということになります。

 国は4月24日、旧優生保護法の違憲性や国会の立法不作為の違法性には一切触れずに、強制手術の被害者へ一時金320万円を支給する救済法を成立させました。その前文には「我々は、それぞれの立場において真摯に反省し、心から深くお詫びする」とありますが、その「我々」とは誰なのかが敢えて曖昧にされています。その上一時金も低額(国賠の請求額の10分の1程度)で被害者本人の請求を前提にするなど、とても不十分な内容です。宮城県の2人の原告は5月31日、仙台高裁に控訴しました。他の地裁の判断も含めて、今後の訴訟の行方に注目したいと思います。