新・私的「障害者解放運動」放浪史 8

『そよ風のように街に出よう80号』(2011年1月発行)より

●真夏の夕方に

 

 先輩、Nさんの、反公害闘争水俣現地への転居を受けて、大東市内&豊中市内往復水商売倒産寸前のチョー貧乏激励旅行の計画は、へろへろと進行していた。多分、この旅行が終わりしだい、ボクたちは無一物の貧乏暮らしに舞い戻るしかない結果を予感しながら。ボクが障害者市民解放運動に拾われる一年前の七〇年後半、七一年前半の頃なのだった。

 確か、あれは八月の暑い夕方だった。人数が多い方が、オンボロ車のガソリン代が浮くという、安手のチエで、ボクが熊本・天草帰省希望をする保子さんに声をかける手筈になった。同行者は、配線工のH、落ちこぼれ受験生のK、お人好しで、ひと騙しのYとボク。それに保子さんの五名になる予定なのだ。大東反戦青年委員会の会議が、大東市内の喫茶店であり、ボクは、会議の間、いつ、どの場面でお誘いの声を保子さんにかけようかと、おろおろしていた。会議も終わり、みんながぞろぞろと喫茶店を出、それぞれに散り始めたとき、ボクは、友達ふたりで帰りかけていた保子さんの後を追いかけ、かげろうに照り返す道路の真ん中で、カクカクシカジカと、九州貧乏旅の計画を持ちかけた。保子さんは、軽くウンとうなずき、真っ白な歯を見せ微笑したのを鮮明に覚えている。その保子さんの隣りにいた友達がYさんというひとで、昨年、保子さんが亡くなってから、ボクの自宅を訪れてくれ、「あの時ね、保子さんが、とってもスゴイひとがいると囁いたんよ」と、話してくれた。まだふたりとも二〇歳代のことである。夕日に影が長かった。

 

●船は出ていく、待ち人来たらず

 

 今日の若いひとたちには、想像が出来ないだろうけれど、七〇年代初頭のことである。自動車がまだまだ高価で、自家用車が少ない時代でもあった。高速道路も未整備で、大阪から九州までは開通していなかった。今でもニッポン文化風土では、盆&正月に、帰省の人波が全国各地の道路に溢れるのである。当時の帰省手段は、鉄道、フェリーが主で、飛行機少々が常だった。どの手段も満員御礼の札がぶら下がっていた。ボクたちは、オンボロ車にしこたま荷物を詰め込み、大阪天保山港から、関西汽船フェリーに乗り込み、港で待ち合わせていた保子さんの到着を首を長くして待っていた。しかし、当の保子さんがなかなか現われない。その内、船出のドラが鳴り響く。それでも現われない。アワを食うとは、あのことではなかろうか。船が桟橋を離れる寸前に、保子さんの姿が見えた。アウトォである。ボクたちは、デッキから身を乗り出して、怒鳴った。「神戸港で乗れーッ」と。当時のフェリーは、大阪を出ると、神戸港に立寄り、それから九州に向かったのだ。大阪、神戸間は、約一時間。電車で急げば間に合う道程ではある。そして、保子さんは、汗まみれになりながら、神戸港から乗船してきた。想わずボクは、保子さんと固い握手をしてしまったのだった。ホント、ドラマのような船出ではあった。

 

●ロマンチックやなぁ。夜の甲板

 

 総勢五名は、勢揃いしたものの、なにせ車つき二等船室の貧乏旅なのだから、船室はチョー満員で眠るスペースなぞ、どこにもない。仕方がないから毛布を借り受けて、甲板の海風の当たらない場所を確保して、ザコ寝をするしかなかった。このような、この船に定員というものがあるんかしらという、チョー満員フェリー状況は、後年、保子さんと結婚して、年に一、二回、天草に行くようになってからも、八〇年代の終わり頃までは続いていたように記憶している。新幹線や高速道路が開通して、自動車の普及と飛行機の便数が増加してからは、かなり改善はされたけれども。

 どうにもこうにも正体不明の五人連れは、フトコロをまさぐって出し合った小銭で買い込んだ缶ビールを呑みながら(発泡酒なんというものは、なかった)、七〇年闘争の敗北論議、これから先の展望について、人生いかに生き、カクメイに向かうかと、談論風発。とても楽しい船上の夜更しだった。そして、とうとう眠らずに、早朝に九州・小倉港に到着したのだった。ロマンチックは、体力を酷使する。今は、頼まれてもやれない、青い春の一夜が、そこには、確かにあったのだ。

