新・私的「障害者解放運動」放浪史 4

『そよ風のように街に出よう76号』(2008年8発行)より

●巨頭会談

 

 名神高速道を疾走してといえば、カッコいいけれど、ドバッ、ビクッ、へろ、火ィの横向き走行。どうか無事に到着してほしいと念じ続けるボクと、運転大好き西岡君の珍道中。へろへろ、へろへろと名古屋市内の共同連(差別と闘う共同体全国連合、現在はNPO共同連)事務局、Sさんの拠点に到着することに成功した。本当は、それからの話し合いが本命なのだが、ボクにすれば、到着したことで全障連(全国障害者解放運動連絡会議)のKさんの号令は、達成されたも同然なのだった。

 Sさんは、大阪の青麦印刷(ここの紹介で、ボクは、就学運動の八木下浩一に出会ったのだから、相当古いハナシではある。今は、事情ありの解散で、ナイ)同様、名古屋で印刷業を手掛けていた頃からの知人である。小汚い町の二階屋を改造して、最新式のドイツ製印刷機械を導入したと自慢していたけれど、扱うのに四苦八苦していたのが笑えた昔の風景。

 西岡君と、そのSさんの巨頭会談、つまり、全障連大会のなかに、共同作業所分科会を設定して、その運営を共同連に担ってもらう話し合いは、当時はまだ「法人化」していなかった「わっぱの会」のメンバーが住んでいた、見事にボロい二階建アパートで行なわれた。

 このアパートには、いわく因縁があって、最初は少数の障害者仲間が住んでいただけだったのが、先住者が引っ越すたびに、わっぱのメンバーが次々に住み着いて、ほとんどの部屋がメンバーによって占拠されてしまった。まるで、わっぱの会の寮の様相であった。その一角の部屋の小汚いフトンを片付け、場所を作り会談場とした。

 あまり相性のよくない共同連と全障連であることは、お互いよく知っているものだから、なんとなくギクシャクする。まぁそこは、アバウトなボクが介在しているし、共同連も全障連も、当時はまだ賢明な資質で、非力を自覚していたから、お互いに助け合おうじゃないか。口出しをしないから、縦横にやって欲しい。全障連幹部がワザワザ直接談判に来たのだからと、民主主義もなんのそのの話し合い。そして、丸投げアウトソーシングは、見事に成立。とても記憶が怪しいけれど、全障連富山大会から、共同連主管の共同作業所分科会が開催されるようになったと想うんだけれど?

 会談成立の大任を果たした西岡君とSさんは、にこやかに握手を交わし、ボクと西岡君は、再び高級乗用車に乗り込んで、バイならしたのだったが、Sさんは、ボクの怯えたような、観念したような表情ではあったろうことに、気づいてはくれなかった。

 

●行くも地獄、帰るも地獄

 

 一九六〇年、国のエネルギィ政策転換にともない、全国の総労働VS総資本の闘いと称せられた「三井、三池炭鉱労働争議」にな〜んも分からずに参加したのが、ボクの左側生活の始まりの一部だったけれど、その記録フィルムにある名場面を忘れることができない。九州沖合の島にある炭鉱では、閉山のために労働者が次々と離島した。当時、大阪にも炭鉱離職者対策の住宅があちこちにあったことを覚えている。島を離れる船に乗った労働者を、島の一番高いところで、「炭労」と染め抜いた赤旗を打ち振り、涙する組合役員の姿がそれである。ナレーションは、語る。「去るも地獄、残るも地獄」と。

 名古屋からの帰還の途がまさに、それを連想させた。健全者というものは、誠にどしがたいものである。行きのドバッ、ビクッ、くねくねの西岡運転。「前向いて走れよぉ」の内面における懇願は、西岡君に通じるハズもなく、そりゃあそうだろう、西岡君は、そのような運転しかしたことがないのだから、それで当然なのだ。巨頭会談の成果に、気を良くしてか、満面に笑みを浮かべ、ケホケホいいながらタバコを吸いつつ、快調に名神高速道をブッ飛ばすのだった。ボクにすれば、その状況は、まさに「行くも地獄、帰るも地獄」なのではあっタ。

