変言字在76(最終回)−20文字との格闘

『むすぶ 635』(2023年12月発行)より

 

 石井裕也監督の『月』を観ました。2016年に相模原市の「津久井やまゆり園」で起こった障害者大量殺傷事件を扱った映画です。辺見庸さんの同名小説をもとにしていますが、原作からはかなり自由に、ただし主要な視点は失わずに映像化されていると感じました。と言っても、事件を起こした植松青年に特有な、傲慢と軽率を含んだ精神性と、事件が差し出したテーマの普遍性の両方を一つの作品で描き切るのはとても難しい。観終わったとき、観る前に予想した通りのそんな感想を持ちました。

 コロナ禍の前から劇場で映画を観る機会はずい分減って、たいがいはアマゾン・プライムビデオで済ませている私が、それでも重い腰を上げて大阪・梅田のシネコンまで足を運んだのは、以前、雑誌の取材でお話を伺ったことのあるNさんからメールをもらったからでした。彼は事件よりだいぶ前にやまゆり園で働いた経験があり、事件後は殺害された知的障害者たち(そのほとんどが匿名とされた)の足跡を記録する活動を続けていました。そして今回の『月』の映画化にあたって、企画や制作の段階で協力していたのです。メールは「生命の尊厳さについて、『自分ごと』として多面的に考えさせるつくりになっていると思うので、ぜひ観てほしい」と結ばれていました。映画は確かに、高齢出産に臨む女性や、彼女が働く施設での障害者や職員の姿をリアルに描いて、「さあ、あなたならどうする?」と観る者に迫ってくる力を持っていました。もうロードショーは終了したでしょうが、自主上映などの機会があればぜひ観てほしいと思います。

 さて、前述した「事件が差し出したテーマの普遍性」が優生思想を指すことは、改めて申し上げるまでもありません。〆切を過ぎたり休載したり、とてもわがままだったこの連載で、私が考えたかったもっとも大きなテーマがこの優生思想でした。そこで第37回から46回まで10回にわたって、「始まりと終わりの話」と題して人間の始まり(出生)と終わり(死)に関わる問題を取り上げました。

 その初回(本誌bT31)の冒頭に私はこう書きました。

 「さまざまな障害を持つ人たちと付き合う中で、私には一定の思考パターンが身につきました。あるものごとの価値を判断し自分の行動を決定する際に、ソレはもっとも重い障害をもつ人にとってどんな意味を持つのか、という考え方をするようになったのです。とりわけ人間の生き死にに関わる問題を考える時にその傾向は顕著です。(略)具体的に言うと出生前診断、不妊治療、脳死・臓器移植、終末期医療、尊厳死・安楽死などです。これらの問題は、突き詰めていくとすべて『人間とは何か』という問題に突き当たります」。

  「人間とは何か」という問いには抽象的で非日常的な響きがありますが、右に上げた具体的な場面で、現に重い障害のある人たちは「本来の人間とは言えない存在」として淘汰されています。普段は意識されにくいのですが、そういう現場では常に「人間とは何か」という問いへの答えが前提とされています。その答えを導くのが優生思想です。この「優秀な者を増やし劣悪な者を抹消する」という思想との対峙抜きには、障害者を社会から排除しようとする流れは止まらず、したがって「誰もがともに在る」社会の実現などは夢のまた夢です。

  そういう思いで始めた「始まりと終わりの話」の9回目を書いている最中に、相模原市であの殺傷事件が起きました。私は大きな衝撃を受けましたが、事件の実相が十分に明らかになっていない段階で軽々に論評することは避け、精神障害者の措置入院制度の見直しや管理の強化、入所(収容)施設の防犯対策の強化といった事件後の動きへの警戒感を記しました。そして、植松青年が事件の半年前に衆議院議長に宛てて書いた手紙を紹介し、彼が当時の安倍政権を自分の味方だと信じて疑わなかったことに注意を促して、「今回の事件は、私たちが支えている現在の日本国家がどんな価値観によって形成されているのかを、一人ひとりがじっくり考えることも要求しているように思える」と拙稿を結びました。

  その「価値観」には、安倍政権の戦前回帰的な政策を支えるものだけでなく、広く優生思想も含めたつもりでした。私たちは「自分ごと」として、その「価値観」を捉え直さないといけない。その思いはいまも変わりません。

 最後に一つのエピソードを紹介したいと思います。事件後に地元の神奈川新聞に掲載された記事で、その後、単行本の『やまゆり園事件』(神奈川新聞取材班/2020年幻冬舎)に「ある施設長の告白」として収録されたものです。事件の後、川崎市で障害者施設の施設長を務める中山満さんは、以前自分の施設で働いていた高齢の職員に街中でばったり出会います。そこで交わされた会話の中の一言に、中山さんは愕然とするのです。

  「仕事熱心で優しい人柄だった元アルバイト職員の思わぬ共感に、身近に潜む問題の根を突き付けられた思いだった。
 障害者に接し、十分理解があると思われる人ですらとらわれてしまう差別感情の芽は、どのようにして生まれるのか。施設のありようと無関係とは言い切れない、と中山は言う」。(『やまゆり園事件』 p.249)

 その元職員は「気持ちは分かるけど、殺しちゃいけないよね」と言ったのです。ただそれだけです。実際の会話が目に浮かぶようです。「やあ、やあ、お久しぶり。お変わりないですか?」「はい、何とか」「ところで大変な事件が起きましたねえ」「ほんとにねえ…」と、それに続けて出てきそうな、さりげない一言。

 「なんだ、それだけか」と思われたでしょうか? 数えてみるとたったの20文字。でも本連載を含めて、私が何十万字も費やして挑んできた相手はこの20文字だと言えなくもないのです。あまりにありきたりで、陳腐ですらある。でも、と言うか、それゆえにと言うか、この相手は相当に手強い。いつになったら打ち負かせるのか、見当もつきません。ただ、遠い将来のことははっきり言えなくても、そこに至ろうとする努力に大きな意味があるのだということは、はっきり言えます。本誌とともにこの連載は終わりますが、20文字との闘いは当分続きます。

 ではみなさん、いずれ、どこかで。

 

※ 『月刊むすぶ』は 636 (2024年1月号)をもって休刊となり、私の連載も今回で終了となります。
  読者のみなさんには、長い間つたない文章にお付き合いいただき、心から感謝します。
  隔月寄稿の約束でスタートしたのに、〆切に間に合わなかったり、挙句、休載にしたりと、とてもわがままな執筆者で、
  発行人の四方さんにはずい分ご迷惑をかけました。この場を借りて、お詫びします。