新・私的「障害者解放運動」放浪史 3

『そよ風のように街に出よう75号』(2007年11発行)より

●エライコッチャのふたり

 

 前号で、エライコッチャと終わり、今号でエライコッチャと始めさせるふたりとは、テレビで「宇宙戦艦ヤマト」が放映され始め、長島巨人軍選手が「巨人軍は永久に不滅です」と、なんのこっちゃ分からないセリフを吐いて、引退した一九七四年に出会った「西岡 務君」と、一九八一年の「国際障害者年を機に障害者の自立と完全参加をめざす豊中市民連絡会議(豊中国障年)」結成時からの付き合いであった、「小川 悟先生」である。西岡君は、二〇〇六年一月二九日に逝去(骨肉腫)、五二歳。小川先生は〇五年一二月三〇日逝去(急性骨髄性白血病)、七五歳だった。

 ボクには、知り合いの学者を「先生」と呼ぶ習癖はないが、この世で先生と呼び習わしたひとがふたりいる。おひとりは、大阪市立大学名誉教授で、大阪ボランティア協会初代理事長であった、故柴田善守先生。もうおひとりが、関西大学名誉教授の小川先生だった。おふたりとも、どうにもこうにもつかみどころのない、ただ、ただ、お見事としかいえない人物で、とてもみんなに愛されていた。柴田先生は、会議の席においでになる前には、必ず、酒屋の立ち呑みでコップ酒をひっかけて登場された。大学の研究室の机の引き出しには、常にウイスキィの瓶が鎮座ましまし、酒臭い息で「河野クン、ご苦労サン」と、のたまいケロッとしていた。小川先生とあらば、チョー方向オンチで、会議の場所が分からず、車でウロウロしたあげく、トットとお帰りになるといった調子。ボクたちは、スッポカされて待ちぼうけが度々だった。その上、メモをするという習慣をお持ちにならなかったものだから、会合日程をすぐお忘れになる。忘れても、「失念いたしておりました。スマン、スマン」でオシマイ。これまた、ケロッである。だからして、豊中国障年事務局のお仕事は、会合のある前日に、必ず小川先生に念を押す電話をすることだった。なにしろ代表なのに、総会の日を忘れるくらいなんだからもの。豊中国障年を結成するにあたり、当時の大阪北摂地方の自治体での「人権関係審議会委員」を総嘗めされていたものだから、ぜひ代表にと、先生の自宅へ自治労豊中のYさんと西岡君、ボクの三人で口説きに行ったことが懐かしい。専門研究は「ロマ文化と差別論」だったような気がする?

 西岡君とは、一九七四年に出会った。当時、優生保護法改悪反対闘争が山場を越し、七九年に養護学校義務化を宣言した文部省の動向が、別学体制に反対する教師、関係者に強く意識されていた頃で、大阪青い芝の会肝入りの呼びかけで、「大阪障害者教育研究会(大障研)」が、七四年七月、新大阪駅近くの日の出解放会館で結成集会を行なった。今日では、想像できないくらいに、障害者解放運動が自分たちの未来のこととして教育問題に強く取り組んでいたのだった。その会場に、西岡君と仲間の教師たち、記憶では二、三人だったと想う数で現れたのだ。集まりには、不肖、ボクの連れ合いさんも参加していたけれど、ボクは、教師でもないし、障害者でもない、タダのお手伝いのつもりで受付役だった。その前に、アノ特徴あるグラグラ歩きで、骨太なデッカイ手を振り回しながら西岡君が登場し、その第一声が、机の上にあった罫線引きの受付用紙を指しての「オッサン、こんな細い罫線が入ってたら、名前が書けへんやろ。これは障害者差別ちゃうか」であった。まるでケンカ腰なのだ。ボクもムカッときたから「ナニも、この罫線の中に収まるように書けというとらんやろ。はみ出してもエエんや。ナニ甘いことゆうとんや」と、怒鳴り返した。後年、その場面のことを思い出して、話したことがあったが、西岡君は「大抵、俺が抗議すると、健全者はビビッたもんやけど、オッサンに怒鳴り返されて怖かったわ」と述懐していた。西岡君、当時一九歳。ボク、三二歳。

