新・私的「障害者解放運動」放浪史 6

『そよ風のように街に出よう78号』(2010年2発行)より

●一九七七年の頃から

 

 一九七七年のこの年から、中野浩一選手が自転車競技の世界選手権で、一〇連覇を始めた。山田典吾監督作品「春男の翔んだ空」で、ヘンな感じはあったけれど、障害児教育に光りが届く気配が見えたのも、この年ではあった。

 また、一九七九年養護学校義務化を二年後にして、全国各地で障害者市民の動きが活性化していた。もちろん、それには、七六年に結成された全国障害者解放運動連絡会議の大きな影響があった。川崎市、尼崎市などで、車イスバス乗車拒否に対して、抗議行動があり、狭山差別裁判再審要求闘争が始まったのも、この年である。そして、今日の「尊厳死法」にまで続く、優生思想の権化「日本安楽死協会」の暗躍の開始を翌七八年に控えていた。

 つまり、障害児教育にとどまらず、ニホン教育全体のこととして、教育問題が顕在化し、今日では当たり前の歪んだ風景にある「障害者市民作業所」が立ち現われてきた時代だった。もう、ほとんどのひとの記憶から消えてしまっているだろう「大阪一五教組」(日教組が方針の対立から、社会党系と共産党系に分裂しかかっており、その社会党系の組織として、大阪における一五の組合が結集したもの)が中軸となって、「どの子も地域・校区の学校へ」の就学運動を始めていた。その動きは、しばらくして日教組全体の方針として広がって行く。

 

●今は、昔の小林 敏昭クン

 

 とにもかくにも、毎日がクルクルと課題を持ち込んでくる目まぐるしいの連続だった。そんな時代背景のなか、大阪府豊中市に「AZ福祉工場設立準備委員会」が生まれた。当時、豊中市には、ふたつしか作業所がなかった(かナ?)から、みっつ目の計画だった。長い間、完成予想図というリッパな額入りのものが飾ってあったが、その結果が、現在の「エーゼットの会」であるからして。流れに即して書けば、最初の拠点は、阪急宝塚線・豊中駅の西側を南に向かう路地の突き当たりの文化的ではない文化住宅。当時の代表は、現「劇団・態変」のKさん。事務局長が、現「そよ風のように街に出よう」副編集長の小林 敏昭クンだった。現在では、セント・ザビエル風のように、後ろから見る小林クンの頭髪は、円形に薄くなっているけれども、当時は、髪黒々として、眼光鋭く、哲学者の風情があった。まぁ、今でも少々くたびれ具合の哲学者風は、維持しているけれど。そして、その横で黙々と天ぷら廃油から石鹸作りの手作業実験を続けていたのが、現在は大阪市内で活動している、車イス利用者Sさんの連れ合いの真面目なOさんだった。今日、エーゼツトの会が存続しているのは、このOさんあってのことだと思う。

 そして、小林クンとKさんに交代して、このOさんが事務局長、代表を大阪市立大学の柴田善守先生となり、阪急宝塚線・庄内駅西側を南へ、鉄橋を越えてスグのところのアパートの一階に小さな石鹸工場が作られた。そして、そこから入部香代子&Iさんに引き継がれ、豊中市大国町の貸し工場へ転身して、石鹸工場兼パン工場になる。Oさんは、大国町に引っ越してからも、しばらくは、集団の中心にいた記憶がある。ボクもまたクサレ縁もあって、相当長い間、「エーゼット通信」という、B四判裏表の通信作りを担当していた。多分、八〇年の初め頃までだったと。アノ努力は、どこに行ったのかなぁと、ときどきは、想うことがあるんだけれど。

 

●工場にクーラーなし

 

 庄内の工場といっても、二階建の安物のアパートで、Oさんの奮闘が発揮されればされる程、建物内外に粉石鹸の粉末が飛散する。当然、アパートなんだから、二階部分には、アカの他人さまが住んでいるのであって、夏場など窓閉め切り状態。暑いのなんのって。クーラーというような高級品とは、無縁。扇風機をかけると粉末が近所に飛び散り、苦情がゴトン、ゴトンと届く。仕方がないから、柴田先生に乗り出していただいた。

