新・私的「障害者解放運動」放浪史 7

『そよ風のように街に出よう79号』(2010年9月発行)より

●時代は更に、イク

 

 始まってシマッタ! ボクたちなりの障害者作業所運動は、一九七九年に必ず到来するであろう否定的ニッポン教育の質的転換、養護学校義務化を冷徹に見据えていた。世間では、さだまさしの「関白宣言」の歌が流れ、ウォークマンが流行ったり、イギリスで、鉄の女と称せられたサッチャー首相が誕生したりしていた。

 一九七八年、共同作業所全国連絡会議第一回全国集会が開かれ、ボクたちとは理念を違える旗が掲げられた。七六年に結成された全障連(全国障害者解放運動連絡会議)は、その全精力を養護学校義務化阻止に傾注していたし、十二月には、全国十一の地域で組織されていた養護学校義務化阻止共闘会議が結集しての、本格的な文部省交渉が開始されてもいた。それは翌年初頭の文部省前坐り込み闘争にまで発展させられている。

 一九七九年は、とにかくチョー忙しい年だったなぁの記憶が(どの年も忙しいのだったけれども)、脳の中でカランコロンしている。東京サミットのドサクサにまぎれて、養護学校義務化は、政府いうところの「シュクシュク」と実施されて、なんともかんともの敗北感がした。それでもヘコたれなかったのは、障害者市民運動のエエところ。一方で、「おおさか行動する障害者応援センター」が、徹夜につぐ徹夜の議論を栄養に、大阪市城東区民センターで結成された。そのときの陰の力持ちを担ったKさんというひとがいたけれど、後年、交通事故で亡くなられている。

 大阪府豊中市教職員組合・長征社制作の映画「養護学校はあかんねん」の上映運動が始まり。身体障害者実態調査反対運動(全障連、障害連、全国青い芝の会が反対)も始動した。それぞれの動向の場面には、ボク的に参加していたけれど、そのなかにも「悲喜」はある。三月に、全国青い芝の会が全障連を脱退したことと、ボクが編集長をしている季刊・障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」を、十二月に創刊したことである。全国青い芝の会の脱退問題は、会長の横塚さんが全障連初代代表に就任したときからの理念的懸案でもあった(行動綱領を巡って)。その後、横塚さんが病魔のために倒れられ、青い芝の会の分裂を伴いつつ、決別に到達してしまった。ボクには、それについての言葉はないけれども、特別な沈痛の念はある。

 

●誰がために、歴史の鐘は鳴る

 

 このように激変に継ぐ激変の時代に、我が障害者問題資料センターりぼん社と関西青い芝の会連合会が合力して、一本の映画に仕上げた、確実な歴史的事実がある。一九七七年制作「ふたつの地平線」(養護学校は、もういやだ)がそれである(現在は、ビデオ化されている)。へろへろとボク自身が歴史の同伴者を任じてきたのだから、この時代の、特に「養護学校義務化」阻止のありようを書き連ねておくのも、個人的な責務ではあろう。

 誤解を恐れずに書けば、七九年にいたる養護学校義務化阻止闘争のプロセスは、全障連が組織され、義務化阻止共闘会議が全国に展開したことで、本格的な動きになり、自治労中央本部大会での阻止決議、日教組運動内での阻止活動の広がりなどの支援を形成したことになるが、そも、その発火点はどのようにあったのかは、あまり知られていない。そのヘンあたりを記憶の倉庫から引っ張り出してみようと想う。

 優生保護法改悪に、「障害者の生存権」のこととして、熾烈な闘いをもって挑んだ全国青い芝の会総連合会は、横塚会長を筆頭に、改悪阻止の一定の前進のもと、「次は、ナニか」の模索を始められていた。ボクは、横塚さんたちの「脳性マヒ者運動を全国に広く、深く、張り巡らせたい」との想いを受け止める格闘に必死のパッチだったけれど、それはあまりにも重過ぎる問いでもあった。そして、当時の若い脳性マヒ者の議論がチロリと火の手になった。その火の手に、全障連に参加していた各地の障害者団体の議論が燃料となって、それこそ「ボッ」と引火したのだった。つまり、障害者市民の生存権とは、命と歴史の塊であり、こどもから大人に至る全ての暮らしの場面を貫く、社会的因子、システムを変えなければ、その塊を手に入れられないのだと。

