変言字在69−気がかりな技術

『むすぶ 613』(2022年2月発行)より

 

  科学技術の進展にはとどまるところがありません。今では私たちは、AI(人工知能)なしに一日も生きることができなくなったと言っても過言ではありません。人々は日々刻刻休むことなく、何かに急かされるように新しい技術を追い求めています。それは人間の宿命なのかも知れません。そうやって複雑なコミュニケーションを取得し巨大な社会を形成し、今やこの惑星の運命を左右するほどの力を得ることができたのです。もっとも、夜行性の小さなネズミを祖先に持つ私たちにはこの星の支配者になろうという野心などもともとなくて、ほかに生き延びる道がなかっただけの話かも知れません。

 800万年前にヒトの祖先が食物豊富で安全な森林から出て行ったのも、20万年前に私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスがアフリカを出て世界に散らばったのも、そこに何か心躍る夢や冒険心があったからではなくて、ただ生き延びるためだったと私は思います。そして不安と恐怖に満ちた新世界に到達したとき、一番頼りになったのが発達した大脳皮質とそれが可能にした技術だったというわけです。ですからある時代まで人々の豊かさや安全と技術とは相互補完的な関係にあって、そこには何も問題などなかったのかも知れません。しかし原子核の分裂が膨大なエネルギーを放出することを発見したときからか、あるいはそれよりずっと前、尖った石が武器になることを知ったときからか、私には分かりませんが、人間と技術はいつも良き同伴者というわけにいかなくなりました。

 そして現代、ご存知のように両者は強い緊張関係のもとに置かれています。本来は人間の幸福に資するはずの技術が、逆に私たちの生命や生活を脅かしています。それをもっとも雄弁に語るのが、世界で1万3千発を超える核兵器の存在でしょう。不信と憎悪に身を任せ、こぶしを振り上げて相手を威嚇することしか知らない人間の愚かさが、そんなとんでもない世界を作ってしまいました。核兵器の存在だけではありません。原発事故や地球規模の環境破壊の進行は、科学技術や専門性が持つ危うさを私たちに気づかせました。気づいたからと言って問題の解決が容易になるわけではまったくありませんが、少なくとも問題意識は多くの人に共有され始めています。そういう意味では、まだ絶望するには早いと言えるでしょう。では医療技術についてはどうでしょうか。その分野で現在進行している事態に、人々の関心は向いているでしょうか。それが気になります。

 以前私はこの連載で「始まりと終わりの話」と題し、10回にわたって出生前診断や安楽死の問題を考えたことがあります。それは私たちが、人間社会の仲間として誰を迎え入れ、誰をしめ出すのかを考えることでした。それは「あるべき人間像とは何か」を問うことですが、その答えを見つけるのは容易ではありません。西欧近代は「理性的で自立した個人」という人間像を打ち立てましたが、その人間像が一定の人々、例えば重い障害のある人たちを社会から排除しているのではないかと私は考えています。それが衝撃的な形で現れたのが2016年に相模原市で起きた知的障害者殺傷事件でした。あのような事件を繰り返してはなりません。そのためにも私たち一人ひとりが、「あるべき人間像とは何か」という問いの前で一度立ち止まる必要があります。

 しかし目まぐるしい医療技術の進展は、私たちに立ち止まることを許してくれそうにありません。ごく最近の事例を二つ紹介したいと思います。その一つは不妊治療の一環としての子宮移植です。昨年7月日本医学会は、少数に限って子宮移植の臨床研究の実施を認める報告書を公表しました。先天的に子宮が欠損しているロキタンスキー症候群や、がんなどの治療で子宮を摘出した女性に対して、その母親や姉妹から子宮を移植しようという試みです。この移植は生命に関わるものではないので、現行の臓器移植法では認められていません。それに子宮の摘出も移植も大手術で、ドナーやレシピエントの身体への侵襲はかなり激しいものです(出産の後、レシピエントの体には再びメスが入って“御用済み”の子宮が摘出されます)。仮に手術に成功しても、免疫抑制剤がレシピエントや胎児に与える影響は決して無視できません。

 そんな「リスクが十分明らかにされていない未成熟な医療技術」(日本医学会の報告書)に頼ってまで、自分のおなかを痛めて子どもを産みたいという女性の願いは尊重されるべきだ。移植に踏み切るのは余程の決意なのだから、その願いが実現するよう医療が貢献するのは当たり前だ。多くの人がそう思うかも知れません。でも慎重にならなくてはなりません。女性がそこまで思い詰めたのには、「あるべき女性像」という価値の押しつけと、その価値の内面化があったからではないでしょうか。それは、少し視線をずらすと、医療という技術が女性の幸福に奉仕するような素振りをしながら、実は社会の価値観を増幅させて女性を追い詰めているように見えないでしょうか。

 もう一つ気になるのは受精卵の着床前診断です。これは受精卵から一部の細胞を取り出して遺伝子や染色体の変異を調べ、正常である可能性が高い受精卵だけを子宮に戻すというものです。以前の連載で私は新型出生前診断の問題を指摘しましたが、着床前診断は体外受精させた卵を子宮に戻す前の段階(胚)で検査しますから、胎児の中絶を伴わない分、生命の選別という抵抗感は薄らぐと言えます。日本産科婦人科学会はこれまで着床前診断の対象を、成人までに亡くなったり日常生活を強く損なったりする重篤な遺伝病に限定していたのですが、今年の4月からその対象を有効な治療法がない場合に限って成人後に発症する病気にも広げるという見解を発表しました。

 子宮移植も着床前診断も、体外受精という医療技術を前提としているのは言うまでもありません。医療者の目の前には受精卵(将来の胎児)が存在しています。そして最先端の技術は、その受精卵を遺伝子レベルで解析することを可能にしています。それでも技術は“自制”できるでしょうか? 「できる」のに「やらない」などということができるでしょうか? その時、技術は奉仕者の姿をしながら、「あるべき女性像」や「あるべき人間像」を私たちに押しつけようとしているのではないでしょうか? それが気がかりです。