 それ以来、西岡君は、ボクのことをオッサンと呼び習わしていた。当時の西岡君は、養護学校高等部を卒業して、一年浪人後、豊中市役所職員採用受験をしたところ、「養護学校高等部卒業資格は、高校卒業資格ではない」として、受験を拒否された。それは変だと自治労豊中に駆け込み、当時の組合書記長であったYさんを仲立ちにして、就労闘争中だった血気盛んナリの頃で、約三ケ月後に受験して採用させた。なにしろ、それまでに受験した障害者市民はいなかったのだから、豊中市役所初の快挙だったことは、確かだ。

 訃報が届いたのは、入院先の病院へ、編集部の牧口長老と小林副編と三人で見舞いに行った一週間後のことだった。病院では、早く家に帰りたいと繰り返し、オッサンとまた呑みたいなと意識もうろうに呟いた。退院した二日後に、西岡君は、呼吸することをやめた。想い出が次から次へと湧き出して、もうナニも言葉にならない。あのデッカイ手で、西岡君は、ナニをつかんで伝説の門をくぐったのだろうか。涙しか出ない。

 

●生きた証は、古い順番から

 

 西岡君の死は、まさに逆縁そのものであって、切なさ以外のなにものでもない。小川先生の場合は、以前から心臓疾患の気があり、ニトログリセリンを常に持ち歩いているのに、好物のタバコをお連れ合いさんに隠れるように、「河野君、一本くれんかね」と、こっそり吸う姿がおかしかった。それにしても平均寿命に、かなりの距離を残して逝ってしまわれ、逆縁ではないにしても「先生、そんなに急いで逝かんでもエエやんか」の気持ちが深い。

 どこかで書いたけれども、「人間は、一〇〇%死ぬ」のであって、その例外を知らない。人間は、人間としてどれくらい様々な関係性を築いたかによって、その人生を残された者たちに語られるのではあるまいか。その語ることを勝手に引き受けることを、ボクは、強く望む。人間の本質の年輪、その中心の方から生きた証が編まれるのなら、まず、西岡君のことから書き、小川先生に引き継ぐのが筋だろう。ましてや、小川先生を障害者市民運動に担ぎ出した責任の一端を、西岡君もそのゴツイからだで引き受けていたのだから。

 一九八八年、「昭和」という時代が終わる前年、テレビからは、終日「天皇の下血、吐血、血圧」の数値が流され、ボクたちは、下血のニュースを観ながら、朝飯を食っていた年の六月。本誌「そよ風のように街に出よう」三五号特集に、西岡君が登場している。題して「障害者と労働組合運動シリーズ最終回・時代としてのラスト・KUMIAI」である。中身については、おいおい書き綴るとして、編集する上での、ケッサクな想い出がひとつ残っている。

 「メーデーがボクの誕生日と同じやねん。毎年、赤旗上げてもろうて、万国の労働者に祝うてもろてんねん」と、五月一日の取材に応えてもらった。雑誌編集者としては、取材テープ起こしから、原稿へ移動する際に、細心の注意を払い事実誤認が生まれないようにするのが常識なのだが、そこはそれ、鬼の目にも涙、弱〜い人間の端くれでもある。とんでもない間違いをときに犯す。三五号が刷り上がり、発送も終わってヤレヤレ気分でいた編集部に、西岡君から電話がかかってきた。曰く「うまくまとめてくれておおきに。でもなぁ、タイトルのデッカイ文字の「西岡 努」のツトムが間違ってるでぇ。ボクのツトムは、オンナのマタにチカラとちゃうで。まじめにツトメルの務やでぇ」と。

