新・私的「障害者解放運動」放浪史 2

『そよ風のように街に出よう74号』(2006年12月発行)より

●前史の前史

 

 映画「さようならCP」について、この放浪史の背骨を貫くものとして、少し書いておきたい。

 ボクがまだ左側の住人として、瓶や石(意志?)を投げたり、棒切れを振り回していた一九七〇年。後々に深い縁を結ぶこととなる、埼玉県の脳性マヒ者、八木下浩一が「過年児」として、二七歳にして小学校に入学していた。八木下とは同年なので、つまりボクも二七歳でアッタ。三島由紀夫が自衛隊に乱入、割腹自殺し、あのエノケンが亡くなってもいる。「戦争を知らない子供たち」の歌が、良くも悪くも、新しい時代の到来を告げていた。国際的には、国連総会において、「知的障害者の権利宣言」が採択されている。

 前年の六九年、マハラバ村運動(茨城県にある閑居山のお寺の住職・大仏 空氏が開設された障害者市民自立施設。今風には、一種のグループホーム。マハラバとは、大いなる叫びの意)が終息して、村の住人であった横塚晃一、横田弘の大先輩たちが、神奈川県に下山して、親睦団体であった青い芝の会神奈川県連合会に合流。みるみる内に、自立した障害者市民組織として活性化し、国論を二分していた日米安保条約闘争とは全く異質な世間のど真ん中に、「障害児殺しに対する減刑嘆願運動」批判を青い芝運動の正面に据えた。

 曰く「福祉の量的不足を遠因として、障害児を殺した親の罪が減刑されるとしたら、現に生きている障害者市民は、いつ殺されても仕方がないことになる。それはおかしい。殺人は、殺人なのだから正当な刑罰量刑でなければならない」と。これらの動向は、少なかったけれども、メディアにも取り上げられ、世間に波風を立てた。

 その波風に追い立てられるように、元テレビメディア・プロデューサーで、映画制作の世界に転身したての原一男監督が登場して、青い芝運動の映画化を持ち込んだという。制作費は、青い芝の会負担。機材、制作は原監督の「疾走プロダクション」持ちの自主制作映画。七〇年から七一年にかけ制作され、七一年二月から関東を中心に、上映運動が始められた。ボクの頼りない記憶が呟くところによれば、七一年後半には、シナリオ・パンフレットが、ボクたちの手元に届いている。

 ボクはといえば、七〇年闘争後の雪崩のような敗北感に埋もれた左側世界から脱走。反差別運動の端っこにチョコンと席を得ていた。ここいらあたりのことは、旧放浪史に詳しく書いたので省略。決して手を抜いてはおりませんぞ。関西でも「さようならCP」上映運動をやろうじゃないかの声が上り(実は、誰が、どの団体がいい出したのかを覚えていない)、学生、働き人の間で上映の是非を巡って、スッタモンダの末、エエ加減な働き人と、エエ加減な少数の学生のカタマリであったボクたちのところに、フイルムが転がり込んでくるという顛末になった。

 とはいえ、いわゆる「障害者市民関係世界」にほとんど縁が無かったボクたちに、上映の依頼が来るハズもなく、ヒマなことこの上無し状態。上映実行委員会のメンメンの学生はエエとして、働かない働き人のボクは、連れ合いさんに食べさせてもらいながらのスタッフだから、ちと焦る。そこで人間が集まるところへ、ビラ撒き、ステッカー貼りに出動する日毎となった。

 当時は、まだ七〇年闘争の余熱があり、方々で燃えカスのような集会が開かれていたから、それなりに忙しい。夜の闇が世間様を支配すると、スプレー缶ペンキを懐に、ひと目につきそうな壁に取り付き、「映画『さようならCP』を観よう!」と大書して回った。さすがに今はもう消えて(消されて?)しまったけれど、JR(旧国鉄)大阪環状線・天満駅近くの鉄橋、大阪府と兵庫県境の神崎川ぞいのコンクリート塀、淀川に架かっている阪急電車の鉄橋などに、長く名残りがあった。

 またビラは、当時の一所懸命さは伝わるけれど、何のこっちゃようワケ解らんし、赤茶化ているが、それを空に透かして眺めると、階級闘争の考え方と障害者市民解放運動観が、狭い紙のリングでK1格闘をしているような珍妙風情が見て取れる。懐かしいけれども、脇の下から冷たい汗が吹き出すような感触があって、ホント恥ずかしい。

 そんな七転八倒の上映実行委員会の事務所に(新大阪駅前にある第五地産マンションにあった)、映画に登場する群像の中心人物のひとり、横塚晃一さんが関東から乗り込んできたのだった。というと、とてもいかつい感じなのだが、柔らかく、物腰静かで、知的な登場の仕方ではあった。この横塚さんの登場によって、上映運動はやっとこさ軌道に乗るのだった。数社のメディアにも取り上げられるようになり、上映依頼がポツリポツリと舞い込み始めた。ボクもまぁ、なんとかオマンマにありつけるようになる。

