変言字在59−市民感覚」がすべてか

『むすぶ 587』(2019年12月発行)より




 私はこの連載の第28回から36回まで、「死刑廃止論のためのノート」と題して死刑制度存廃問題に関するさまざまな言説を紹介しながら、廃止論により説得力を持たせるべく奮闘したことがあります。そして9回にわたった連載を次のように締めくくりました。

 「この問題には個々人の人間観や世界観が色濃く反映していて、すぐに結論めいたものを引き出すのは困難です。しかし人間が過ちを犯しやすい弱い存在であることをしっかりと自覚すれば、死刑という、殺される者にとって後戻りのできない(修正ができない)制度は根本的な矛盾を抱えていると言わざるを得ません。死刑制度存廃に関するさまざまな言説を紹介し、私なりの見解を述べてきましたが、結局はその原点に立ち返るしかないのだと今は思っています」。(『むすぶ』bT31)

 私は国家による殺人は許されるべきではないという強い思いを持っています。明治以降の日本の歴史を振り返っただけでも、国家がいったん暴走を始めたら止めようがないことを思い知らされます。その中で無数の人々が思想や信条によって、正当な権利を主張したことによって投獄され拷問され殺害されたという事実はとても重い。国家という強大な権力機構には徹底して懐疑的、批判的でないと、私たちはとんでもない場所に連れて行かれる。それが私の死刑廃止論の原点です。

 しかしその一方で、国家とは何か、国家はどうあるべきかという議論は個々人の価値観の根深いところに依拠していて、死刑廃止を実現するためにはあまりに迂遠ではないかという思いもあります。世の中には国家の利害を個人のそれに優先させて考える人も多いし、それは安倍政権の下で次第に増えているような気配もあります。そんな中で死刑存置論の人たちにもっとも届きやすい言葉は何かと考えて、上記のような結論に至ったわけです。つまり人間は言動や認識において間違いやすい存在であって、無実の人が罰せられることも避けがたい。その結果、やってもいない罪で殺されることもある(現にあった)。それは何としても避けないといけない。ここまでは多くの人が首肯できるのではないか。そこから死刑廃止までの距離はそんなに遠くはない。そう思ったのです。

 しかし存廃議論はなかなか深まりません。それどころか、昨年にはオウム真理教の幹部たちの大量執行があったにもかかわらず、死刑制度存廃についての議論はまったくと言って言いほどわき起こりませんでした。そしてじわじわと厳罰化が進行しています。

 この間、死刑と裁判員制度に関して気になる主張を耳にします。7年ほど前、初めて裁判員裁判での死刑判決が高裁で破棄されて無期懲役になって以来、同様の破棄判決が出るたびに「市民感覚を持った裁判員が決定したことを職業裁判官が破棄したのでは、裁判員裁判を導入した意味がない」というものです。

 つい最近も、一審の死刑判決が上級審で破棄されたりそれが確定するというケースが2つ続きました。一つは12月2日、2012年に大阪の繁華街で見ず知らずの通行人2人を刺殺したとして一審で死刑判決を受けた被告に対して、最高裁は計画性が低かったことなどを理由に死刑判決を破棄して無期懲役とした二審判決を支持しました。もう一つは12月5日、埼玉県熊谷市で2015年に小学生2人を含む6人を殺害したとして裁判員裁判で死刑が言い渡されたペルー人の被告に対して、東京高裁は犯行時に統合失調症の影響で心神耗弱の状態にあったとして一審判決を破棄し無期懲役を言い渡しました。

 大阪のケースでは最高裁判決の3日後の12月5日、産経新聞は次のような「主張」を掲載しました。

 「父親を亡くした中学2年の長女は最高裁の判決を受けて『頑張って決めてくれた裁判員の人たちの気持ちが無駄になってしまった』『裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい』と話した。同感である。/制度導入以前の判例との公平性を重視すれば、これが埋まることはない。(略)最高裁は、裁判員制度の意義を踏まえた新たな判断基準を明示すべきである」。

 また橋下徹元大阪府知事は12月6日、2つの判決を受けてツイッターでこうつぶやいています。

 「一審の裁判員が下した死刑判決を控訴審の裁判官がひっくり返すことが目立っている。このままだと裁判員を拒否する者が増えて裁判員制度が崩壊する危険も出てくる。これを正すのも政治だ。インテリたちが猛反発する内閣による最高裁判事の人事を断行すべきだ。これが憲法の定め」。

 産経の素朴な主張と橋下氏の論法(一審軽視→制度の崩壊危機→一審尊重)にはやや違いはありますが、市民感覚を反映した一審の裁判員裁判の結論を尊重すべきだということでは同じです。もっともな言い分のように聞こえます。支持する人も多いのではないかと思います。

 私は裁判員裁判の導入には賛成でした。友人たちの中には、「市民感覚」の中には異質な者に対する差別意識も含まれるとして導入に反対する人たちもいました。その指摘はよく解ります。しかしいくつかの冤罪事件に関わった経験を通して、職業裁判官だけにまかせる刑事裁判はとても危険だと感じていたのです。ただし、紹介した産経新聞や橋下氏の主張には恐怖を覚えます。彼らは裁判員裁判の結論を尊重し、それを覆してはいけないと言います。これはつまり、裁判員裁判の対象となる重大事件では三審制ではなく一審制にしろと言うに等しい。これはとても怖いことではないかと思うのです。

 司法制度に三審制を取り入れ、それでも満足せずに再審制度まで用意したのは、人間がとても間違いやすい存在だからです。自分を振り返ってみればよく分かります。間違いやすいだけでなく強いものに対してすぐに迎合します。我が身を守るために相手を差別し攻撃します。そのことを自覚しているからこそ、念には念を入れて罪と罰に対処しようとしてきたのです。

 裁判員裁判もその延長にあるはずです。しかし裁判員裁判の結論を覆してはならないと主張するのは、ほぼ例外なく厳罰化を支持する人たちです。「市民感覚」は大事です。しかしその「市民感覚」も常に検証されなくてはなりません。なぜなら「市民たち」もまた間違いを犯すからです。そしてその犠牲になるのは往々にして「良識ある市民たち」が形づくる社会の境界にある無力で貧しい異端の者たちです。

 そこからもう一度、死刑制度を捉え直したいと思います。