新・私的「障害者解放運動」放浪史 5

『そよ風のように街に出よう77号』(2009年4発行)より

●チーッとも嬉しくない

 

 我等の心友、西岡務君が心許無いボクたちを残して、壮絶な戦死のように、「にんげん解放」の闘い継続のなか、この世にバイナラしたのが〇六年一月二九日。それに先立つ一ケ月前、初代・豊中国際障害者年市民連絡会議代表であった、関西大学名誉教授・小川悟先生が持病の心臓疾患で亡くなられた。葬儀は近親者のみの密葬で行われたために、ボクたちがその事実に接するのは、〇六年の正月明けのことだった。

 だから、〇六年の年明けは、ボクたちにとって最悪の状況になった。折しも、障害者自立支援法を巡る攻防戦の鳴動が遠くの地平から届いているなかのことである。豊中市における障害者市民運動のエンジンであった西岡君を逆縁にして失い、ある意味での象徴でもあった小川先生をも失ったボクたちは、来たるべき闘いの刻を丸裸で迎えることとなった。ホント「武器なき戦い」を、闘うしかないのだった。

 三月一五日には、関西大学生活協同組合主催の「小川先生を偲ぶ会」が、関西大学構内で開催され、続いて、四月二日、有志実行委員会の手による「西岡務君を語る会」が大阪府福祉人権推進センターで開かれ、恥ずかしながら、ボクに司会が任された。賑やかなことが好きだった西岡君の意を受けて、呑みつつ、食べつつの集い。約二〇〇名が参集した。最初の内は、型通りで進行したけれど、途中から一転して破れかぶれ気分と込みあげてくるやるせなさに、司会の役をブン投げて、言いたい放題の迷司会。酔いをお供に意識がボクの脳から脱出してしまった。そして気がつくと集いは終了していたのだった。実行委員会のメンメンは、「よかった、よかった。いい司会だった」といってくれるのだが、何がよかったのかサッパリ記憶にございません。はたまた、六月三日には、国際障害者年豊中市民連絡会議主催「小川悟先生、西岡務さんを偲ぶつどい」が、豊中市立総合福祉センターひまわりで持たれもした。しかしながら、こんな集まりがナンボあっても、どんなに成功しても、チーッとも嬉しくない。それよりも、「オッサン、戦闘的印の旗はどこにしまい込んだんや」という西岡君の言葉や、「河野君、タバコ一本くれんかね」の小川先生のテレッとした表情に、どこかの街角で出会いたい。

 

●一九八一年の、ある夕まずめ

 

 黒柳徹子著「窓ぎわのトットちゃん」が爆発的なベストセラーになり、こどもの教育にひとびとの関心が向き始めた年だった。もちろんそのときばかりではなく、今ほど教育のチカラが求められている時代はないというのがボクの認識ではあるのだが。時のオボッチャン首相は、教育改革を唱え「美しい人間を作る」とおっしゃっていた。ボクは、断じて美しい人間にはならないのだ。ババッチクてもいい、ひとらしいひとでありたいだけだ。何を基準にして美醜を決めるのだろうか。北朝鮮の核実験を非難しつつ、日本の核保有の議論はあってもいいという外務大臣もおられたことからして、油断もスキもありゃあしない。

 そんなある日の夕まずめ、ボクと西岡君、豊中市職員組合のYさんの三人は、豊中市北部にある緑ケ丘団地の一室に、目一杯緊張して正座していた。当時、豊中市でも国連・国際障害者年の影響を受けたひとびとがおり、労働組合がまだ元気な頃だったので、「ここはひとつ、豊中国際障害者年市民連絡会議を創り、障害者市民の人権と福祉施策を作り出す運動を始めようではないか」という気運が台頭しつつあった。もちろん、その前には、西岡君たちの市役所就労運動、豊中市教職員組合の「地域、校区の学校へ障害児を就学させよう」という活動、また進路保障のひとつの選択肢としての「エーゼット作業所」運動が先行はしていた。その本来の意味と変遷はあるのだが、ここでは割愛する。

