変言字在66−「老・障」共闘?

『むすぶ 603』(2021年4月発行)より


 この5月で70才になります。「人生七十古来稀(まれ)なり」の「古希」です。もっとも本来は数え年で言うのでしょうから、古来稀な年をもう一年過ぎてしまったことになります。ついでに言えばこの杜甫の言葉は「酒債は尋常行く処(ところ)にあり」の後に続きます。つまり、どこに行っても自分が酒を飲んだツケがあるが、人間70才まで生きるのは稀なんだから、大いに飲んで楽しもうではないかといった意味なんですね。詩聖として名高い杜甫にそう言っていもらえれば、心強いことこの上ないというものです。

 子どものころ、70才のおじいさんと言えば、この世の道理を会得し泰然自若としてあの世からのお迎えを待っているというようなイメージでした。迷いや葛藤や、いわんや我欲などあろうはずがない枯淡の境地。ところが実際に自分がその年になって、それがまったくの見当違いであることが判明しました。いや、中にはそういう奇特な方もおられるかも知れませんが、少なくとも私の周囲に限っては皆無だと断言できます。それどころか、これは私に限ってのことかも知れませんが、年を重ねるほどに自分の未熟さを自覚する場面が増え、世の道理も矛盾や誤謬だらけに見えてきたように思います。そしてその自覚が私の生きる意欲につながっているように思います。泰然自若としてお迎えを待つなどという気分にはまったくなれないのです。

 とは言っても心身の衰えは隠せません。かかりつけの内科医のほかに歯科と皮膚科と耳鼻科の医師とだいぶ仲良くなりましたし、整形外科を受診するかどうかも迷っています。この数年、椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症に起因すると思われる坐骨神経痛に悩まされているのです。直立二足歩行を70年近く続けたのですから、当然と言えば当然の報いでしょう。幸い新型コロナ禍をなんとか無傷でやり過ごし、今のところ大病も経験していませんが、日々確実に個体としての生命が消滅に近づいているという実感があります。本を捨て服を捨て家具を捨てて少しでも身軽になろうとしているのは、明日死がやって来てもおかしくないと思うからです。

 ただ、それでもなお「いかに生きるか」を考えます。もちろん同じ問いでも、人生が永遠に続き選択肢も無限に用意されているように思えた思春期の問いとは質的に相当違います。強いて言えば「経験したものの延長上をいかに生きるか」という問いです。私の場合、ずい分長い間、障害のある人たちに多様なものの見方を教えられ、「あってはならない人間とは何か」というラジカルな問いに付き合わされてきましたから、その経験を拡散可能な形として残したいという欲望があります。障害者問題誌「そよ風のように街に出よう」を終刊した後、「季刊しずく」という同人誌を友人たち(その半数は障害のある人です)と始めたのもそういう思いがあったからです。

 そんな欲望をレコードのA面とすれば、もちろんB面の欲望もあります。美しい人や本や景色に出会い、遠くに旅をし、美味しいものを食べ、心行くまでハードバップのジャズや将棋に浸りたい。そのA面もB面も私であって、だから生に執着します。死を横目にしながら生にこだわる。そのスタンスは、若干比重のかけ方が違うだけで、思春期だろうが老年期だろうが基本的に変わりはないと思うのです。

 さて、くどくどと新米老人の一人としての思いを綴ったのは、貧しさの中で孤立したり施設の中で劣悪な環境に置かれ、死に急がされている老人が増えているのではないかという危惧があるからです。特にコロナ禍の今、高齢であることが生命を選択する上でのメルクマールの一つになっているのではないかと思うのです。

 例えば福祉国家として名をはせたスウェーデン。ご存知のように政府は当初、感染者が増えてもロックダウンなどの強硬な規制措置を取らず、人々は普段とほぼ変わらない生活を送ってきました。免疫を持つ人が多数になることで感染拡大を抑える集団免疫の考え方に基づいていると言われますが、有効なワクチンが届いていない状況で集団免疫を求めれば、当然ある程度の犠牲者が出るのを覚悟しなければなりません。現にスウェーデンの新型コロナによる死亡率は、隣国のノルウェーやフィンランドよりかなり高くなっています。

 少し古い記事ですが、昨年5月7日のフォーブス・ジャパンにスウェーデンのカロリンスカ大学病院に勤める宮沢絢子医師のインタビューが掲載されていました。その記事によれば、死亡者の多くは高齢者施設で感染し、重症化してもICUで治療を受けることなく亡くなっています。宮沢医師は、スウェーデンでは医療崩壊を防ぐために従来から一定の年齢以上の患者がICU治療を受けるのを規制していて、今回のコロナ禍でそれが一層厳しくなったと証言しています。

 コロナ禍で生命の選別とも言える事態に拍車がかかっているのはスウェーデンだけではありません。感染者数が多い他の欧米諸国でも、高齢者施設での感染による死者数が圧倒的に多いこと、医療現場では治療の優先順位を決めるトリアージが拡がっていて一定の年齢(例えばイタリアのある州では80才)以上の患者は集中治療の対象からはずされていることなどが報道されています。

 国内でもそれは現実のものになっています。1月12日の朝日新聞によると、ある関東の病院は重症の新型コロナ患者用の病床が足りなくなったため、人工呼吸器の装着などは希望しないという意思を表明している高齢者だけを受け入れています。また大阪では、昨年10月から12月の死者のうち8割近くが人工呼吸器やICUで治療を受けずに、つまり「重症者」とカウントされることなく亡くなっているということです。生命の線引きを行うのが国か、自治体や医療機関か、それとも本人や家族か。そういった違いはあるとしても、世界中で基礎疾患や障害のある老人の淘汰が進んでいると言っていいと思います。

 私自身も、そして障害者運動も、障害者と高齢者は違うんだ、だから介護制度の建て付けも基本的に違うんだという言い方をしてきました。そこに、老人は障害者と違ってただ座してお迎えを待つだけの存在だという先入観が潜んでいたのは否めません。でも70を直前にして断言できるのは、老人の中には欲望し葛藤し、世界を相手に喧嘩する気力を失っていない者も少なからずいるということです。そこに反「生命の選別」を掲げる「老・障」共闘の可能性を見たとしても、老人の世迷い言と切り捨てることはできないはずです。