変言字在58−「彼女は安楽死を選んだ」が見せなかったもの

『むすぶ 585』(2019年10月発行)より


 

 私たちは世界をあるがままに、鏡に写し取るように見ているわけではありません。私たちは自分の経験に縛られながら、自分が生きるための関心に沿って、自分の属する集団の価値観に基づいて世界を認識しています。そして私たちの経験はいつも十分ではなく、多くの重要な問題を関心の外に追いやり、自分たちの正義を振りかざして他者を攻撃します。人間に特有のそんな世の中の見方が差別や迫害を生じさせ、不幸や混乱を招き寄せます。

 私たちを取り巻く情報も例外ではありません。マスメディアが発するものからインターネット上を飛び交う無数の言葉や映像、個人間の情報交換に至るまで、私たちは情報の海に翻弄されながら暮らしています。そして往々にして、そうした情報は発信する者と受信する者の世界の見方によって誇張されたり隠されたり歪められたりします。情報化社会に生きる私たちはそのことに十分気をつけないといけません。ネット社会になっても未だ大きな影響力を持つマスメディアに対しては特に注意が必要です。

 去る6月2日に放映されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」を観て、私は改めてそのことを痛感しました。徐々に中枢神経が侵される多系統萎縮症という難病に罹患した日本人女性Mさんがスイスの自殺ほう助団体に登録し、渡航して52才で死に至るまでを追ったドキュメンタリーです。医師に処方された致死薬が入った点滴のストッパーをMさん自らがはずして死を迎える、その現場までカメラが入ったことで大きな反響を呼びました。その多くは「安楽死について深く考えさせられた」といった好意的なものだったようですが、障害者団体からは重度の障害者に死を迫るような内容で容認できないという抗議の声もあがりました。

 私が観終わって真っ先に感じたのは、ある種の気味悪さです。それはわが国でタブー視されている死の瞬間の映像が流されたからではありません。この番組を企画し取材し放映した者たちの完全な不在という気味悪さです。カメラはまるで神の視点のように空中を浮遊し、公正で客観的に状況を眺めているように振る舞いました。最も主体的にこの番組(情報)を提供しようとした者たちが、その存在と主観をひた隠しにしたのです。

 番組のスタッフたちは、自殺の現場に立ち会いながらそれを止めることも蘇生措置をとることもせず、ただカメラを回し続けました。考えてもみてください。これから電車に飛び込もうとしたり、毒薬をあおろうとしている人を、そのことをあらかじめ知った上でテレビカメラで撮影し続けたとしたら、激しい社会的非難を浴びるのではないでしょうか。そんな撮影が日本で行われたとしたら、単に社会的な批難にとどまらず、刑法の自殺関与・ほう助の罪にあたる可能性が高いでしょう。

 確かにスイスでは、利己的な動機によるものでない場合は自殺ほう助が容認されています。しかし例えば2018年に大麻が合法化されたカナダで、NHKのスタッフ自ら大麻を吸引してそれを放映したら大きな騒動を呼び起こすでしょう。それがなぜ自殺ほう助では許されるのか。そこに社会的、倫理的な問題はないのか。そのことは当然、主体的に情報を発信する側の問題として、番組の中で弁明されなければならないはずです。おそらく一定期間Mさんの密着取材を続けたスタッフたちは、彼女が最期を迎えるまでに多くの会話を交わし葛藤を繰り返したでしょう。そのこともまたこのドキュメンタリーの重要な構成要素です。それでも番組(情報)の中から自分たちの姿を消し、公正で客観的な視線を装おうとするのは大いに問題があると言わざるを得ません。

 番組には他にもいくつかの問題を感じました。Mさんの人間観の取り上げ方もその一つです。彼女の姉によると、彼女が強く死を意識し始めたのは胃ろうや人工呼吸器を付けた人たちの病院を訪問してからだといいます。Mさんは自分の将来の姿をその人たちに重ね合わせ、「確実に私が私でなくなっていくのが怖い」、「天井を向いているだけだったり、食事をしてもらったりオムツを変えてもらったりする生活に生の喜びが感じられるのか」と自問し始めます。そして「死を選べるということは、どうやって生きるかを選択するのと同じくらい大事なことだ」という結論に至ります。おそらく彼女の経験(それはいつも十分ではないと冒頭で述べました)の中に重度の障害者たちとの関わりはなかったのではないでしょうか。だから「どうやって生きるか」という選択肢の中に胃ろうや人工呼吸器を使って生きることは含まれません。彼女には重い障害のある人たちの情報が欠落し、そういう人たちへの想像や共感の眼差しが欠落しています。

 そのことを補うように、番組には短い時間ですが人工呼吸器を付けながら家族との関係を大事に生きる女性も登場しました。しかし彼女とMさんとの間には何の接点もなく、「どうやって生きるか」という二人の考え方の違いについては何のコメントもありませんでした。また、二人の姉がMさんの安楽死を次第に受容していく中で、Mさんの妹だけがあくまで反対していることも番組で紹介されました。妹は「自分のヨロイを脱いで、ひとの助けを借りながら生きてほしい」と願って姉を説得しますが、結局それは受け入れられません。番組が公正や客観性にこだわるなら、その妹の存在はMさんと同じくらい重要だと言えます。でもなぜか妹は映像としても音声としても番組に登場しませんでした。なぜそういう結果になったのかも知りたいところですが、ここもまた番組はスルーしてしまいました。

 番組は安楽死先進国と言われる国々の現状にも一切触れませんでした。以前この連載でも紹介しましたが、オランダやベルギーなどでは安楽死法が制定された当初の厳格な基準が次第にゆるめられ、肉体的な苦痛がなくても精神的苦痛だけで認められたり、病気が末期や不治でなくてもよくなったり、年齢制限がなくなったりしています。スイスの自殺ほう助も例外ではありません。いったん安楽死が合法化されればその法の対象はどんどん拡げられ、まさに「自殺推奨社会」の様相を呈しているのです。

 情報は公正や客観性を装うことで自らを正当化し、それが新たな差別や迫害につながることがあります。「彼女は安楽死を選んだ」が見せなかったものに関心を向け続けたいと思います