変言字在64渦中悶々記

『むすぶ 599』(2020年12月発行)より




 いま私たちがそのただ中にいる新型コロナウィルス禍は、今年11月末の時点で世界の6300万人が感染し145万人以上の命が奪われました。そして同時点で1日ごとに感染者は50万人、死者は1万人前後増え続けていて、その勢いは衰えることを知りません。ワクチンや治療薬の開発が急がれ、英国では12月から実際にワクチンの接種が始まるそうですが、その有効性や副作用については未知の部分が多く決して安心できる状況ではありません。

 14世紀にヨーロッパやアジアを襲ったペストや1918年から翌年にかけて世界中に拡がったスペイン風邪では数千万人から1億人が死亡したとされています。今回の新型ウィルスがそれらに匹敵するほどの被害者を出すとは思えませんが、私たちの経済や文化に匹敵するほどの被害者を出してほしくは生活、行動や思考に与える影響の大きさという点で歴史に刻まれるパンデミックの一つになることは間違いないでしょう。

 日本で最初に新型コロナ感染による死者が確認された今年2月13日以後の10か月を振り返ると、私個人もさまざまな生活スタイルの変容を迫られました。迫られたのではなく自ら選択したと言うべきかも知れませんが、その二つの違いは微妙です。日本では都市のロックダウンなどの強制力を受けることは(少なくともこれまでは)ありませんでしたが、マスク着用や社会的距離の確保、密閉・密集・密接の「三蜜」の回避など半ば強制に近い圧力を社会から受けたように思います。それにはもちろん、特に高齢者や基礎疾患のある人、そして医療から疎外された人たちを重症化させ死に至らせるやっかいなウィルスであること、それに対抗する有効な手段がすぐには獲得できないことなどの事情があります。

 さらにやっかいなのは感染症そのものの特性に関わります。被害と加害が「あざなえる縄」のごとく反転し、昨日誰かから感染したかと思えば、今日は誰かに感染させるという事態が一般化するということです。さらに発症までに10日から2週間程度の潜伏期間があるという事実が、事態を一層深刻なものにします。私たちは故意でも過失でもなく感染を拡げることに加担してしまうわけです。

 そこで行動パターンの変容が迫られます。ウィルスは人から人に伝わるのですから、最大の変容は移動しないこと、他者と出会わないことです。人間は社会的な動物であり、社会はまさに巨大な人間のネットワークで構築されていますから、この変容は社会に大きな打撃をもたらします。経済が疲弊し福祉や文化がやせ細り、もっとも弱い立場にいる人たちがまっ先にその犠牲となって生活や生命の危機にさらされます。

 人々が直接出会わないためにいま注目されているのが、AI(人工知能)をはじめとするIT(情報技術)です。かなり前から情報化社会は進行していますが、ここに来て一気にそのスピードが速まった感じがします。マス(大衆)のビッグデータが収集され、ある特定の場所で外出の自粛要請が出る前と後で人々の行動パターンがどう変わったかということなどもすぐに数値化されニュースで流されます。そのことに最初は違和感を覚えていた私も、示される数値に一喜一憂している自分を発見して驚くこともあります。

 「三蜜」を避けるために推奨されたテレワークやオンライン会議もコロナ禍を受けて一気に普及しました。来年古希を迎える高齢者の私ですら、月に数回の会議はほぼオンラインですし、自宅のパソコンのソフトやフォントを職場のパソコンの環境に合わせることでテレワークが可能になりました。ですから職場に顔を出すのは、いまでは週に2回程度になっています。

 そのように他者とのリアルな接触を避け、「不要不急」の外出を控える生活に悶々としながらも次第に馴染んでいく自分があります。でも考えてみれば、他者と私との間に得体の知れない機器や技術が介在し、それによってはじめて社会的な関係が成り立つというのはある意味でとても怖い。優秀で便利な手段であればあるほど、それを占有する者による支配の道具に転化しやすいのではないかと思うのです。現にGAFA(グーグル、アップル、フェースブック、アマゾン)は巨大グローバル企業として世界に君臨しているのですから。

 そんな時、『サピエンス全史』の著者として知られるイスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー記事(11月22日読売新聞)が目にとまりました。今回のコロナ禍が人類にとってどんな意味を持つのかと問われた彼は、人類の存続を脅かす三つの危機として核戦争、破壊的な技術革新、地球温暖化を含む環境破壊をあげ、破壊的な技術革新としてコロナ禍を通したAIやITによる監視体制の強化に警鐘を鳴らします。そしてその最先端を行く国として中国と米国の現状を紹介した後、こう続けます。

 「その先にあるのはAIが市民一人ひとりに『最適解』を差し出し、本人に意識させない形で思考と行動を操作する未来です。人間の自由意思を否定する未来です。(略)民主主義は繊細な花のように育てるのが難しい。独裁は雑草のように条件を選ばない。『コロナ後』の世界の潮流がIT独裁へ傾いてゆくのではないかと心配です」。

 私は将棋が好きでネットでプロのトップ棋士の対局を見ることもありますが、そこでは解説の棋士がAIに「最適解」を教えられ、その「解」の意味をいろいろ推測しては「でも、人間的にはその手は思い浮かばないなあ」などと嘆息するシーンによく出会うので、ハラリ氏の指摘にはハッとさせられます。ゲームの世界でならまだ許容できますが、AIがすでに私たちの実生活に浸透し「思考と行動を操作」し始めているとしたら問題は深刻です。

 楽観主義のハラリ氏はそれでも「民主主義は自らの過ちを認め、修正できる。脆弱(ぜいじゃく)ですが適応力もある」として民主主義の「自己刷新能力」に期待を寄せます。そして「自由民主主義の国々」(彼がそこに日本を含めるのには疑問がありますが)が三つの危機に正対し結束することを求めています。民主主義の柔軟さは一方でその弱さでもありますが、そこにこそ希望があるという視点は重要だと思います。私たちはいま、民主主義を無力化しようとするAIという怪物と相対しています。その一方で多大な犠牲と引き換えに得たコロナ禍という貴重な経験は、人が自由に移動すること、他者と出会うこと、集まって意見を交わし協同することがいかに私たちにとって必要不可欠であるかということを教えてくれます。ですから私もハラリ氏と「楽観」を共有しつつ、この危機の先を見据えたいと思います。