 大慌てでページを確認すると、一ページの三分一を占める、特集タイトルが大文字の「西岡 努」となっているではないか。小さなところには気を入れるけれど、あまりにデッカイ文字は、気を向けなかったもので、トンデモハップンの見事な校正ミスに、口アングリのアチャー! あまりといえば、あまり過ぎるやんかと……。

 

●スゴイやつでした西岡君

 

 ときまさに一九七五年、中津川フォーク・ジャンボリィなどがにきにぎしかった頃。障害者市民就労運動などカケラもない時代に、西岡君は、たったひとりで豊中市への就労受験に挑み、自治労・豊中市職員組合を巻き込みながら、三ケ月もモメ続け、遂に就職してしまった。で、それでメデタシ、メデタシになったのかというと、そうならないところが、西岡君のスゴイところなのだ。当時、就労運動と相前後して、大阪市内の障害児保育運動に関わっていた西岡君は、そこで筋ジストロフィー者のUさん、Tさんと知り合い、そのふたりの「ボクたちも西岡さんのように働きたい」の要望に、その純粋な魂が血気を奮い、「なんでボクが働けて、Uさん、Tさんはアカンねん」と豊中市行政と渡り合うことになる。そこへ一〇年間の就労運動と放浪の旅実績を引っ提げた、視覚障害者市民のMさん(本誌六号に登場)が合流して、西岡君曰く「ホナ、闘いまひょか」となった。つまり、カノ伝説「三氏就労闘争」の始まりなのだった。

 役人生活一年生、なりたてホヤホヤの西岡君の姿は、常に闘いの先頭にあった。自治労・豊中市職員組合には、西岡君就労前に「障害者問題研究会」があり、主には障害児保育問題を担っていたけれど、Mさんの就労以後、組合内に「障害者解放委員会」が組織されている。ボクも、何回か「三氏就労闘争」の行政交渉に参加したけれど、その場にあった西岡君の鮮明なデッカイからだを記憶している。交渉では、度々行政担当者が交渉の場から逃亡を計り、紛糾が続いたけれど、その都度西岡君は走り回る。当時の組合青年部長の「逃げるな、ハッキリせんかい。俺の出世が止まっても、そんなもん怖くもなんともないぞ」の怒号が記憶の谷間で、ゴロンゴロンしている。自治労運動にもそんな時代があり、そんな時代を西岡君は創り出し、それ以後の豊中市における障害者市民就労運動を牽引し続けたのだった。

 

●一九七六年

 

 七六年という年は、西岡君にとっても、日本障害者市民解放運動にとっても、大きな節目であった。大阪青い芝の会が、「全身性障害者への団体助成」を求め大阪市役所に坐り込み、助成制度を獲得。車イスの教師をつくる会が結成され、車イスのNさんを囲んだ大阪市役所坐り込み。関西青い芝の会連合会による和歌山総合福祉センター占拠糾弾闘争。全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成、豊中市AZ福祉工場設立準備委員会結成と、その他モロモロが怒涛のように押し寄せ、引き続いた年でもあった。

 西岡君は、いつの頃からか、全障連結成活動に接近していて、具体的には、会合の度に顔を合わせる程度だったけれど、ボクは主に裏方のお仕事。西岡君は、表方の重要な部分で働いていた。後年、一九八七年頃には、自治労・豊中市職員組合執行委員、全障連全国幹事会事務局長の役職に就いている。自治労運動の中の障害労働者運動の中核リーダーとして、神戸のIさんと尽力していたのは、つとに有名な逸話でもある。

 とはいえ、だんだんと歳は取る。波瀾万丈の西岡君ではあっても、というよりは、それゆえ二次障害は格段に進む。煙にむせながら、「もう歳やなぁ」のセリフが頻繁に聞こえ出したのが、二一世紀に入った頃よりなのだ。例えのスケールが、からだ同様デッカイぞ。そのセリフを聞くごとにボクはいい放ったものだった。「なにゆうとんねん! 輝ける全障連の戦闘的旗手の西岡君は、どこへ行ったんや」と。今から想うと、西岡君は、ボクにそのセリフをいわせたかったのかも知れないなと感じるところがある。ボクのセリフを聞くと、なんだか安心したような、テレくさいような、甘い溶けそうな微笑を浮かべ、ケホケホいいながらタバコの煙に目をしかめるのが常だった。

