変言字在61−私たちは何を了解したのか―相模原事件裁判が終わって

『むすぶ 591』(2020年4月発行)より




 前回私は、相模原市の知的障害者施設で発生した大量殺傷事件の裁判員裁判が始まったことに合わせて、障害者の収容施設が抱える問題という視点から事件の背景を考えました。一般には「収容」ではなく「入所」施設と呼ばれますが、特に重度の知的障害者の場合、ほとんどが本人の意思とは無関係に家族や社会の都合によって入所を余儀なくされるという意味で、私はこれまで敢えて「収容」という言葉を使ってきました。事件が起きた「津久井やまゆり園」を運営する法人も例外ではなく、不祥事や虐待が相次いで報道されました。そこで私は、他者の関心が向けられない閉じられた生活空間では人権侵害が起きやすいこと、被害者が匿名化されたのは事件が発生した時ではなく彼らが施設に入所させられた時であるということを指摘しました。もちろん家族も社会的な差別の被害者だという側面がありますから、彼らだけを非難しても問題の解決にはつながりません。でも、被害者の家族の苦労を(おもんばか)るあまり、障害者と家族の問題、その間の差別や軋轢という問題を素通りしてもやはり解決にはつながらないと私は思っています。

 前置きが長くなりました。前回に続いて今回も相模原事件を取り上げます。1月8日に始まった裁判が終了した今、事件がどのように解明され、そこから私たちは何を了解したのかを考えてみたいと思います。

 横浜地裁が植松聖被告に対して3月16日に言い渡した判決内容は、すでに皆さんご存じの通りです。そしておそらく大方の予想通りだったと思います。青沼潔裁判長は「酌量の余地は全くなく、厳しい非難は免れない」として被告人に死刑判決を言い渡しました。その判決内容、特に争点だった「責任能力についての判断」については後述するとして、計16回に及んだ公判の中で私の印象に残ったことを2つ紹介したいと思います。以下は新聞報道のほか月刊『創』の篠田博之編集長がウェブ(ヤフーニュース)で公開している公判報告を参考にしています。

 一つは第2回公判で読み上げられた事件当日の施設職員の供述です。彼女は午前2時前の見回りをしようとして犯人と出くわし、両手首を結束バンドで縛られて入所者が眠る居室に連行されます。そして「こいつはしゃべれるのかと男に問われ、「しゃべれません」と答えたところ、男はためらうことなくその入所者の首に刃物を振り下ろしました。その後も泣き叫ぶ職員を引き回して同様の質問を繰り返し、「しゃべれる」と嘘をついても「しゃべれないじゃないか」と刺し続けました。そして彼女を手すりに縛りつけ口をガムテープでふさぐと、「苦しくなったら鼻で息を吸え」と言い残して別の場所に移動していったそうです。

 事件直後に採られた彼女の供述は詳細で生々しいですが、それを聞くかぎり犯人はとても冷静です。その時の現場の凄惨な状況を想像すると、その冷静さはさらに際立ちます。そして「しゃべることができるかどうか」にとてもこだわっていたことも分かります。その単純さや浅薄さ、自分を神のような位置に置く傲慢さには言葉を失います。この事件を理解不能な特殊な人間の所為として済ますことにはもちろん反対ですが、彼女の証言を聞いて、優生思想という私たちにつながる一般性においてだけでなく、その特異性においても見ていく必要があるという思いを強くしました。判決は「本件犯行に特別不合理な点は見受けられない」として被告の完全責任能力を認めましたが、本当にそうなのかという疑問は今も残ります。

 もう一つは、直接の犯行動機を示唆する第9回公判での被告人と検察官とのやり取りです。篠田さんの報告によればそれは次のようなものでした。被告人は事件前、衆議院議長宛てに犯行予告ともとれる手紙を書いていますが、検察官はその手紙の意図について問います。

検察官 意思疎通のとれない障害者を殺しますと提案して、政府から反応があると思いましたか?
被告人 それ
は措置入院という反応だと思います。
検察官 措置入院というのが国の結論だと思ったのですか?

被告人
 はい。
検察官 国としては許可してくれないというのがわかった。

被告人
 はい。
検察官 でも役に立ちたいし、自分が気づいたから自分がやろうとした。

被告人
 はい。

 弁護人とのやり取りの中でも被告人は「措置入院中に犯行を思い立った。それまでは独断でやろうとは思っていなかった」という主旨のことを述べています。自分が強制入院の必要な精神障害者だと認めるのは、意思疎通ができないと判断した者を「心失者」と呼ぶ彼にとっては断じて許しがたいことだったでしょう。自分の行為を後押ししてくれると思っていたのに逆に強制隔離されたことで、国家に裏切られたという思いを強くしたかも知れません。措置入院の解除から犯行まで5か月近く経っているので若干の疑問もありますが、それが犯行に踏み切らせる最後の一押しになった可能性は否定できません。

 さて最後に、判決が事件の背景をどの程度解明したのかについて考えます。判決の「責任能力についての判断」のところです。事実関係については争いがなく責任能力の有無が裁判の唯一の争点だったわけですから、この部分、特に犯行を弁護人の依頼した精神科医が指摘した「動因逸脱症候群を伴う大麻精神病」によってではなく、合理的に説明できるかどうかという点は重要です。判決は次のように述べています。

 「本件犯行の動機は(略)被告人自身の本件施設での勤務経験を基礎とし、関心を持った世界情勢に関する話題を踏まえて生じたものとして動機の形成過程は明確であって病的な飛躍はなく、了解可能なものである」。

 問題はこの「本件施設での勤務経験」です。判決は「被告人は、仕事中、利用者が突然かみついて奇声を発したり、自分勝手な言動をしたりすることに接したこと、(略)本件施設に入居している利用者の家族は職員の悪口を言うなど気楽に見えたこと、職員が利用者に暴力を振るい、食事を与えるというよりも流し込むような感じで利用者を人として扱っていないように感じたことなど」をその具体的な「経験」の内容だと指摘してます。この「経験」こそが事件の動機の「基礎」だと言うのであれば、当然その「経験」が事実だったかどうかが突っ込んで検討されなければなりません。判決はしかし、それはあくまで被告人に「見えた」り「感じた」りしたことだという主観の問題に置き換えて、この重要な問題の検討を避けたのです。

 真相を解明するための最も重要な作業を放棄したまま、被告人の控訴取り下げによって事件に幕が下ろされようとしています。それが刑事裁判の限界であるのなら、その限界を超えるための努力が私たちの日常に求められています。