 設立準備の活動は着ちゃくと進んでいたのだが、設立前後の豊中国際障害者年市民連絡会議事務局は、一年交代で、教職員組合と市職員組合が担っており、そのときは、市職員組合が事務局だった。後年、そのシステムは崩れてしまったが。ということで、Yさんも同道した団地一室のハナシは後にして。結成準備は進むのだが、ハタと困ったのが代表問題。正式に発足するには、代表はそこそこの人格者でなければ困る。誰でもエエというワケにもいかん。といってナ〜ンダこの人かぁの手垢のついた人事では、尚イカンと、ケンケンゴーゴー。なかなか決まらなかった。そこでいろいろYさんたちが情報を集めたところ、当時の豊中市、周辺自治体の「同和行政審議会」の委員を歴任していて、関西大学の文学部教授にして、「ロマ(ジプシー)の人権・差別論」を教えている小川先生の名前が浮上してきた。このひとならまぁエエんちゃうかと衆議一決。勝手に決めてしまうエエ加減さ。Yさんにしても、それほど面識があったというワケでもない。ふたたびの、ということで、小川先生説得隊が組織されたのだった。その説得隊というのが、件の一室で正座している三人なのである。

 

●ワカランけど……

 

 小川先生のお連れ合いさんが出してくれた、お茶をガブリと飲み干して、いよいよ説得、というより懇願。西岡君がとうとうという名のニチャリヘチャリの世界や日本の障害者市民問題を語り、ボクが障害者問題のネッワーク作りの必要性を、Yさんが豊中市の緒事情を吐露。これでもかぁ、これでもかぁの立て板にアメ論の開陳。黙ってホウホウとにこやかに、タバコを吹かしていた小川先生は、ボクたちの話が一段落すると、「それでどうしたの」と、お聞きになった。ここいらヘンで、このひとは、かなりおかしなひとと気付くべきではあっただろう(後年、小川先生のこのおかしさによって、ボクたちは、キリキリ舞いをすることになる)。大抵のひとなら、三人の大人が論陣を張るのだから、ただ、お茶を飲みに来たのではなく、何か頼み事だろうと察するものではなかろうか。それが「それでどうしたの」である。もちろんボクたちも、あからさまには代表就任要請を言葉にはしていなかったが、それは失礼にも当たるし、そこはなんとかの気分ではあった。

 顔を見合わせたボクたち三人は、こりゃあ回りくどいことではアカンな、ダイレクトに当たって砕けろだと、ボクが口火を切った。「断じて行えば、鬼神もこれを避く」である。段々と芝居がかってきた。「つまり、先生にボクたちの組織の代表になっていただきたいというお願いです」と、キッパリ述べると、小川先生は、大人然として動じず、ふう〜んとゆったりうなずいて「ボク、障害者のこと解らへんよ。それでもエエんやったらやりましょか」とのたまわったのだ。やったぜベイベェ。そして、おかしな三人と、おかしな小川先生は、別々の想いでニッコリ微笑を交わしたのだった。

 

●林君

 

 それから何度かの準備会を経て、小川先生にも参加してもらって、結成の準備も整い、国際障害者年豊中市民連絡会議結成集会の当日。豊中市長を始め、来賓の方々も到着して、スタッフも相当に緊張しているのに、小川先生がお見えにならない。今時のように携帯電話がない時代ではある。先生の自宅に電話するも、「もう出かけました」の応答のみ。仕方がない、まだ代表選出までには時間があるから、予定時間通り開会しようとした、まさにそのとき早く、かのとき遅く、小川先生が慌てず騒がず、ゆう然と会場にそのお姿を現わされたのだった。そして開口一番「スマン、スマン、会場の場所を失念しておりましてな。タクシーでウロウロしとったんや。誠にスマン」とおっしゃった。この「失念」という言葉を記憶に留めておいてほしい。ボクたちは、「失念」を曲者と読むようになる。

 サテ、遅れて来ても動じないのが小川先生のエライところ。来賓席に座っていた(当時の市長は多分、林さんだったと記憶する)四〇万都市の豊中市長に向かって、「オーオー、林君。来てくれたのか、ありがとう、ありがとう」と声をおかけになった。遅れて来た上に、来賓の市長を君づけなんだじェ。全員、眼ン玉がテンになった。