 障害者市民をこどものときから排除しているのは、一体ナニだ。むろん、社会の隅々にまで浸透している障害者差別観もバックボーンとしてはあるけれど、具体には、障害者市民の知識獲得を阻害して、こどもたちの中に差別意識を増長させ、教育そのものを偏向させている「教育」がモンダイなのではないか。学校に行けなかった、アノ悔しさを引きずったまま生きて行くのは、あまりにも切ないじゃないか。そのように想いを深めている障害者市民に対して、今度は、「障害のあるこどもは、養護学校という別の体系にある学校に入ることを義務化」するという。フザケンナ、それは、障害のあるこどもの問題だけではない。障害のないこどもにも重大な影響を及ぼす、教育そのものの根源的危機なのではないかとの火が、玉にまで成長するのに、さほどの時間を必要としなかった。それほどに障害者市民の教育に対する想いは強かったのだ。

 

●まず、闘えるところから闘う統一戦線型

 

 横塚さんたちの視線は、地域の学校の前に立ち尽くす、障害児たちの無念を、その困難をみずからのからだと心に縛り付け、文部省に放たれた。全障連がまだ産まれ立てホヤホヤの状況にあり、義務化阻止の理念は、スローガンとしてはあっても、闘いのエネルギィまでには成長させていなかった時期ではあった。

 全国青い芝の会総連合会の決意は、叫ぶ。「一度に、ヨーイ・ドンではなく、闘えるひとたちから闘い、それに呼応するひとたちが続けばいい。障害者市民は、絶対的少数なのだから、人数ではなく、理念の質をもって闘うのだ。たったひとりのこどもの願いを無視すれば、我々の生存権に及ぶ。そのたったひとりのこどもの想いのままに、我々は、闘う」と。その叫びに、ボクの肌の産毛がピンと立った。

 その闘いの場面を記録しようと、人手欠乏日常をヤリクリしつつ、青い芝の会は、全国常任幹事会のなかでの議論を激化させていった。全国各地の青い芝の会に、担当役員が続々と入り込み、会員の「ナゼ?」に、全身、全霊を込めて、言葉と心を投げ込んだ。このような緻密で、暖かい闘いのありようは、すでに和歌山県立福祉センター占拠闘争の時期に、関西を中軸にした若い脳性マヒ者たちによって育まれていたし、普通学校就学運動では、ボクのポン友、八木下浩一が先鞭を開拓していた。「檄」は、飛ばされたのだ。それらが先に述べた映画の姿になったのだった。

 ところで、ボクはというと、確かこの時期だったと想う。文部省闘争に備え、各県青い芝の会の旗とゼッケンを作れと要請されて、大阪市の天満橋商店街にあったフトン屋さんに、赤と緑の厚手のシーツ二通りを買いに行き、連れ合いに無理をいって、ミシンがけをしてもらい、旗に仕上げた。文字は、昔の反戦青年委員会のキネヅカで、手書き。ゼッケンもひとつひとつ手書き。その結果、「ふたつの地平線」の画像のなかにもあるが、脳性マヒ者のひとたちは、少し動くと汗まむしになる。リーダーのひとりのMさんなんか、ゼッケンから汗で溶け出した文字でアゴあたりを緑色に染めていた。

 闘争に参加した会員の多くは、普通学校どころか養護学校にも通った経験のないひとが多かった。それほどに教育の貧しい時代。ワラワラと文部省の最寄駅に集合、そこから貧弱な介護者、及び車イスを押せる会員が車イスを押しながらのデモ。旗をなびかせ、アテトーゼ声のシュプレヒコールが携帯スピーカーから流れ出る、「養護学校はイヤだ!」と。当然のこととして、無届けデモ。横塚さんが叫ぶ、「学校なぞ行かせてもらえなかったが、我々には文部省と掛け合う権利がある」と。でも、どこか東京お上りさんの匂いがみんなからしていた。なんせ、東京なんて初めてなんだじぇ。

                                                   

●時代は更に行こうとしているのに、書けない事情発生

 

