「障害」者解放・人間解放             西岡 務

 

 小学校へ上がるころ、近所の友達と毎日仲よく、楽しく遊んでいました。歩くこともおぼつかない私で、食事もトイレも母親の手を借りないとできないぐらいの重度の障害を持っていたわけですが、周りの子どもたちは仲よく遊んでくれて、楽しかった思い出を持っています。毎日、四、五人の友達が家に遊びに来て一緒に遊んでくれる。それが、遊んでやる、遊んでもらうというような関係ではなくて、当たり前の子ども関係であったように覚えています。

 そんな楽しいある日、私の一番仲よしの子どもが私の家へ「今から学校へ行ってくるで」と言ってあいさつをしに来てくれました。彼と私は同年代ですから、当然同じ時に同じ学校へ行くもんやと思っていました。ところが、彼が「今から行ってくるで」と言いに来てくれた、そのことが何のことか一瞬分からなくて、茫然として彼を見送ったことがあります。

 その後で親父に「どういうことか」と聞くと、「教育委員会の人が来て、おまえとこの息子は非常に障害が重いから、うちの校区の学校へ来てもうたら困る。一年待ったら近くに養護学校という障害児ばっかりが行く学校ができるので、そこへ行かしてあげるから待ちなさいと言われた」というふうに説明をしてくれました。子ども心に腑に落ちない、なかなか納得ができないことだったんですが、学校へ行けるんやったらええやろうというふうに思いまして、一年間待つようになりました。

 その一年間、私の生活には若干変化が出ました。当たり前と言えば当たり前ですが、私の友達は自分よりも小さい子どもたちしかいなくなった。弟や妹というふうな感じの友達しかいなくなった。同年代の人たちは学校へ行ってしまって、遊んでてもおもしろないなということを感じながら、一年間、学校へ行くのを待っていました。

 やっと養護学校が開校されて、小学校一年に入ることができました。家から二キロほど離れたところで、幸い近い方の部類だと思いますが、学校へ行って初めて自分以外の障害者がいてるんだなということが分かりました。それまで、私は体が悪いというのは分かっていたわけですが、周りは全部五体満足の健常者の方ばっかりですから、私みたいな障害を持つ人が他にいてるなんてのは知らなかった。学校へ行って初めて見た時に、異様感と言いますか、こんなことを言うと怒られますが、違和感とでも言うんですか、そういうのがありました。よくよく考えてみると、私もその違和感を与えている一人なんですが、そういうふうに思いました。

 そんな第一印象で始まった学校生活も、時が過ぎるにつれて楽しくなってきました。それというのも、養護学校へ行くまでは、私の周りは全部健常者ですから、私が一番障害の重い人になっていたわけですが、学校へ行くと私よりも重い障害を持つ人がいましたので、何となくリーダー的な存在になったようです。それが自信にもつながったんだろうと思うんですが、楽しく過ごしました。

 三年、四年と時が過ぎるにつれて、家で遊んでいた友達はだんだん遠ざかっていきます。近所で一緒に遊んでいたのに、自分たちの学校で遊んだ方が楽しいということで、お互い遠ざかっていきます。ほとんどしゃべらなくなっていたある日、一番仲よしの同年代の彼が、自分の学校の友達を四、五人連れて、道の向こうからこっちを向いて歩いてくる。彼らとすれ違うような格好で道端で出会いました。私は久し振りに会った彼に何て声をかけようかと思いながら、あるいはちょっと照れくさい感じを持ちながら、彼らとすれ違った。その時に、一番仲よしだった彼がこっちを見て、「おい、見てみいや。けったいな格好して歩いとんで。みんな見てみ、おかしいな」と言って笑うわけです。その時の光景というのが、今でも忘れられない光景の一つであります。信じていた者に裏切られるというような感じなんだろうと思うわけですが、そんな感じを持ちました。学校が違う、生活の場が違うということが、子ども関係の中にそれだけ冷たいものを持ち込んだんだなというふうに思えてならないわけです。もし彼らと同じ学校へ行ってたら、こんな思いはしなくてよかったのに……というふうに思います。

 

●1985年、関西大学での西岡務さんの講演“「障害」者解放・人間解放”より一部抜粋(本文より)

 


 


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