 ボクと柴田先生が連れ立ってご近所回り。安物の菓子折りをブラ下げ、一軒、一軒を回り、柴田先生が重々しく「大阪市立大学文学部教授」の名刺を差し出しては、「障害者市民の働く場作り」の意義をトウトウと演説し、重々しく一礼されて、ご理解をと結ぶ。ボクは、先生の背後でかしこまったフリをするばかり。このイベントの結果、ゴトン、ゴトンは、姿を消した。そんなことには、関わりはござんせんとばかり、Oさんは、パンツとランニングシャツ姿で、マメジメに石鹸製造に一直線。ヘコたれないひとではありました。しかしながら、完成予想図と現実の姿との乖離は、月と地球くらいの距離があったし、今もその距離は埋められてはいないのだからして。

 

●東へ、西へ

 

 あれは、大国町に引っ越した当初だったと想う。エーゼット作業所に待望の箱形自動車が登場した。むろんのこと、中古車で相当ボロいヤツ。これを現認したOさんは、突如として運転免許を取得したのだった。それまでは、障害者仲間の介護もその身ひとつでやっつけていたのに、である。メデタク免許は取得したものの、なんだかなぁの気分がボクにはした。恐ろしい程のマメジメなんだからして。

 そんなときに二本の電話があった。ひとつは、東京方面、ひとつは愛媛県方面から。ボクの記憶も相当に怪しくなっているから、なんだけど、東京方面のは、「石鹸を作るときの廃油を煮詰める釜が余っているから取りに来い」であり、愛媛方面のは、石鹸を粉末にする機材があるから、これまた取りに来いだった。なんせそれまでOさんの体力だけでやっていたのだから、ささやかだけれど、機材投入近代化はありがたいワケで、そして、Oさんとボクは、ボロ自動車にひと鞭くれて、デッパツしたのだった。くれぐれもいいますが、Oさんは、根が真実一路。チョーがつく真面目のマメジメ。その上に免許取り立て。今日のように自動車学校の実習に高速道路運転なぞは、あ〜りません。Oさんの生まれて初めての遠出運転、高速道運転。取り立てで嬉しいものだから、ボクには運転させてはくれない。ボクは、助手席の主。

 信じられないだろうが、大阪から東京までの高速道路では、追い越し車線の走行がゼロ。ズ〜ッと走行車線ばっかり。それも、制限速度が八〇キロだからと、ズ〜ッと八〇キロ走行。その上に、眼は前方に固定して、ハンドルにしがみつく姿勢で走行。休憩は、行きも帰りも浜名湖サービスエリアの一度だけ。高速道路を同じ速度で走ると、どうしても眠くなるものだが、Oさんに話しかけても、顔を横にもしない、目線固定型運転の恐怖に抗し難く、眠いのに眠れない状態で、釜を受け取り、大阪にたどり着いた。釜は、無事に着いたものの、約一〇〇〇キロの往復を、マメジメOさんと一緒に、同じ車内で過ごしてごらんなさい。エコノミークラス症候群にならなかったのがフシギてなもんです。

 到着した釜を使って、廃油を煮詰めると、それはもう見事な石鹸に姿を変えた。Oさんは、これでもう天下を取ったも同然とばかり、琵琶湖の汚染も、障害者市民の働く場も改善されるぞと、さらに更に、ゲンキ。マメジメ。ボクが小さな声で「あのなぁ、Oさん。あんなにハンドルにしがみついて運転したらば、かえって危ないんやデ。ちょっと余裕を持って運転した方がエエで。それと、視線を前ばっかりにせんと、周りを見るくらいの方が、安全確認できるんやけどな」と、ボクなりの意見を述べてはみたものの、そんなのどこ吹く風、全然聞く耳と、気がない。もうドップリと自分の世界を形成して、浸り切るばかりだった。

 それから一週間程して、作業所の運営委員会が終わる頃に、Oさんが、例のマメジメ真実一路の眼をキラキラさせながら、「なぁ、河野はん。今度は、愛媛まで一緒に行きませんか。石鹸粉末機材の引き取りですわ。なあに、河野はんに苦労はかけませんよ。ボクが全部運転しますから。それに愛媛は、ボクの故郷ですねん。道はよく知ってますよ」とおっしゃる。ボク、そういうモンダイではなくってと。障害者仲間が気の毒そうに、ボクの方を見ていたのだった。