 日の丸と青い芝の会の旗が、ガップリ四つで当時の文部省前に翻えり、養護学校義務化を巡り、ニッポン障害者市民運動の中央省庁実力闘争の幕開けを、生き生きと再現するつもりで、腕をぶしていたのだが、そうも言っていられない事情が発生。どうしても、その部分を書き残しておかなければ、私的放浪史が私的放浪史にならないので、度々の方向転換のひとつとしてお許しあれかし。

 サテ、その事情とは、ボクと三六年間連れ添って、ボクのヤクザな人生を支えてくれ、ボクの最大の理解者であり盟友であった、連れ合いの保子さんが、二〇〇七年七月三〇日、午前一二時五分、ボクの住いする大阪府箕面市のガラシア病院ホスピスで亡くなったことである。

 保子さんが息を引き取る寸前、ボクと愚息の三人が枕元で保子さんの様子をかたずを飲んで覗き込んでいると、それまで荒い息をしながら閉じていた眼を、カッと見開き、親子三人に向け、大粒の涙をボロボロとこぼし、ふた息ついて逝きました。その光景を思い出す度に、今でもボクは、呼吸が苦しくなるのです。そのような情況のなかで、この文章を書き綴っているものだから、お見苦しいところが多々ありましょう、ご了承ください。乳癌発病以来、脳、肝臓、骨に転移して、六年余の闘病生活の果てでした。よく頑張ったとしみじみと感じ入っています。享年六二歳。こんなに悲しいことが、この世にはあるのかと、今更に気付く体たらくではあります。

 

●映画「十戒」のごとく

 

 ボクが、七二年に青い芝の会の横塚さんと出会い、本格的に障害者市民運動に関わる以前、つまりこの私的放浪史の前史に当たる一九六〇年からの一〇年間は、今では死語になりつつある「左翼世界」というところにボクの籍を置いていた。詳しいことは中略するにしても、六〇年代前半は、日本社会党、日本社会主義青年同盟という組織、政党での書記、オルグとして活動し、六五年日韓条約反対闘争の頃からは、当時流行りの「反戦青年委員会」を足場としていた。その当時には、ボクは知らなかったけれど、保子さんは熊本大学教育学部にあり、障害児教育を専攻していたらしい。大学卒業間際には、当時の学生運動と連動して、学生寮闘争委員長もやっていたとのこと。大学卒業後、その活動歴が問題になり、地元熊本県での教職員試験に敗北して、大阪・大東四条畷で受験し、大東市で教職員として働いていた。そんなボクと保子さんが出会ったのは、ボクが、高校生を組織して、「高校反戦」という活動に入り、「沖縄奪還闘争」を巡り、大阪府教職員組合主催の「沖縄奪還集会」にデモをかけたことによって、日本社会党を追放され、その後、怒涛のように敗北した七〇年安保闘争を経て、最後の頃の反戦運動のひとつ、大阪府庁前にある教育塔広場での、反戦教師の会主催の反戦集会でだった。保子さんは、大東反戦教師の会に所属していた。

 ボクたちが、高校生とともに集会場に到着すると、教育塔の前には、反戦教師の会のひとびとがおり、会場前には行けなかった。そこで前に行かせろ、行かせまいのひと悶着があって、ボクは、高校生たちをアジリ倒した。「七〇年闘争において、多くの教師や学生が闘争に参加したけれど、その結果として、職を追われた教師はいるのか。学業の場を追われたのは、全て学生、高校生であった。だとすれば、本日の集会の前面に位置するべきなのは、教師なのか、高校生なのか」と。高校生たちは、憤激しつつ会場壇上を占拠するべく、突進し、そして占拠した。ボクたちが、壇上を占拠し終わると、会場の隅の方から、二、三人の教師による拍手が、パチパチパチと届いた。ボクが、いぶかしげにその方向を凝視すると、ボクの錯覚ではあろうが、ひとびとの群れが、映画「十戒」の場面の海のように、スルスルスル〜と割れたように想えたのだった。その先の木陰に保子さんはいた。

 ボクは、これが運命なのかと面くらいながらも、多分このひとと一緒になるんだろうなと予感した。集会の終わり頃、ボクは、保子さんの元に駆け寄り、職場の電話番号を聞き出した。携帯電話もメールもない時代のことで、極めて牧歌的なものだった。その後、ボクは、所属していた、同じ大阪五地区反戦共闘会議ネットの東淀川反戦青年委員会から、大東反戦青年委員会に転籍し、様々な活動の場で保子さんと顔を合わせるようになったのだった。