 西岡君は、断固として、ボクは、あまりの緊張の連続に身をコチコチにして、はらほろひれと大阪にたどり着いた。豊中市役所の駐車場に乗り入れて、車のドアから地面に降り立ったときには、膝ガクガク。ボクは生きているかとホッペをつねったものだった。西岡君は、ボクを降ろすとさっそうと愛車とともに去って行ったけれど、その後ボクが、ガニ股然として、もより駅へ、ガニガニ歩いて行ったことを、知るハズもない。Kさんの号令と、西岡君の運転二題バナシは、こうして幕を降ろしたのだったが、ボクは、それ以後、西岡君の車になんのかんのと難癖をつけて、同乗することは無かった。

 

●元号・昭和は、遠くなりにけり

 

 昭和元年は、七日間しかなかった。その昭和最後の年もまた七日間しかなく、平成元年に移る。その年に東京ドームがデケて三年目の、春浅い一九九一年のとある日に、ボクと西岡君、豊中市でエーゼット作業所の代表をしていた入部香代子が、とある場所でニラミ合っていた。

 当時は、まだ作業所運動が台頭期にあり、豊中市には、ボクの記憶が正しければ、エーゼット作業所をトップに、三ケ所しかなかったように思う。エーゼット福祉工場設立委員会(当初、事務局を担っていたのは、現・そよ風のように街に出よう本誌、副編集長の小林敏昭であった)からデッパツした作業所は、天ぷら廃油から作る粉石鹸製造販売とパンの製造販売を主たる業務にしており、豊中市の下町・大国町の片隅で、古い町工場に立てこもり、石鹸の粉とパンの粉にまみれていた。ボクは、設立委員会では、事務局だったけれど、作業所として歩き始めた頃には、少し距離があった。

 当時の作業所実態は、制度が格段に低水準にあり(今もそう変わり映えしていない)、障害者仲間の賃金はもとより、健全者スタッフの給与もおぼつかない財政で、それがために、高尚なモメゴト、つまらないモメゴトの連続であった。青い芝運動の中核を担った歴史を持つ入部ですら、そのモメゴトの度に「なんで健全者のことばかりモメるん。障害者市民のことでモメるんやったら、しゃあないけど。これのどこが障害者市民運動なんやのん」と、嘆声を発していた。

 なんとかせんとなぁというのが、当時のボクの正直な気持ちだった。そこに、一九九一年は、統一地方選挙だじぇと時代が囁いた。それまでボクは、豊中市会議員選挙でAさんという障害者市民の親の議員を応援していたのだが、このAさんとだんだんソリが合わなくなり、その上、選出母体の教職員組合の一部のひとびとから、ボクたちの選挙のやり方がエグイから、別々に選挙をやりたいとの声が出てきたのだ。街中にベタベタとポスターを張り巡らすのが、市民感情にそぐわないそうなのだ。そこで、全国的にも障害者市民の議員が皆無状態なのだから、「入部! 選挙に出よ。大阪で初めての障害者市民議員になろうや」と、叫んでしまったのだった。そのことをテコに、障害者市民運動に新しい元気を創造したかった。入部もまた「アカンかも知れんけど、このままアカンようになるよりは、マシかも知れん」と、市会議員選挙に出ると決意したのだった。それが一九九〇年の暮れ迫る時期だった。

 そして、翌年の新年早々に西岡君とニラみ合う場面になる。西岡君は、「オッサン、入部はんは、これまでに、障害者として散々苦労してきたんや。その上にまだ苦労させるんかい。無責任に過ぎるんちゃうか。選挙はキツイもんや。甘いことない」と、ボクに噛みついた。

 

●一九九一年の春四月、晴れた日に

 

 今日でも論議を呼ぶ「臓器移植」の道をガイドした、臨時脳死及び臓器移植調査会(永井道雄会長)が設置されたのが、前の月の三月だった。「脳死は、ひとの死か」の課題がここに始まり、そして今日の「尊厳死法」にたどり着く。日本の障害者市民差別の法的根拠であった、優生保護法の系譜を引き継ぐ「生まれていい命と、生まれてはいけない命」選別法として、現在、議論が白熱化しつつある。もちろんボクは、「なにがなんでも、殺すな」の立場で、尊厳死法の成立を阻止すべく働く。