 

●カネはイクイク、心は残る

 

 ボクの方を気の毒そうに見ていた障害者仲間の大黒柱(大国町の大黒柱なんちって)は、この頃には入部香代子になっていた。後年、実にいろいろな事情と時代の要請に促され、豊中市議会議員になるなんてことは、ツユ程も想像できない時期ではあった。障害者作業所も、まだ運動には成長していなくて、全国各地の開かれていない進路保障の道をトボトボと、散発的に歩んでいただけだった。国レベルでの助成制度は、未だ姿を見せず、スズメの涙どころか、蚊の涙程の運営助成金が、都道府県、市町村自治体レベルで、地域間バラバラのまま実施されていただけだ。

 AZ作業所のある豊中市でも、事情は似たり寄ったりであり、入部を始め、作業所運営に携わるひとびとの悩みは、実に、現在同様にカネであった。働くことに意味を見出し、働く場として作業所運営を始めたのに、現実には、作業所に、その求めるカネがない。蚊がいかに激怒しようとも、所詮、蚊の涙程の助成金は、焼け石に水どころか、焼け石に雨粒一滴、ジュッでオシマイなのだ。家賃、自動車、介護要員給料、事業経営のための経費が毎月末には、怖い顔をして待っていた。ところが、差別の結果とはいえ、ほとんど無給に近い賃金しか得ていない障害者スタッフは、親がかり福祉の人質として、なんとか親の元で暮らしてはいけるし、生活保護受給という手もある。しかし、問題は、健全者スタッフの方なのだ。元々、志を持って参加してきたマメジメOさんのようなひとは別にして、多くの健全者スタッフには、「世の役に立ちたい」という、結構、甘チャン思考のひとが多かった。最初は、純なもので、障害者スタッフとともに、ガンバリズムで励むのだが、その予想されていた収入、給与水準のあまりの低さに、悲鳴を上げ始める。チョンガーならいざ知らず、所帯でも持とうものなら、確実に世間水準から落後する。

 障害者スタッフは、仕方なく不動の位置を確保し続けるしかないけれど、健全者スタッフの給与を巡っての退職騒動は、毎回大騒ぎを引き起こす。新しいスタッフをどうするのか。その給与は、どのようにして賄うのかの難題が、AZ作業所の中を駆け巡り、その度に、赤い文字しかない帳簿と首っ引きをしていた入部の絶叫がコダマする。「障害者市民のために作ったAZ作業所やろ。なんで健全者のことばっかりで、こんなに悩まんならんのや」と。

 出会い、別れた健全者スタッフは、枚挙にいとまがない。春の別れは、藤の花。ひとの別れは、ただ涙。なんという風流なんて、コレッぽっちもない時代だった。

 

●Oさんの決意もイク

 

 そのような、血も涙もあるけれど、カネがない状況のなかで、マメジメOさんは、入部の絶叫を横目に、黙々と粉石鹸生産の腕を磨き、時至ればと、AZ作業所ブランド石鹸生産の事業化を決意していた。

 サテ、Oさんの故郷でもある愛媛県方面からのオファーは、石鹸を粉末にする機材があるから、取りに来いでのもの。東京方面で手に入れた釜の性能が結構良好で、大量生産のメドを立てたOさんは、ここぞとばかり、「河野はん、一緒に機材を取りに行きましょう」と、ボロ自動車にボクを押し込んだ。入部が涙目で「河野はん、無事に帰ってきてね」という。ホンマかいな。それくらいに、Oさんの運転する車に乗ったひとは、無事を祈念した。Oさんの名誉のためにいうが、Oさんの運転が荒っぽいというのではない。至極まっとうに、交通法規を厳守する、そのマメジメな運転態度が、ヘンに不安を掻き立てるのだ。目線は前方固定、ハンドルかじり付き運転。制限速度順守。その上、そういう運転がリッパな運転だと、自分の世界を確立していることが、なんとも不気味な雰囲気なのだった。その雰囲気のままのデッパツとなった。