 

●いつの頃か……

 

 あれは、いつの頃か。確か一九七九年、養護学校義務化が強行された後だったと想う。それまで全障連大会のテーマは、教育、生活などの個別の課題と反戦、平和、反差別の大きな課題が追及されており、当時から急速に台頭してきた「共同作業所」運動には、比較的無関心か、「施設の地域版」として批判の対象でしかなかった。しかし、時代の動向と、障害者解放運動の拠点化の性格を持つ作業所が、全障連参加団体の影響下で、全国的に広がることに着目した(ここがおかしい)、当時の代表幹事であった視覚障害者のKさんが、「作業所の分科会を作ろう」と提案し、ノウハウを持たない全障連に代わり、「差別と闘う共同作業所全国連絡会(共同連)」に分科会を担ってもらうべしと号令を発した。その号令の犠牲者が、他ならぬボクと西岡君だった。

 まぁ、当時の共同連と全障連は、あまり相性がよくなかった。相性のよくない団体に、大会の分科会を任す相談なのだから、太っ腹というか、虫がエエというか。そのお任せ路線の談合に、「オイ、西岡。行ってこい。河野のオッサンを連れて行け。なんとかなるだろう」てなワケで、ボクと西岡君は、共同連の事務局を担っていたSさんの住む名古屋に向かうことになった。

 ある晴れた日とはいかず、どんより曇ったある日、あるとき、西岡君の運転する車で名神高速を疾走することになる。これがまぁ、恐怖の道行きとは、誰が知ろう。

 西岡君の車は、当時のフル装備車で結構な高級車だった。センサー満載、雨が降り出せば勝手にワイパーが動き、暗くなれば、自動的にライトが点灯するという優れ物だ。障害者用に改造もされていた(西岡君が大切にしていたこの車は、次の年には、身内の事業失敗の穴埋めの一部として、どこかに身売りされる運命をたどったという)。その上、西岡君は、無類の運転好きときている。ボクもまぁ、車を運転する障害者仲間の車に乗ったことがあるし、その用心深い運転には、安心していたけれど、ホント、名古屋までの距離があんなに遠いという想いをしたのは初めてだった。大阪に帰り着いたときには、精も根も尽き果てて、へろへろ。

 まず、西岡君は、アテトーゼのせいで前を向いて運転をしない。ボクは、致し方なく健全者だから、車を運転するときは、前方を見るとの能力主義的固定観念がある。本当は、横を向いていても、西岡君には、前方が見えているのだけれど、横向きグラグラ首運転をされると、ボクの心臓がグラグラする。思わず、「西岡君! 前向いて運転してくれよぉ」と悲鳴を発する。西岡君、ニヤリと笑う。その上、脳性マヒ者は、音に敏感なのだ。小雨降る名神高速道、追い越して行くトラックが雨水をドバッとひっかける。その度に、西岡君はからだ全体で飛び上がるのだ。車は蛇行しっ放し。高速道路なんだじェ。ちょいと間違えると、西岡君と「雨の名神心中ものがたり」ではある。妙齢の美しい女性となら、それも一興かもしれないけれど、相手がむさい西岡君なのだ、勘弁してほしいと念じていたらば、西岡君、悠々とポケットからタバコを取り出し、口にくわえるではないか。そして「オッサン、火ィつけて、火ィ」とぬかす。そりゃあ、あんまりダ。あんまりダァ。またしても、トラックの水がドバッ。西岡君飛び上がる。車クネクネ。ああ、この世に神も仏もないものかと。

 こんな調子の名古屋行きは、はてさていかが相なりましょうぞ。  つづく