 サテ、ボクに噛みついたところで、西岡君の話がプツリだったけれど、入部香代子の九一年・統一地方選挙はどうなったのか。読者各位の好奇心に反応するために書き継ぐことにする。さすがに西岡君は、エライ。ホイホイと甘い話には、飛びつかないし、差別を受ける立場と、自治労運動の双方を熟知していたのだから、「選挙に立候補する」ことが、「甘いことない」のを実感していたのだ。そして、現実的に西岡君は、豊中市職員組合の執行委員でもあり、その職員組合は、現職の市会議員を抱えていたのだから、入部に味方するワケにもいかなかった。自分が応援できないのに、自分と同じ課題で選挙を闘う入部に心がきしんだのだろう。それが西岡君の顔から匂い立っていた。それでも、入部とボクたちは、春四月に、豊中市に障害者市民議員の誕生を目指して、小さいけれども、確かな「人権の旗」を掲げたのだった。

 しかし、この項は、西岡君のくだりであり、入部選挙そのもののことは、拙著『「ゆっくり」の叛乱』(NHK出版)に詳しく書いたので、前略、中略、後略。

 「選挙は、そんなに甘くない。入部に苦労させるのか」の西岡君の責めゼリフは、本当のところ、ゴーンとこたえた。ボクも一六歳の頃より、アノ「日本社会党」の専従書記を皮切りに、左側の世界で呼吸してきていたのだから、「選挙の苦悩」には、ずいぶんとまみれていた。ハッキシいって、選挙まむしの青春ではあった。そのおかげというか、末路というか、障害者市民解放運動に巡り会ってからも、選挙テクニックだけは、身に染みついていた。選挙手法というのは、オッソロシク古典的で、時代の変遷にも耐え抜く生命力を持っている。四〇年前のテクも、現在的テクも、さほど変わっていないから、オドロキ、モモノキ、サンショノキである。

 つまるところ、政治の原形が保守的なのだから、その表現形態としての選挙が、進化するハズがないのだ。「ジバン、カンバン、カバン」の方程式は、少しずつ形を変えながら今も確実にある。

 

●西岡君の涙

 

 とにもかくにも、選挙戦の前段が開始された。人口四〇万都市の豊中市である。当選するには、三〇〇〇人以上の市民に投票場に足を運んでもらい、「入部」と書いてもらわなくてはならない。そのために何を成すべきか。選挙制度から完全無視され続けてきた、ボクたちの仲間に、その答えを持つものは皆無であった。今は亡き、入部の母親からは、「立候補したんやから、絶対に当選させてや」と脅迫されるは、「選挙って、宣伝カーで回るだけなんやろ」と、ケロッとしている障害者市民仲間や、関係者ののどかな顔を見ていると、差別の谷間の闇の深さを実感させられた。ボクは、秘かに決意した。ボクが提案し、入部が決意したのだから、今度は、ボクが決意して行動する番なのだと。

 カネもヒトも無い。この現実からデッパツするしかなかった。今では馬齢のせいでできっこないことだけれど、もう時効だろうから書いてもいいだろう。九一年が明けた新年から、ボクは、猛烈に働いた。昼間のうちに本職の仕事を片付け、夕方から印刷ミス紙のB四紙を縦長半分にし、裏面に入部のイラスト入り「がんばれ福祉の街づくり・いるべかよこ」と刷り、夜になると、糊バケツをぶら下げて、ひとり広い豊中市をうろついた。目標は、一日五〇〇枚を電柱に貼ることだった。誰の助けも借りなかった。これがボクの選挙運動なのだ。それは選挙本番の直前まで続き、結局七〇〇〇〇枚のステッカーを貼ることができた。後日、同じように選挙戦を闘っていた部落解放同盟の知人に、「入部陣営は、あのステッカー貼りに何人動員したんや。あらゆる路地裏の電柱に貼ってあったぜ」と、告げられたけれど、ヒトがいないから、ひとりで貼ったとは恥ずかしくて答えられなく、黙秘したままだったのが、今では懐かしい。ある日、ある夜、入部の自宅周辺でステッカー貼りをしていると、どこかに出かけていたのだろうか、候補者入部が介護者に車イスを押させて帰るところに出くわした。そのときの入部の名ゼリフ、「河野さ〜ん、何してんのォ」だった。はらほろひれ、見たら分かるやろう。この糊バケツスタイルが、パーティに出かける姿に見えるんかい。