 一九七七年頃のニッポン道路事情では、大阪から東へは、比較的高速道路が整備されていたけれど、西へとなると、からっきしボロいものだった。そのような状況とは関わりなく、ボクたちはチョー貧乏だったから、高速道路があっても、一般道ご愛用路線。中国高速道も確か岡山くらいまでしか完成していず、山陽自動車道の姿はカケラもありはしなかった。だから、Oさんの号令の下、ヨロヨロとデッパツしたのは、国道二号線。それにしても、大阪—東京間が一号線で、なぜ、大阪—下関間が二号線なのだろうか。なんか中央集権の匂いがする。

 当時、国道とはいえ、二号線は、途中に離合場所はあるものの、片道一車線の二車線道路だった。現在では、都市部は、ほとんど片道二車線の四車線道路になっているけれど、その二車線道路をOさん独自運転手法で、順法トコトコで走るのだ。当然のこととして、ボクたちの車の後ろには、長い車列がデケる。それでもOさんは、全然ヘイキ。ボク、イライラ。対抗車線から、対抗車の姿がなくなると、後続の車列は、猛烈なスピードで追い越して行く。それもアオリ・パッシングをしながらである。しかしながら、Oさんの視線は、前方に固定されているので、気づくこともない。

 神戸、姫路、岡山、広島へ、堂々の単独行軍。Oさんの道中計画では、広島港からフェリーに乗り、対岸の愛媛に渡るのだという。確かに直角に地図を見れば、その通りではあるが、訪ねる相手が、今治から松山に至る海沿いの村だとかで、常識的に考えれば、岡山・玉野からフェリーで高松経由、今治、松山方面となるのだが、Oさんの常識では、広島—今治—松山方面となる。広島—今治は、逆戻りだじぇ。

 とにもかくにも、今治に到着。海沿いの県道をこれまたトコトコ。今治と松山の中間地点にさしかかると、海に突き出るような形で、フェリーセンターがポツンとあって、玉野行きフェリーとあった。シメタ、帰りは、ここからフェリーに乗ろうと、近付いてよくよく見れば、「閉鎖中」のカンバン。こうしたことは、今も昔も変化がない。多分、乗客が減ってしまったのだろう。田中角栄の「ニッポン改造論」の直後である。改造とは、いらぬものは捨て、いるところを膨張させるものだった。文字通り、そのフェリーセンターと、その周辺地域は、いらぬところとして捨てられたのではあるまいか。

 トコトコは、なんとか海辺の村に到達した。早速、件の石鹸粉砕機を拝見。ナ、ナ、ナント、いわゆるモーターにベルトで連結、二本のキネがついた、石臼精米機ではないか。つまり、電動式水車。こんなので石鹸が粉砕できるんかいなと、疑問ムクムクのまま、車に積み込む。当時でもノン・ベルトのものが機械全般の常識。でもタダだもんなぁ。

 帰りは、今治—西条—玉野—岡山—大阪のトコトコ。珍しく、目線は、前方に固定されたままではあったが、Oさんは、懐かしい気分をにじませて、あちらこちらの風景を説明してくれたことが鮮明に残る。この旅程を、ただの一度も休まずに一日でこなしたOさんは、エライ! そして、もっとエライのが、件の石臼。旧式ながら、石鹸を見事に大量に粉砕したのだ。こうして、AZブランドは、確立したのだった。

 

●始まってシマッタ

 

 この顛末から、市民の排出する天ぷら廃油、無尽蔵にある原料から、粉石鹸は、大量に生産されるようになり、販売先を求めて、怒涛のように大阪府枚方市、箕面市などに進出して、各地の作業所の事業目玉になって行く。ボクにも何回か、ナイロン袋の厚紙パッケージを印刷屋さんへ発注に行った記憶がある。しかし、それも数年の短命ではあった。安売り洗剤の大軍の前に、あえなく敗北するしかなかったのだ。

 けれどもだ、粉石鹸は、敗北しても、障害者市民存在の敗北はありえない。助成金制度の獲得、公的介護保障要求の拠点としての作業所運動は、産声を上げたばかりなのだった。二一世紀、人権の世紀に入ったとされる今、その歴史的検証と、未来への実力が問われているのではあるまいか。

 とにもかくにも、ボクたちの作業所運動は、ボクたちなりに、始まってシマッタのだから。  つづく