変言字在63既視感の向こうに

『むすぶ 595』(2020年8月発行)より




  強い既視感(デジャブ)を覚えました。7月23日、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性Yさんから依頼されて彼女を殺害したとして二人の医師が逮捕されたというニュースに接した時です。昨年私は本連載(第58回)で「『彼女は安楽死を選んだ』が見せなかったもの」と題して、多系統萎縮症という難病に罹患した日本人女性Mさんがスイスの自殺ほう助団体に登録し、渡航して死に至るまでを追ったNHKのドキュメンタリーを批判的に紹介しました。その時のMさんと今回のYさんのイメージが私の中で重なったのです。ともに神経難病を患う女性だったこと、死亡時の年齢は五十代はじめだったこと、その時は単身で生活していたこと(Mさんは一時期姉の家族と同居していたようですが)、発病前は闊達で仕事もでき友人も多かったことなど二人にはいくつも共通点が見られたので、私と同様の感覚を抱いた人は多かったのではないかと思います。

 もちろん二つのケースには大きな違いもあります。Mさんは自殺ほう助が違法ではない国に渡航し、自分が死ぬまでの過程をテレビカメラに追わせました。そこには番組に関わった人たちの、安楽死合法化に向けた議論を活性化させたいという強い意思を感じました。そして私の知る限り、日本からスイスに同行したMさんの二人の姉、テレビ局のスタッフたち、Mさんと自殺ほう助団体をつないだ人たちの中に、日本の法律で罰せられた人は一人もいませんでした。

 一方、今回のYさんのケースは刑事事件に発展しています。二人の医師は、Yさんの依頼を受けて彼女を殺害するという嘱託殺人(刑法202条の「同意殺人」)罪に問われています。ただしYさんの死から二人の逮捕まで8か月もかかっていることが気になりますし、現時点では二人の認否も明らかになっていません。報道によればYさんは事前に医師の口座に130万円を振り込んだということですが、発覚すれば医師生命を断たれる可能性が大きい行為をそんな金額で引き受けるだろうかという疑問もあります。そもそも本当に“事件”だったのかどうかも定かではありません。たまたま二人がYさんの部屋を訪れた直後に、他の医学的な理由で彼女の体調が急変した可能性も捨てきれないのです。情報が極めて乏しく、まだ起訴にも至っていない今の段階で二人を犯人視することは避けねばなりません。

 ただし、今回のケースが殺人事件だったのかどうか、二人の医師が実際に犯行に及んだのかどうかとは別に、Yさんと医師のツイッターやブログでの発言を通して彼女を死に追いやったものの正体が見えてくるような気がします。それが冒頭で「既視感」と表現したものの実態であって、私はそれを見過ごすことができません。

 Yさんのものと思われるブログの昨年6月(と言うことは死の5か月前)の「鏡の中の現実」という文章には、彼女の自己認識が鮮明に記されています。

 「5年近く右しか向いてなく、右耳の痛みに耐えきれず左向けるよう色々試してる。(略)左向いてもテレビが見えるようにと置いた鏡。避けてきた自分の姿を見るはめに。/普通にしてるのに眉間にしわの辛そうな顔。唾液が垂れないようにペーパーと持続吸引のカテーテルもくわえ、操り人形のように介助者に動かされる手足。/惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」。

 ブログやツイッターには同じような嘆きや、病気の苦しみ、死への願望が繰り返し綴られています。単に願うだけではありません。更に3か月後のツイッターは「とりあえず自分でできることを始めようと思う」という言葉で始まります。そして「ラコール以外の摂取(プロテインなど)を止める/カフアシスト(肺の拡張リハ)、週2PTのリハも呼吸に関わる範囲は止めてもらうことにした/これでどれくらい肺が弱まるか?」という文章が続きます。「ラコール」は経腸の栄養剤を「PT」は理学療法士を指しますが、ここで彼女は自分でできる範囲で死期を早めようとしているように見えます。

 でもそんな側面ばかりではありません。好きなテニスプレーヤーの話に夢中になったり、介護者のちょっとした工夫に感謝の気持ちを綴ったり、iPS細胞を使ったALS患者の治験が始まったというニュースに期待を寄せたりもしていたのです。彼女のような厳しい状態に置かれた時、生と死の間で心が揺れ動くのは当たり前のことかも知れません。現にそんな過去をくぐり抜けて今をしたたかに生きている障害者や病者を、私は何人も知っています。しかしYさんはそうではありませんでした。なぜだったのでしょう。

 ここで私はYさんを取り囲む状況に思いを致さざるを得ません。それは友人であり家族であり医療関係者であり介護者であり、社会であり私たちです。社会や私たちの問題はこれまで本連載で何度も指摘してきたことなので、ここでは置いておきます。少なくとも彼女に接する人たちの関わり方次第で、その人生の選択は大きく変わったはずです。とりわけ重要な存在が逮捕された医師だったと思います。

 繰り返しますが二人が実際に罪を犯したかどうかは分かりません。ただYさんが死亡する1年近く前から、医師の一人と彼女との間にツイッター上でのやり取りがあったのは事実のようです(例えば7月25日付朝日新聞)。その医師のものとみられる「高齢者を『枯らす』技術」というタイトルのブログには「わたしの立場」としてこんなことが書かれています。

 「私個人としては、神経難病などで『日々生きていることすら苦痛だ』という方には、(略)一服盛るなり、注射一発してあげて、楽になってもらったらいいと思っています。ただまあ、わたしも家族がいる身なのでそう簡単にも行きません」。「ヤバい仕事とは思いませんが、訴追されてプーになるリスクを背負うのに、まったくのボランティアではやってられません」。

 ブログの一部だけを取り上げて断定的に言うべきではないかも知れませんが、いかにも軽い。それが「枯らす」という植物的な表現を選んだことにもつながっているような気がします。そしてアマゾンで検索したら、逮捕されたもう一人の医師を著者とする『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術:誰も教えなかった、病院での枯らし方』という本がヒットしました。表現が酷似しているのは偶然でしょうか。それとも二人の医師の間には、単に軽いと言ってはすまない太いつながりがあるのでしょうか。ひょっとしたらそのつながりは医療従事者たちの間で密かに広がっているのでしょうか。

 早計に失してはいけませんが、テレビに登場したMさんの、ある意味で正面から発せられた問いかけに比べると、今回のYさんの“事件”はかなりの薄気味悪さを感じさせます。今後の推移を見守りたいと思います。