■ 変言字在74−Sくんの手かざし『むすぶ 627』(2023年4月発行)より |
もう30年以上会っていないので、今も健在なのかどうかすら分かりません。私と同年代の彼(仮にSくんとします)には身体障害があり、長い入院生活のあと大阪府下のある街で単身アパートを借りて生活していました。車いすを利用していましたが、たいがいのことは一人でできましたし、当時は利用できる介護制度などないに等しい状況でしたから、アパートを訪ねるとたいてい一人で本などを読んでいました。私には孤独そうに見えましたが、子どものころから病院の窮屈な集団生活を強いられていた彼は、そういう一人暮らしを渇望していたのかも知れません。 Sくんは、私が編集をやっていた雑誌『そよ風のように街に出よう』の「販売取次者」でした。『そよ風―』は本屋さんには並べず、障害当事者をはじめさまざまな人たちが「販売取次者」として協力してくれたのですが、Sくんもその一人だったのです。ですから年に数回、『そよ風―』を発行するたびに私は彼のアパートを訪ねていました。どんな理由だったのか思い出せませんが、何年かしてSくんは「販売取次者」を辞めたので、そんなに長い付き合いではありませんでした。
それほど深い付き合いではなかったSくんのことを思い出したのは、昨年7月の安倍元首相銃撃事件に端を発して、この間、宗教の問題が巷間を騒がせていることと関係します。当時の話に戻ります。ある日、雑誌を抱えてSくんを訪ねた私が何気なく「最近、腰の調子が悪くてね」とこぼしたのです。するとSくんが「ちょっと向こうを向いてみて」と言います。そして後ろで腕を伸ばすと、私の腰のあたりに自分の手のひらをかざしました。
手かざしをしながらSくんは、「どんな病気や障害も、これで治すことができるんだ」と言いました。そして私の不思議そうな顔に気づいたのかどうか、こう続けました。「でもね、ボクの障害だけは治せないんだ」。それを聞いて私は、やはりこの一連の行為はジョークだったんだと胸をなでおろしました。「何だ、驚かさないでよ」と言おうとしてSくんの顔を見ると、その表情がいたって真剣だったのでもう一度驚くことになりました。 人間にはいつも不安が付きまとっていて、自分や世界を説明してくれる簡明な言葉を追い求めています。その欲求に応えようとするものの一つが宗教だと思います。世界にはそれぞれ異なる歴史を持った無数の“説明”があり、一言で宗教と言ってもその中身は千差万別です。その教義や現実の政治や経済との関係はさまざまですから、それらを十把一絡げに論じるのは少々乱暴でしょう。だいいち私には、そのように宗教全体を射程にして論じる力量などありません。 ただ、多くの宗教に共通するものがあるとしたら、それは一つの世界説明を確信にまで高める構造を持つことではないかと思っています。すぐれた説明は人々を引きつけ、やがてその心に確固とした信念をもたらします。世界と人間はどのように誕生したか、現世の苦しみはどこからやってくるか、いかに生きるべきか、生の前と死の後には何が在るか…。宗教はそれらの困難な問いに答えることで人々を支えようとし、人々は確信することでそれに応えようとします。教えと信仰の間には、そういう双務契約が存在すると思うのです。 それが一つの“説明”であるかぎり、宗教的な確信の根拠には終着点があります。それ以上は根拠をたどることができない場所です。文字として遺されたものとしては教典や創始者の言行録などがそれに当たるでしょう。こういう言い方が適当かどうか分かりませんが、そこに記されている事柄は、それ以上根拠をたどれないという意味で一つの仮説です。 もちろん仮説は宗教だけでなく、自然科学や社会科学の世界にもあふれています。ただ、それらの世界では仮説はさまざまな視点から議論され検証されます。そして修正を受け、深められ、ときに否定されます。進化論や宇宙論や生命科学やAI(人工知能)の成果は、そうして私たちが手に入れたものです。では宗教はどうなのでしょう。 この国の憲法20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定しています。それはとても重要な基本的人権の一つだと思います。ただ、旧統一教会などに限らず、ある宗派が現実(俗世)と激しく対立し、現に人々の生活が破壊され自由や生命が奪われているとき、私は宗教の側に、一定の認識が要請されるのだと思います。それは、「自分は教義を確信しているが、ただしその世界説明は一つの仮説なのだということも理解する」という認識です。
“確信”は私たちをして多くの困難を乗り越えさせる力を持っています。と同時に他の“確信”とぶつかったとき、相手を全否定しようとすることもあります。だからこそ、確信しつつ、確信への疑いは常に自分の中に保持しておかないといけない。Sくんの手かざしからはずい分遠くに来てしまったようですが、もともと思想軟弱な私でもそう心しているのです。 |