 

●「さようなら」違い

 

 横塚さんに同道して、映画を上映しては、上映後に横塚さんの講演を聞く日々。門前の小坊主、習わぬ経を読む通り、今にして思えば、実に教え豊かな至福の時間が流れた刻ではあった。

 ボクが単独で、初めて上映に出かけたのは、確か、七四年に入ってからだと記憶する。横塚さんがちょうど神奈川に帰っておられ、新しい障害者仲間が入ってくる直前だった。上映依頼があったので、エーイままよと、ひとりでフイルムを担ぎノコノコとデッパツした。ところは、奈良県明日香村の近く。上映主催団体は、障害児の親と養護学校の教師たちだったと思う。小さな町の公民館のようなところが上映会場だった。

 軽く打ち合わせをし、主催者挨拶。定番通りに上映を始めたのだけれど、映画が終わりに近くなる頃、会場にいたひとたちの間から、なんとも形容し難いざわめきが溢れ出したのだ。とにもかくにも映画が終わり、フイルムを巻き戻して、いよいよボクのおしゃべりの段になると、主催者のひとりがツカツカとボクに近寄り、曰く「この映画の主旨は、なんですか? ワケの解らないことばかりいっていて、一体何の映画なんですか。さようならCPというから、CP(脳性マヒ)という障害が治り、障害にさようならする映画と思って、上映することにしたんですよ。話が違うんじゃないですか」と。

 ボクは、ポカンとして、その言葉が耳元を通り過ぎるのを待つしかなかった。同じさようならでも、地べたと理念には、かくほども乖離のあることに、言葉が行方不明になった。当然の結果として、ボクのおしゃべりは敬遠され、上映費用を受け取っただけで、冷ややかな視線の矢で針鼠のようになりながら退散するしかなかった。「だってなぁ、CPにさようならするって、そんなのデケないよ。CPでナニが悪いんだっていう映画なんだじェ。勘違いしたのは、そっちの方なんだもんなぁ」と呟きながら。

 七〇年まで、反戦青年委員会運動に熱中していた頃、フォークソングに「自衛隊に入ろう」という歌があった。まぁ、時の自衛隊を皮肉り、面白く反戦の意志を表現したものだった。ある地方方面隊の自衛官が、その歌のタイトルをマジメに受け止め、自衛隊の宣伝に使いたいとレコード会社に申し入れたという話があって、酒の肴の材料として大受けした笑いが、ときとところを替えて、ゾロリと顔を出したような気分だった。ホント、上映事務局に帰り、スタッフにその話をすると、みんな涙をこぼしながら、笑ったのだから。

 

●大師匠・横塚晃一さんとの対話

 

 七三年、関西で開始された、映画「さようならCP」上映運動に、付録のよう見えたけれども、くっついてきた、本旨としての魂の発露があった。それを〇六年の今日、全国各地の障害者市民解放運動が、低迷、混迷し、内在するエネルギィが出口を見つけることなく、伝説を伝える術もない状況にあるなか、ひとつの基準として再提起されることに、深い意味があるとボクは、想っている。

 七〇年初頭における「ニホン障害者市民事情」を回顧すれば次のようであった。「あらねばならぬものは、未だ無く。あらねばならぬものを求めるひとびとの声は、あってはならぬとするひとびとの合唱の前に立ち尽くしていた」と。では、今日の障害者市民状況は、どうなのか。五〇年先、一〇〇年先にどのような社会を創造し、どのような人間として暮らしているのかのイメージを構築して、そこから照射される「にんげん解放」の道筋に従って、真の愛を食べながら、日毎を送っているのだろうか。

 残念ながら、そのような痕跡は、極少数を除いて見当たらない。あるのは、「あらねばならぬものは、更に無く。あってはならぬとするひとびとが勝ち組を名乗り、あらねばならないものを求めるひとびとは、下しおかれた小さな足下のパイを凝視するばかりで、未来に関心を払ってはいない」となろう。ボクの予断と偏見の目玉には、そう映るのだ。

 

●日本脳性マヒ者協会・全国青い芝の会行動綱領

 

 ある意味で、七〇年闘争から脱走したボクも、「人権・反差別」のテーブルにはついていたけれども、立ち尽くしていたひとりだった。大師匠・横塚さんは、そのボクたちに、青い芝の会行動綱領を指し示したのだった。

○われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。

 われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつ、自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ、行動する。

○われらは、強烈な自己主張を行なう。

 われらが脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうとする意志である。われらは、強烈な自己主張こそがそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ、行動する。