 

●君ィ

 

 四〇万都市の市長を君づけで呼ぶ、小川国際障害者年豊中市民連絡会議初代代表の武勇談は、世間の垢に汚れ、水のように流れる活動しか展望できないでいたボクたちを、どれほど勇気づけたことだろうか。でも、ボクたちとどこが違うのか判然とはしないものの、明らかにヘンなひとなのではあった。ボクたちが持つ尺度と、小川先生の尺度には、単なる大学教授と、単なる市民の違い以上にヘンが鮮明にあるのだが、それがどのようなものなのかが分からん。しかし、確かなことは、小川先生のとらえどころのないホンワカ態度、ものいいが、障害者市民仲間の生活態度やありようと、実にピッタンコで相性がよかったことであった。ハッキシと断言してもいい。小川先生は、実に偉大な天然ボケ社会学者であったということを。その事実に翻弄されていたときには、分からなかったけれど、お亡くなりなった今、残された者のひとりとして、その名のごとく「悟った」のである(小川先生の名前は、悟)。

 

●学長代行代理?

 

 一九六五年の日韓条約阻止運動から、七〇年日米安保条約改定阻止闘争を象徴として、日本全国のあらゆるところで巨大な市民的激流が台頭した。いわゆる「七〇年闘争」である。その激流は、地域、職場、学園を問わず、ひとびとの暮らしを巻き込んだ。それは、安保条約を巡るものとして登場したのだけれど、深層のところでは、敗戦後ニッポンの政治的枠組みの変更、敗戦から回復した経済が膨張期に転ずる端境期にあり、ひとびとの暮らしが大きく変化させられ、希望と絶望が格闘していた時代が基礎色だった。大学も「象牙の塔」であり続けることができなくなっていた。それまでの大学生は、選ばれた存在としてあったけれど、時代はそれを許さない。インテリゲンツィアとして、科学、文学、政治、経済の知識担い手ではなく、高度な知識を持った「優秀な労動力」であることを強制されたのだった。文字通り、大学の大衆化が始まったのだ。それらの動向に日本全国の大学生たちが敏感に反応するのは、当然の理である。まぁ、ここで七〇年代学生運動史に筆をすすめるのは、おこがましいのでヤンペにするが、モンダイは、小川先生である。

 小川先生は、頭の先から、足の先まで関西大学色で染まっていた。否、関西大学そのものといっても過言ではありますまい。七〇年闘争の激流は、関西大学をも飲み込んだ。全学共闘会議が組織され、学内では連日につぐ連日、大学当局との大衆団交、集会が開催されていた。そのエネルギィは学内に留まらず、学外、街頭へとあふれ出した。学園封鎖スト、デモにほうはいと学生たちが群がった。当時、全国の大学では、学生たちとの対立の力に押されて、大学当局理事者が逃亡、入院が相次ぎ、学長代行とか、その代行も逃げ出して、学長代行代理というなんともかんともの学長が、流行のように現われた。関西大学もその例に漏れず、学長がいなくなり、どういうワケか、我等の小川先生も一時期ではあったけれど、学長代行を名乗っておられたと聞く。

 関西大学は、大阪府吹田市にアル。学外に溢れ出した学生のエネルギィは、大阪市内の集会、デモに結集するのだが、そのたびに、国家権力たるケーサツと激突、毎度幾人かが逮捕され、吹田警察の留置場に泊まるハメになる。そしてコレもどういうワケか、吹田警察の署長は、伝統的に関西大学出身者であるのだ。まぁ関西大学は、法学部が有名でもあって、法曹界や警察関係につながりが深いから、当然といえば当然かも知れない。警察は、学生たちを留置するごとに、「おたくの学生を預かってまっせ」と大学に連絡を入れる(これは、小川先生に直接聞いたハナシだから、まぁ当たらずとも遠からず)。そのたびに、大学関係者が警察に赴くのだが、小川先生の場合、吹田警察に到着すると、一直線に署長室に向かい、一瞥の後、「君ィ、関西大学何期卒業かね」と問い、「後輩を大事にしてやってくれたまい」と、諭すのが常だったそうである。また、その問いに署長は、「ハイ、何期卒であります」と答えたそうな。

