新・私的「障害者解放運動」放浪史 1

『そよ風のように街に出よう73号』(2006年3月発行)より

ボクの始まりの前史

 

 巷に、南こうせつ歌うところの「神田川」が流れていた一九七三年、フォークソングの春。ボクは、その前年に始まった、映画「さようならCP」上映運動にかかりっきりになっていた。約一年の若い歴史を経て、上映実行委員会は、上映事務局に姿を変えてもいた。寄せ集め集団から、機動性のある上映体制へ。また、ホンの少しずつだったけれど、上映によって集まってきた、障害者市民情報をパンフレットの形にする作業にも、手をつけていた。

 上映運動が始まった頃、ボクにも、事務局に集まるエエ加減な連中にも、障害者市民の情報も、チエも、ほぼ皆無だった。いわゆる、七〇年反戦、反安保闘争のなれの果てばかりだったのだから仕方のないことだったし、世間様には、障害者市民施策、制度が絶無。今日、ヘルパーと称せられるひとは、家庭奉仕員とか、家政婦さんと呼ばれ、ひとつの行政区単位に、ひとりほどが配置されているくらいで、その仕事の殆どが、相談業務だった。そんな時代。

 上映当初は、上映主体のボクたちが「さようならCP」を観て、ブッたまげていたのだから、全く問題にならなかった。そこで、映画を作った「日本脳性マヒ者協会青い芝の会・神奈川県連合会」から、お師匠さんをお呼びして、映画を上映した後で、小さな講演をしていただくことになった。最初に、新大阪駅前にあった、上映事務局においでになったのが、横塚晃一さん(一九七八年、癌によって逝去。享年四二歳。全国青い芝の会総連合会初代会長・脳性マヒ者)だった。

 ボクたちは、無我夢中になって、酒精の力を借りながら、横塚さんからの、深く、広いレクチャーを消化しようとした。消化できたかどうかは、今だに判然とはしないけれども。その次においでになったのが、寺田さん(寺田寅彦のお孫さん)、そして、三番目に横田 弘さんだった。

 

●健全者は、敵ダ

 

 二〇〇五年、某月、某日、日本脳性マヒ者協会・大阪青い芝の会設立三〇周年記念シンポジウムに、お呼ばれで出かけた。タイトルは、「青い芝運動を振り返って」だった。青い芝の会本体が、青い芝運動を振り返ってどないすんじゃろかとも想ったけれど、同席するひとが、「ソノ横田 弘さん」だったので、スッ飛んで行く。映画「さようならCP」のラストシーンで、スッ裸で登場した、大先輩方のおひとり。映画をごらんになった方には、印象の残像があるハズだ。その横田さんと掛け合い話をするのだから、いささか緊張した。既に恥ずかしながら、横田さん七二歳、ボク六三歳となっている。ボクが最後に、横田さんにお目にかかったのが、一九九〇年、国際障害者年、東京で開催されたラストイヤーイベントだったから、一五年の歳月が、風や水のように流れたことになる。すでに老境にあり、二次障害、アテトーゼもすすんでおられ、昔はハッキリ聞き取れた言葉も、ボクの努力不足もあって、かなり怪しくなっていた。「河野さんとは、もっと話し合っておくべきだったなぁ」と、声をかけていただいた。感涙モノ。シンポのなかで、昔と変わらぬテーゼ、「健全者は、敵ダ」が、横田さんの口から飛び出した。昔は、いいっ放しだったけれど、シンポでは、「健全者という概念があるかぎり、障害者という概念はなくならない」と、柔らかく補足された言葉に、遥けき時代の流れを痛感した。

 ここからは、次号より念入りに展開したいと想う「にんげんの感動」に連なるものがたり。

 では、なぜ、「(新)私的『障害者解放運動』放浪史」なのか。

 

●新には、新のワケがあり

 