○われらは、愛と正義を否定する。

 われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ、行動する。

○われらは、健全者文明を否定する。

 われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ、行動する。

○われらは、問題解決の路を選ばない。

 われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ、行動する。

 と。

 七〇年初頭から、様々な姿、形、理念、戦略を携えた障害者市民運動が、それなりのトレンドを構築し、健全者世間と渡り合ってきたのは、周知の事実ではある。しかし、その多くは「共に生きる」の範ちゅうのものだった。青い芝運動の五つのテーゼに示された理念は、「共に生きる」という、あるいは「インクルージョン・包み込む」のような、利用できるが、本質ではない「共に溶ける」流れのなかで、「告発型」の運動は、古いとされ、過去のものと忘れ去られ(忘れ去ろう)つつあるが、「共に生きる」という概念は、紛れもなく健全者側の発想であり、そのことを実証して余りある青い芝の会行動綱領は、資料としても、実効性においても、その輝きを失ってはいない。

 しかれども、時代は確かに移ろう。青い芝運動が光りを放っていた七〇年初頭は、今日とは、本質において変わっていない「能力・優生思想」の大氾濫期にあり、障害者市民解放運動は、眼前の差別と激しく格闘する中からしか、人間解放の未来を展望できなかった。

 だが、今日心細いけれども全国各地の障害者市民運動は、歴史というひとびとを耕す時間を積み上げてきた事実がある。だからこそ、今から先、一〇年、一〇〇年先に、障害者市民はかくあると想像力で描き立て、設定し、そこから今を撃たなければならないだろう。それが、闘ってきた先輩たちの歴史の伝承というものだ。サァ、一〇年、一〇〇年先のボクたちの姿を確定する、美しい議論を始めよう。

 

●二一〇〇年へ、三〇〇〇年へ

 

 一〇〇年先に、ボクたちの社会や世界、人間の生きる形は、どうなっているのか。人間の多様性が唯一の基準となり、全ての固有の情報は、双方向性を獲得しているだろうか。異なる文化や、考え方、生き方が社会基盤を構成しているだろうか。誰からも抑圧を受けず、誰をも抑圧することなく暮らしているだろうか。姿、形、違う価値観、異なる美意識を手にしているだろうか。今ある環境因子で生まれる社会的困難を克服しているであろうか。政治や経済が人間と生き物のためにだけ働いているだろうか。ひとが、ひとを殺さずに、生きることのみに専念しているだろうか。ありとあらゆる事柄が、求めるものが、求めるひとびとに届いているだろうか。あるものが、ひとびとのガマンと合意によって、豊かさも、貧しさも、あまねく分配されているだろうか。愛と正義からエゴイズムをひっ剥し、あるがままの愛と正義に身をゆだねているだろうか。家族や、国、国境の壁は、崩れ落ちて、新しいコミューンを築けているだろうか。なかんずく、障害者市民が障害者市民であることで、社会の役割を担っているだろうか。老市民が泣くことなく、マイノリティといわれるひとびとが、マイノリティであるがゆえに、世界の構成要員になっているだろうか。すべての世界、時代の事柄が、有機的であり、可変的であり、条件的であると認識され、人間のプラス・マイナスの知恵が、ひとびとにコントロールされ、人間を含む生き物が、幸せになる行為に夢中になれる社会と世界になっているだろうか。ひとり残らずのひとびとが、時代と世界のオンリーワンになるんだの想いを強めつつ。

 

●だからこその今

 

 とりあえずは、惨憺たる今にある。どうすれば、想定される未来に接近できるのか。お互いの顔と顔を見つめ合い、責任をキチンと説明のつく、分かち合いで担い、からだは現実にあれど、心は世界に広く、深く、放たれている関係づくりから始めねばなりますまい。仕事や事業、制度やシステムは、現実世間を暮らすために、とても重要な社会的営みだけれども、それにとらわれるあまり、青い芝の会行動綱領に書かれている理念や、自分を信ずる方法論からブレてはならないだろう。社会的仕組みは、どこまで行ってもコトの本質ではありえない。制度もシステムも、人間の本質的営みをスムースに動かすための条件にしか過ぎない。だとしたらば、もっと自由に、もっと広々と、もっと深く、愉快な議論を展開しなければならない。笑いながら、泣くような状況に切り込まなければ、ボクたちのこれからはありえない。スタンダード・ルールは、一〇〇年先を視、抱き締め切れない人権感覚で身を包んで、街とひとを耕すことである。そのためにこそ、ボクたちの闘いはあり、誰もが、自分の責任で参加できるものでありたいのだ。

 その手始めに、障害者市民が自分で選べる社会保障制度を獲得しなければアカン。障害者市民のセーフティネットは、日本の社会保障制度の根幹であり、最後の砦でもあろう。ここを譲れば、民主主義もヘッタクレもない。行政、国をして、絶対に今を、から後退させてはならないのだ。それは、障害者市民の存在を否定し、「本来あるべきではない存在」とする社会意識に正当性を与えてしまう。ここが肝心「われらは、問題解決の路を選ばない」のだ。

 ここまで書いたところへ、一九七四年からの友人と、八一年から同道した学者先生の訃報が届いた。エライコッチャと急遽、筆先がその方面に突撃を始める! カーラジオから、竹仲絵里が歌う「サヨナラ・サヨナラ」が流れる〇六年の春。    つづく