 ステッカー貼りが一段落すると、今度は、本番に備えなければならない。ここに天の助け。当時、まだ夫婦であった(後年に離婚)入部兼昭がだんだんと事の重大性に気付き、エンジンを全開させ始めた。また、仲間たちも選挙ムードが高まるなか、ステッカーにも誘発されてボチボチ、本当にボチボチ集まり始めた。カンパ集め、紹介者名簿集め、事務所の設置(公選法上、補助金団体の事務所は使えないから、補助金対象外のパン工場にカンバンを掲げた)、複数電話回線の設置、本番日程の割り振り、宣伝カーづくり(警察へ届けなければならない)、スピーカー係の養成、スピーチ文づくり、本番選挙ポスターづくり、新聞広報公約版下づくり、選挙公営掲示板ポスター貼り要員の確保、供託金の確保、電話要員と本番中食事の用意、各障害者市民団体への支援要請、紹介されたひとたちへの挨拶回り、朝夕の街頭・駅頭でのスピーチ、などなど数え上げればキリがない作業に忙殺された。でも、みんな初めての取り組みなのに、みんながみんな、自分のこととしてコマネズミのように、キリキリと働いた。そのとまどったような、あるいはイキイキした姿は、いまでもクッキリと想い出すことができるし、ボクの涙の貯金箱に保管されている。

 選挙戦が始まると、豊中市内のいたる所に車イスの行列がデケた。俗にいう「ももたろう街頭宣伝(ボクたちは、車イス部隊と命名した)」。大阪はもとより、関西各地から様々な障害者仲間がわらわらと集まり、入部とともに生まれて初めて街頭に立ち(車イスのひとも多かったから「座り」かな?)、それぞれの想いを語った。そして一週間の氾濫怒涛は、新幹線のぞみ号よりも早く、アッちゅう間に、過去の歴史の空間に入った。

 今は、即日開票が当たり前になっているけれど、当時は、投票日の翌日開票だった。昼頃からボチボチ始まり、夕方頃に当落確定というスケジュール。開票日には、午前中に集合して体制を整えようとしたのだけれど、みんなモノもいいたくない程疲れ切っていて、顔を揃えたのは、昼過ぎだった。その点、入部は、腹が据わっていた。当時幼子だったこどもたちとキャッキャと遊んでいた。今想うと心中の不安をまぎらわせる方法だったのかもしれない。ボクは、もうクタクタで不謹慎ながら、もうどうでもエエわい気分。いよいよ開票作業が始まり、当時は携帯電話というベンリなものはないワケで、兼昭が会場で選挙管理委員会の数次の発表を聞いては、公衆電話で連絡する仕組み。慣れたひとなら、積み上げてある票を読み取って報告するものだけれど、兼昭にはそんな芸当はできない。その内に新聞記者やテレビ局が集まりだした。選挙管理委員会の発表よりも、メディアの方が不思議に情報が早いのだ。ボクは、期せずして当選を確信した。案の定、計ったように、豊中市史上初の女性障害者市民議員が誕生したのだった。ごったがえす事務所の外の暗がりに、西岡君の姿があった。声をかけると「おめでとう!」といってくれたけれど、泣いていた。やっぱり西岡君は、エライ! 素敵なヤツだった。西岡君の追悼本は、〇八年春に出版された(障害者問題資料センターりぼん社刊)。タイトルは、「ほな、たたかいいまひょか」である。ぜひ読んで欲しいと要請する。

 ここでこの項を終わり、次回からは、小川悟先生の項にすすみたい。   つづく