変言字在75逆立ちした“人権”

『むすぶ 631』(2023年8月発行)より

 

 刑事司法に「10人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という有名な格言があります。「無辜」は「むこ」と読み、無実の人を意味します。被告人が無罪を主張する裁判では、訴追する側に有罪を立証する義務はありますが、訴追される側に無罪を立証する義務はありません。この格言は、「有罪立証を厳格にすることで、仮に有実の犯人に無罪を言い渡すことがあったとしても、いい加減で恣意的な立証で無実の人を有罪にすることがあってはならない」と言い換えることができます。この刑事裁判の大原則は「無罪推定」、「疑わしきは被告人の利益に」という言葉でもよく知られています。

 その重要な原則がこの国で遵守されているかどうか、長年、知的障害者の冤罪事件(野田事件)に関わってきた私としては大いに疑問を持っています。7月10日、袴田事件の袴田巌さんの再審公判で、静岡地検はあくまで有罪を立証する方針を表明しました。事件から57年、地裁による再審開始(同時に死刑と拘置の執行停止)決定から9年が経過し、袴田さんは既に87歳です。再審開始決定以降、18年に東京高裁が開始決定を棄却すると、20年に最高裁がその棄却決定を取り消して高裁に差し戻し、そして今年3月には高裁が開始決定を支持する決定を出しました。つまり、裁判所は3度も再審開始を決定しているわけです。しかもその間に最大の証拠とされる「5点の衣類」の証明力は否定され、捜査機関による証拠ねつ造まで指摘されています。それでも検察は、あくまで袴田さんの有罪を求めて公判を長期化させようとする。そこに「一人の無辜を罰するなかれ」という箴言(しんげん)の全否定を見るのは、私だけではないはずです。

 そこには、人権という概念に対する誤った認識があるのだと思います。「誤った」と言うより「逆立ちした」と言った方がいいかも知れません。先に紹介した刑事司法の大原則は、少数の者の人権が多数の者の利益のために踏みにじられてはならないことを意味しています。これが近代以降、私たちが血塗られた歴史を経てやっと獲得することができた人権という概念のキモです。ところがこの国には、少々の無理があっても不審な人物は塀の中に閉じ込める(場合によっては殺す)ことが社会のために必要だという考え方が根底にあって、それが人権侵害の最たるものである冤罪事件を生んでいるのではないかと思うのです。私が「逆立ちした」と言うのはそういうことです。

 そのような人権に対する認識が幅を利かすのは、刑事司法の分野に限りません。直近の例で言えば、この6月に国会で可決・成立した入管法(出入国管理及び難民認定法)の改定です。入管施設への恣意的で無期限の長期収容、職員による暴行や不当な拘禁、貧弱な医療体制などを是正することが改定論議のそもそもの発端だったはずです。それがいつの間にか「送還忌避者」への対策にすり替えられ、難民認定すべき相当の理由がなければ3回目以降の申請者は強制送還することが可能となりました。

 入管庁はその理由として「難民申請中は送還が停止となる現行法の規定を利用して不正に申請を繰り返す人々」の存在を強調します。そういう人はゼロではないかも知れません。でも入管行政が抱える問題の本質はそこにあるとは思えません。難民申請を認めるかどうかは、その人の自由や生命に直結する極めて重い判断です。この国の難民認定システムが正常に機能し、人権侵害をしっかりと食い止めることができているかどうかが重要です。仮に不正に難民認定される者が出たとしても、不当に申請を却下したために人権を蹂躙され命を脅かされる者が一人でも出てはならない。これが人権思想のカナメです。しかし入管法の改定において明らかになったのは、この国が外国から逃れてきた人たちに対しても、刑事司法と同様の「逆立ちした」認識を持っているということです。

 さらに思い起こすのは、10年ほど前から激しくなった生活保護の受給者に対するバッシングです。あるタレントの母親の生活保護受給が明るみになったことに端を発したバッシングは、自民党をはじめとする右派の国会議員たちにかっこうの攻撃材料を与え、生活保護の給付水準の引き下げや給付条件の厳格化をもたらしました。さらに深刻なのは、その過程で受給者の人権が制限されるのは当然だと公然と語る政治家が現れ、受給者の人格を否定するような空気が社会に蔓延したことです。そこには、生活保護は憲法25条が保障する当然の権利だという認識の欠片(かけら)も見ることができません。

 確かに不正受給者の数はゼロではないし、暴力団などの貧困ビジネスに利用されるケースもありました。しかし先の入管法改定と同様、ここでも問題の本質がずらされています。肝心なのは、仮に幾人かの不正受給者を出したとしても、申請が受け付けられずに困窮して自殺に至ったり、世間体(社会の圧力)を気にして申請をためらったために餓死したりというケースを一つも出してはいけないということです。一人の不正受給者も出さないためなら、給付条件をどんどん厳しくして、結果として正当な権利を奪うことがあったとしても許されるというのは「逆立ちした」考え方です。

 さてここまで、この国の人権に対する認識について私の捉え方を述べてきました。少々くどいと思われた方もあるでしょうが、私としてはまだまだ言い足りません。スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」が毎年公表している「ジェンダー・ギャップ指数」を見ても、そしてこの6月に成立したいわゆる「LGBT理解増進法」の成立過程などを見ても、この国は依然として“古き良き”家父長社会への回帰願望を捨てきれていないようです。日本はまだまだ“人権後進国”なのです。

 最後に誤解のないよう付け加えれば、私は欧米のいわゆる“人権先進国”にもっと近づこうと言いたいのではありません。それらの国々がダブル・スタンダード(二枚舌)を駆使して他国の主権を踏みにじり、多くの人命(人権の基礎)を奪っている事実から目をそらしてはいけないと思います。それに、それらの国々で安楽死法による生命の選別が加速度的に進行していることにも注意が必要です。“人権”の徹底・深化はどの国にも、それぞれの実情を反映した形で問われているのです。