 四〇万都市の市長であれ、警察署長であれ、たったひとりの障害者市民であれ、君づけで「君ィ」だった。それが小川先生だった。

 

●運転するヨロシ

 

 小川先生とお亡くなりなったお連れ合いさんは、学生結婚で、親の反対を押し切って駆け落ちされたそうな。学生仲間に応援されて、今の大阪市天王寺区の宿屋に立てこもったというハナシも、あの言葉調子でテレもせずに語られた。「あのな河野君、その宿屋というのがな、今でいう連れ込み宿やったンや(今は、そんなコトいいまへんがな。これは、ボクの心のなかでの反論)。敷いてある布団がな、みんな桃色でフカフカやったなぁ。あれには、ビックリしたな。しかし、気持ちよかったな」と。コッチの方がビックリした。

 そのお連れ合いさんというのが、割れ鍋に閉じ蓋というか、小川先生の上を行く豪傑であることを、後年に発見することにもなる。あれは確か、小川先生が国際障害者年豊中市民連絡会議代表に就任されて、三年後くらいだったか。豊中市緑ケ丘から、兵庫県川西市平和台に引っ越しされた頃のことだった。何かの用があって、ご自宅までお訪ねしたところ、まだ新築の木の香りがする家で、お連れ合いさんが長靴、スコップ姿でおられた。お聞きすると、家周りをコンクリートで固めるために、ミキサー車の到着を待っているとのこと。周りには左官屋さんの姿がない。誰が左官をするんですかと聞くと、「私がするんですよ」と微笑された。大学教授の連れ合いさんがエライとは思わないけれど、フツーの女性がコンクリートミキサー車ごとセメントを買い、自分で左官作業をすると思いますか。ボクは、思わないな。男でもしませんよ。それも延べ一〇坪くらいはあるんだジェ。

 そんな豪傑の巣のような家に、ある日、ある時、自動車のセールスマンが訪れた。家にいたのが小川先生のみ。セールスマンは、口なめらかに、いかに新しい車が素晴らしいかをまくしたてる。そして、その結果、小川先生のひと言が発せられた。「ウーム、そんなにいい車なら、一台いただかくかな。届けてくれたまい」と、ハンコをポン。そして数日後に、ピッカピカの新車が小川先生宅の玄関に華々しくも登場したのだった。

 お連れ合いは、その新車購入のコトを聞いていなかったらしく、小川先生にひと言。「誰がこの車を頼んだのですか、車庫もありませんし、誰が運転するのですか。ウチには、運転免許を持つ人間がいませんよ」と。そうなのだ、小川先生、お連れ合いさん、当時同居されていた息子さんの誰もが運転免許を持っていなかったのである。そのときの小川先生の言葉。「車を運転するのに免許証がいるのか。それを失念しておった」とおっしゃったそうな。

 それからどうなったのか。ピッカピカの新車は、車庫のない小川先生宅の庭に鎮座ましまし、小川先生の自動車教習所通いが始まったのである。ピッカピカの新車が、ピッカピカでなくなった頃、小川先生は見事に自動車運転免許を獲得され、得意そうに「河野君、これが運転免許証というモノなんだよ」と、自慢されたのである。そんなもの誰でも知ってるワイと、みんなで顔見合わせた。

 この話は、後々まで、国際障害者年豊中市民連絡会議の酒のサカナになった。それより、もっと心配だったのは、小川先生が空前絶後の方向オンチであることだった。タクシーに乗って、指示された会場に向かう場面が幾度もあったけれど、ただの一度もスンナリと到着されたことがない。それも同じ場所なのにである。そして名セリフ「失念しとりました」。

 

●ギョッ

 

 免許を取得されて、約一ケ月後、小川先生は、北海道札幌市で開かれた学会出席のために、お連れ合いさんを同乗させ、ご自身がハンドルを握って、高速道路をブッ飛ばし、津軽海峡を渡られた。運転する方もする方だけど、同乗するひとも相当な心臓だねと、またまた話題に花が咲く。  つづく