変言字在65崖のふちへの想像力

『むすぶ 601』(2021年2月発行)より




 一年を越えるコロナ禍は、それまで急速に浸潤していた新自由主義と手を携えて、人々を個に分断し、対立させ、他者や社会に対する信頼から遠ざけようとする流れを加速させています。そうして追い詰められた、受け身で陰鬱な個人主義は、「自己責任」という美しく非情な言葉に置き換わって、自分より更に追い詰められた人々を見つけ出し苦しめようとします。コロナ禍という不幸はウィルスがもたらす病や死だけでなく、この分断と対立のスパイラルにあるのではないかと私は思います。

 そのことはこの国の自殺者数の増加として現れているような気がします。1月24日の毎日新聞は、紙面の半分を使って「自殺者11年ぶり増加―コロナ禍 女性と若者顕著」という記事を掲載しました。日本の自殺者数は2003年の3万4427人をピークに減り続け、19年は2万169人と10年連続で前年を下回っていました。しかし、昨年の自殺者数は前年比3・7%増の2万919人。男性が女性を上回っているのは変わりませんが、男性は前年比1%減だったのに女性は14・5%増となっています。

 記事はもう少し期間を絞って昨年の自殺者数を見ています。それによればコロナの第1波(2〜6月)の時の自殺者数が過去3年間の同月比で14%減だったのに、第2波(7〜10月)では逆に16%増だったということです。その原因として、第1波では全国一斉休校によって学校での人間関係に悩む子どもが救われ、大人も時短勤務などで長時間労働による過労が解消されたのではないかという社会疫学の研究者による分析を紹介しています。一方で第2波では男性が過去3年間の同月比で7%増だったのに、女性は37%増、19才以下は49%増となっています。それについて研究者は、女性は失業に加え夫の在宅勤務によるドメスティックバイオレンス、若者は学校再開が影響しているのではないかと語っています。

 その分析に異議を唱えるわけではありませんが、女性と若者の自殺者数の増加にはいずれも経済的な苦境や孤立感、将来への不安が大きく影響していると思います。男性より増加が顕著なのは、女性や若者がそれだけ社会的に不安定な立場に置かれていて、そこをコロナ禍が直撃したからではないでしょうか。そして第1波で減っていた自殺が第2波で増えたことには、長期化するコロナ禍での疲弊に加えて、冒頭に触れたような私たち個々の寛容さの減退も影響しているのではないかと思います。

 人間も生きものである以上、その最大の使命は生きることです。その意味で自殺は、生きもの本来の在り方にもっとも背く行為だと言えます。でも人間は自殺をする。その原因として人間に特有な大脳皮質の巨大化と、それに並行して形成された複雑な人間関係や社会関係があるのは確かでしょう。私たちは過去を振り返り未来を想像し、他者の心に思いを馳せ共感します。その想像力や共感力は他の動物に類を見ないほど大きな集団を維持することを可能にし、地球の運命を左右するほどの強大な力を人間に与えました。しかしその想像や共感は不安や絶望につながって、自ら命を絶つ道を開くことにもなってしまいます。そういう意味で自殺は、人間の属性に否応なく貼りついた一つの困難だと言えるかも知れません。

 私が安楽死法に反対する理由もそのことに関わっています。私はこれまでいろいろな場所で安楽死問題について触れ、オランダやベルギーといった安楽死先進国は「自殺推奨社会」のような様相を呈していることを指摘してきました。安楽死合法化の最大の問題は、生きるに値する者とそうでない者を分別し、そうでない者を死に追いやろうとすることです。合法化を求める人たちがいくらそうではないと言っても、安楽死が合法化された国々ではその懸念が現実化しています。当初は、死期が迫っている、耐え難い肉体的苦痛がある、苦痛を除去する手段がない、成人である本人の明確な意思があるなどの厳格な要件が求められていましたが、それらは次第に緩和され、年齢制限がなくなったり、死期が迫っていなくても、あるいは精神的な苦痛だけでも認められたり、意志がはっきりしない認知症の患者に対しても実施されるようになりました。自殺は人間の属性に否応なく貼りついた困難だと先に書きましたが、安楽死法はその困難を克服しようとするのではなく逆に一層拡大するものでしかないと私は思います。

 人間は、か弱い『裸のサル』(D・モリス)です。集団を形成し社会を維持することでやっと今日まで生き延びることができました。ただ、その代償に獲得した属性の一部が時に人間を自殺に追い込むことがあります。でもそんな時いつも清明な理性と断固とした意志を持って死に臨むのではないと思います。緩和ケア医の西智弘さんが書いた『だから、もう眠らせてほしい―安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』(20年晶文社)の中で、精神科医の松本俊彦さんが自殺者の実際を語っています。

 例えば朝起きて遺書を書いて、その日の夕方に自殺した初老の男性の記録をたどっていくと、彼はその日の午後、ドラッグストアでボディーソープを買ったり、かかりつけの医師のところに寄って糖尿病の常用薬もらったりしていたことが分かります。またある自殺の名所に呼ばれ、自殺対策に協力してほしいということで監視カメラの映像を見せられます。「飛び降りる前に身支度を整えて、ずっと逡巡して逡巡して、最後には飛び込むんだけど、みんな最後まで何か握りしめているんです」。そこまで話した松本さんは「何だと思いますか」と西さんに尋ねます。答えあぐねていると「携帯電話なんですよ。人とつながるためのツールでしょ、携帯電話って」と松本さんが言います。逡巡しながら何度もそれに視線を落とすのを見ていると、「本当にみんな迷っているんだな」ということが分かると言うのです。

 もちろん松本さんが語るのは自殺者のほんの一部の例に過ぎません。しかしおそらく、人間が自ら命を絶つという行為の本質がそこに現れていると私は思います。コロナ禍が及ぼす影響は決して平準ではありません。もっとも厳しい状況に置かれた若者や女性たちに直接手を指し伸ばすことはできなくても、崖のふちで逡巡しているその人たちの姿を想像し共感し、「自己責任」を強調するだけの貧相な政治と社会を変えなければなりません。