 そんなよくワケの分からない日常(時は、七〇年闘争の余熱の只中にあり、行方を見失ったエネルギィが、反戦から狭山差別裁判や、反公害闘争、障害者の大学聴講運動に向かい始めていた)のあるとき、保子さんが顔面を蒼白にして、ボクの住む小汚いアパートにやって来た。聞けば、保子さんの教えていた障害児が、大東市内にある外科病院で、ロボトミー手術を受けて亡くなったとのことだった。遺体には、明らかに薬のせいと見られる紫色の斑点があり、医療過誤の疑いがあると、保子さんは、からだを震わせ、本気で怒っていた。どうしたらいいのだろうかと、ふたりで亡くなった子どもの保護者宅を訪ねて、裁判に訴えればどうだろうかと話し込んだものだが、親は、諦めの表情を崩さなかった。そのうち、この問題は、保子さんの内面に、無力感と深いキズを残したまま、ウヤムヤにされてしまった。そういう時代でもあったのだ。ボクが、障害者市民の問題と向き合ったのは、これが最初のことである。そういう点では、保子さんこそが、能力主義階級闘争にドップリと漬かっていたボクに、救助の浮袋を投げてくれた、そのひとではあった。

 

●出会いは、続く

 

 そうこうしている内に、時代は、ボクたちの想いとは別に、ドンドコと加速していく。反戦、反安保の熱も下降線をたどり、街頭にあったエネルギィは職場や学園に退却し始め、労働組合や市民組織は再編と苦悩の時代に突入するハメになる。キューバ危機やベトナム戦争の集結に向かう動静が、ハイヨー・シルバーと時代に拍車をかけたのだった。

 ボクは、その時期、まっとうな職にはついていなかった。もっぱら友人のアパートにたむろして、なけなしの小銭で酒精と戯れ、天下国家&時代と歴史に向かって遠吠えするばかり。反戦青年委員会は、開店休業の状態で、メシのタネは、友人が稼ぎ出すアルバイト代が頼みの綱だった。

 世には、捨てる神あらば、拾う神ありで、大阪市内にあった私大の教授(このひとは毛沢東主義者で、二年で決別した)が声をかけてくれ、出資するからスナックバーでもやらないかと持ち掛けてきた。教授は、溜り場を作りたかったようなのだ。ボクと怪しい友人とふたりで、アイヨとふたつ返事。大阪・豊中市の阪急電車豊中駅裏のビル地階に「スナック・乱」なる店をオープンさせた。ボクは、大東市から豊中市に通うことになる。

 まぁ今から考えれば、とんでもはっぷんの話で、ド素人が呑み屋をやって流行るハズがない。その上、デモがある日は臨時休業。深夜、大東まで帰るのに電車がないから、タクシー利用。豪勢な話ではありますまいか。なんぼ高度経済成長期とはいえ、こんなので利益が上がるのなら、みんな呑み屋をやるべぇな。ということで、一年も持たずに倒産に至った。

 その倒産必至直前に、ボクの先輩のNさん(このひとは後年、精神を病み交通事故で亡くなった)が、水俣闘争を現地で担うべく水俣市に引っ越したから、一度、陣中見舞いに行こうとヤケクソの水俣参りが企画された。今日のように、飛行機や新幹線でペッと行くワケではなく、オンボロ自動車にギュウ詰め、フェリーに乗り、高速道路がまだ開通していない頃のこと、一般道をひた走るビンボー旅行なのだ。

 ガソリン代にもキュウキュウしながらの道程だから、人数の多い方が安価に上がる。ということで、ふっと思い付いたのが、保子さんの顔だった。ちょうど学校は夏休み。保子さんが故郷の熊本県・天草に帰省するという話を小耳に挟んだものだから、早速、保子さんを勧誘することにした。ところが、この旅行を境にして、愛の暮らし同棲時代が始まり、以降、保子さんが亡くなってからも、何度も天草まで足を運ぶことになろうとは、誰が知ろうか。   つづく