 ボクが代表を務める「豊能障害者労働センター」という団体の機関誌「積み木」に、約一〇年くらい前から、「そよ風のように街に出よう」編集長の肩書きで、「私的『障害者解放運動』放浪史」を書き連ねてきた。ボクが出会ったひとびとが「かく闘えり」と、確かにあったメモリィを活字に化けさせておくのも、ナニかの役に立つのではあるまいかの想いからだった。連載回数は六一回に及び、かなりの読者からご好評をいただいていた。(自画自賛の気味あり?)六二号に至り、ある「通所授産施設」をシャレ批判したところ、「積み木」編集部から、「この部分を削除してほしい。削除できなければ掲載しない」との指摘を受けた。ボクとしては、もの書きのハシクレとして、「いいたいことを、いいたいときに書く」のが信条であり、余程の事実誤認があれば、削除もやぶさかではないけれど、ボクが感じた事柄を、ボクの言葉、文体で書いた文章の削除に応じられないのは、自明の理なのだ。「想ったことを、一人称の責任で書く」ことを譲ることはできない。ましてや、団体代表としてではなく、「そよ風のように街に出よう」編集長の立場での文章である。ちょっとカッコよくいえば、ひとつの完成された作品を、ときの勢いに任せて「ある部分を削る」ことなぞできようハズがない。そういう、ちょっとアブナイ文章を書く人物として、知るひとぞ知る、業界世界では、ツトにユーメイなんだぞと、ハッタとタンカのひとつも切りたくなった。「批判なくば、腐敗あり」なのだ。ボクの書いた文章に、批判があれば、その批判を受けようじゃあないか。批判を恐れるあまり、書いた文章を削るようなことはしたくない。批判は、元気のための栄養なのだ。批判あればこそ、ボクには勇気が宿る。

 今、ボクの手元に「積み木」編集部からの“『私的「障害者解放運動」放浪史』掲載中止について”と題する一文がある。ボクのいい分ばかり書き連ねるのも、不公平のそしりがあるかもしれないので、本誌連載一回目を記念して、積み木編集部のいい分を掲載する。その上で、本誌74号からは、「新・私的「障害者解放運動」放浪史」として、全面展開! 読者のみなさんにお目もじさせまする。

 まぁ、ボクが編集長であるかぎり、ボクの原稿の削除はありえないのだから、書きたいコトを書く路線。冒頭書いたように、映画「さようならCP」の主演者のおひとりである、横田 弘さんとの、出合いのメモリィから、つまり、一九七〇年代初頭からのあれこれを主題に、ボクたちは、ナニを目指し、どこに行こうとしているのかを、書き綴る決意でアリマス!(尚、この企画の出どころ因縁から、様々な障害者市民団体機関紙・誌への転載希望には応じます。すでに三団体からの転載希望が寄せられています)

 

●積み木編集部のいい分

 

「そよ風のように街に出よう」編集長 河野秀忠様
2005年
1025
豊能障害者労働センター
機関誌「積み木」編集部

  私的「障害者解放運動」放浪史
掲載中止について

 このたび、私的「障害者解放運動」放浪史「その62」掲載にあたり、原稿の一部分の削除をお願いした件について「積み木」編集部としての見解を述べさせていただきます。

 機関紙「積み木」の「編集方針」は、その読者の対象として障害者運動の組織に属さない人、日頃、障害者とは直接関係のない人も含めて、「組織」ではなく、「ひとりひとり」を想定し、メッセージを届けることを大切にしています。あくまでも「ひとり」に対して語りかける、そのことを基本にしたいと考えています。その方針に基づいて考えた時に、今回の「カゲ口」は河野さんの気持ちは理解できるものの、何とか心の中に留めておいていただきたい、「積み木」には載せられないというのが編集部の総意としてありました。

 施設を批判すること自体がいけないということではなく、むしろそのことは必要なことであると考えます。しかし、もし「積み木」でそのことを言うのであれば、なぜそうなのか、何が問題点なのか、そして自分たちは何を目指して日々活動を続けているのかということを述べたうえで批判するべきだと思います。今回の場合は、そのようなことを仮に、「編集部注釈」として付け加えるとしても、かえってその部分だけが強調されるような形になり、元原稿の主意が損なわれる恐れもあることから、できることなら一部分を削除していただくことはできないかと考えた次第です。

 わたしたちとしては、読者からの批判を恐れているのではなく、「運動」のもつ無意識のうちの排他性によって一部の人が傷つけられることがあってはならないと危惧した上での結論でした。

 このたびのことは、「そよ風のように街に出よう」編集長に対して寄稿をお願いしている立場からすると、大変失礼なことであり、深くお詫びを申し上げます。

 「積み木」編集部としては、豊能障害者労働センターの「代表」として何とか考えていただけないかという甘えがあったのだと思います。

 今回の事態を重くうけとめ、今後の編集において、その方針を確認しながら丁寧にすすめていきたいと思います。

 連載を心待ちにされている読者も多数おられる中で、非常に残念ではありますが、河野さんとの話し合いのとおり、連載中止は避けられない事態である思います。

 ご多忙の中、急いで原稿を書いていただいたにもかかわらず、このような結果となってしまい、本当に申しわけありませんでした。

 これまで連載いただいたことに心から感謝しています。ありがとうございました。

以上

 

 ということなのです。ボクは、これからもブレずに、書き残しておきたいことを書く。この一点で精進いたしますので、ご期待くださいマセ!  つづく