変言字在68−女性のくせに、と言うのではない

『むすぶ 609』(2021年10月発行)より

 

 9月17日に自民党の総裁選が告示され、29日の投開票に向けて永田町界隈とメディアが騒々しくなっています。新型コロナウィルス第5波の猛威などどこ吹く風で、4人の候補者はみな頬を紅潮させて政権構想を語ったり、党員受けをねらってSNSで庶民らしさをアピールしたりしています。選挙権のない私はほとんど興味がないんですが、でも、自民党の総裁はそのままこの国の総理になる公算大ですから、まったく無関心でいるわけにもいきません。名乗りを上げた河野太郎、岸田文雄、高市早苗、野田聖子の4氏の中から選ぶのであれば、個人的な思いとしては、できれば野田さん、無理なら河野さん、何としても避けたいのが高市さん、といったところでしょうか。(本誌が発行されるころには結果が出ていて、名前を挙げなかった残る一人に決まる公算が大ではないかと予測しますが)。

 この選挙、もとはと言えば続投に意欲満々だった菅首相が再選を目指してあれこれ画策した挙げ句、それが無理だと知るや「コロナ対策に専念する」ために立候補を断念したところから俄然、盛り上がったものです。彼は当初、再選を果たすために幹事長以下党の役員を入れ替え、9月中旬に衆議院解散、総選挙後に総裁選挙というアクロバティックな日程まで頭に描いていたと言われます。ところが、緊急事態宣言の長期化や内閣支持率の低迷に横浜市長選の惨敗が追い打ちをかけ、間近に迫った総選挙を意識した議員たちの反発が予想以上に強かったために、断念せざるを得なかったと見られています。それにしても、断念の理由として「コロナ対策」を持ち出したのはいかがなものかと思います。実際に日々身を削るようにして新型コロナウィルスと向き合っている人たちに対して、とても失礼ではありませんか。「今まで一所懸命やってきたのに周りの無理解と不人気が腹立たしく、総裁への意欲を失った」と正直に言えばよかったのです。

  それにしても、総裁候補の半分が女性というのですから、自民党もまんざら捨てたものではないと思う方もいらっしゃるでしょう。確かにそういう評価もできます。少数とは言え、自民党の女性国会議員にはなかなか個性的な方々がいます。私がすぐに思い浮かぶのは、高市さん、野田さんのほか、稲田朋美、上川陽子、片山さつき、杉田水脈などの各氏でしょうか。上川さんは知名度はそれほど高くないかも知れませんが、3年前オウム真理教の幹部たち13人に死刑執行命令を発し、執行間近という夜に当時の安倍首相を交えた大宴会を催した法務大臣で、私は今でも彼女の顔を見るたびに気分が悪くなります。それはさておき、こうして見るとほぼ全員が党内右派に属しているようです(もっともリベラルに近いと思われる野田さんも日本会議や神道政治連盟の議員懇談会に名を連ねています)。女性の権利を主張する人に対して反感を抱く、性的マイノリティを忌み嫌う、貧困者や生活保護受給者を蔑む、歴史は勝手に都合よく変えられるものだと思っている、といった面々です。

 これは私の勝手な解釈ですが、自民党のような男優位社会では、きっと男以上に勇ましくないと、のし上がることはもちろん、生き延びることも難しいのでしょう。それは例えば日本に長く住む外国人が和服を着たり古典芸能に親しんだりして日本人以上に日本人的になろうとするような志向(それ自体が悪いと言うわけではありません)と似ていると言えなくもありません。高市さんや杉田さんを見ていると、派手な右翼パフォーマンスで安倍さんたち党の有力者の目に留まっていなかったら今の地位はないようにも思えます。それは私の偏見であって、彼女たちも一人の政治家として確かな政治信条を持ち、ここに至るまでに並々ならぬ努力を積み重ねてきたのかも知れません。それは否定しません。しかしやはり野田さんを除いてみな、家父長的な家族観と国家観に縛られているように見えます。家父長的ということは男尊女卑であり、男尊女卑ということは(女性議員にとっては)自分自身を卑しいものだと認めることだと私は思います。どうしてそんなことができるのでしょう。

 これは例えとして適当かどうか分かりませんが、障害者の中には大変な努力をして社会的成功をおさめた人たちがいます。普通学校から入学を拒まれ、失格条項のせいで資格も取れず就職も困難だったのに、それを乗り越えてたくさんの部下を持つ地位についた人もいます。その人たちの努力を否定するつもりはありません。それも一つの生き方だと思います。でもそういう人たちの一部に、同じ障害のある人に対する差別的な視線を感じることがあります。社会的、経済的に厳しい生活を強いられる中で、自分たちの権利を訴える障害者に対して「怠けている」「甘えている」「責任転嫁だ」といった冷たい眼差しを感じることがあるのです。私にはその視線と、自民党の女性議員たちが女性に対して向ける視線がどこか重なって見えるのです。

 先に名前をあげた女性議員の中で、とりわけその視線が印象に残るのが杉田さんです。彼女はこれまで、性差による役割分担は神が作ったものだから人間はそれを否定できない(『なぜ私は左翼と戦うのか』青林堂2017年4月)、生産性がないLGBT(性的マイノリティ)のために税金を使うべきではない(『新潮45』2018年8月)、待機児童の母親のブログ「保育園落ちた、日本死ね」をもとにした論争は前提が間違っていて、子育ては本来過程で担うべきだ(産経新聞「杉田水脈のなでしこリポート」2016年7月)などと、一貫して同性に対して厳しい視線を向けてきました。その一方で、従軍慰安婦像が立ったら爆破すればいい(『「歴史戦」はオンナの闘い』PHP研究所2016年)などと、突然自分を女性の代表に見立てて歴史の修正を試みたりしています。

 女性なんだから福祉を優先すべきだ、人権を第一に考えるべきだ、対話協調路線を取るべきだ、などと言いたいのではありません。そうした政治的な立場と性とは本来無関係です。私が言いたいのは、性的マイノリティや黒人や障害者たちと同様、政権党の女性議員もまた女性たちが差別や抑圧と闘ってきた歴史をしっかり見てほしいということです。そうした闘いの積み重ねがあったからこそ、あなたたちは今そこにいるのです。一人の政治家としての信条は、過去と現在に対する真摯な視線の上にはじめて築かれるはずのものです。