 小倉港に着いても、高速道路はないワケで(あってもおカネがないから、使えない)、国道三号線をトコトコと、南に向けて走るしかない。小倉ー鳥栖ー久留米ー大牟田ー熊本をただひたすらに走る。熊本駅前を通過して、宇土市から右折して、宇土半島を縦断。まだ架かって新しい天草五橋(因に、保子さんが熊本大学在学中、大阪で教員になった頃には、まだ橋は架かっておらず、本渡市から船で三角という港に渡り、そこから三角線の汽車で熊本駅に行ったそうである)を渡り、松島町というところに到着。昼前だった。もう全員へろへろ。ところが、保子さんの実家は、まだその先の本渡市というところだそうな。ボクたちの貧乏旅の目的地は、公害の町、水俣市なのだから、とてもそこまでは、送れない。今日中には、水俣市のN先輩宅に到着しなければならないから、ここからは、バスで行ってもらえまいかと、実に勝手なお願いをする。保子さんは、またまた白い歯を見せて微笑し、ウンとうなずいた。なんだかとても寂しい気分がした(現在では、道路も格段に整備され、高速船航路、天草空港もできているし(ただし、使われている飛行機があのボンバルディア社製なので、乗るのに多少勇気が必要)、本渡市(現在は、合併で天草市)から熊本市まで、車では、三時間弱の道のり)。松島町で、保子さんと別れ、宇土市まで取って返し、南に向け、右折。八代市(歌手・八代あきの故郷でもある)を通過、そして、水俣市にどれどれと雪崩込んだのだった。

 

●観念の闘い

 

 先輩のNさんは、有名な百間港(チッソの排水口から、水銀入り排水が流されていた)近くの、海辺の一軒家を借りていた。Nさんとの再会に、心が弾けそうになったが、そこはそれ反公害闘争の現地、水俣である。患者団体のチッソ正門前坐り込み(当時、宇井純さんたちが科学的検証を重ね、チッソと水俣病の因果関係を立証して、裁判闘争が次々と提起されていて、その支援のために、坐り込み闘争が続けられていた。その宇井さんも、既に亡くなられている)へ、表敬の坐り込み参加を果たした。

 その後、Nさんの誘いで、当時の国鉄水俣駅近くにあった、小さな呑み屋で豚足をアテに、ささやかな再会&激励の宴を開くことになった。当時の水俣というより、水俣そのものが保守的な風土であり、住民は、大なり、小なり、チッソ株式会社とのつながりで生活を成り立たせていた。水俣は、文字通り「チッソ城下町」なのだった。だからして、チッソに反旗をひるがえし、チッソの水銀排水たれ流しを断罪し、水俣病患者の苦痛からの解放と、賠償請求のために立ち上がったひとびとは、水俣全体から、異端住民として見られていた。支援のひとたちも、まだまだ少数にしか過ぎなかった。そんな町の呑み屋である。酔ってはいても、大声でチッソを批判するのは、はばかられるような雰囲気が漂っていた。呑みかつヒソヒソ会話を続ける内に、なんともいえない感情に支配されていった。

 宴も果てて、Nさんの居宅に泊り込んだ、怪しいボクたちは、夜も明けやらぬ時刻、ゴソゴソと起き出してオンボロ車に乗り込み、海側とは反対の水俣市街を見下ろす、山側を目指した。そして、畑よりも一段高い、コンクリートづくりの土止め塀に、今日流行りのデッカイ落書を記した。曰く『公害企業・チッソ徹底糾弾!大阪五地区反戦青年委員会』と。この落書は、五、六年後に水俣を訪れた折にも、クッキリと残っていた。

 現地で苦闘を続けるひとたちの想いとは無関係に、ボクたちの観念だけを書き付けたのだから、六八才の今、冷や汗が、たらり、たらたらの感がある。そしてまた、ボクの想念は、保子さんの微笑のなかを漂うばかりだった。

 

●歴史は、突然やってくる

 

 ボクの気持ちが、早く逝ってしまった連れ合いの保子さんの微笑のなかを漂うばかりだった、一九七一年前後。つまり、ボクが障害者市民解放運動に拾われる一年くらい前の時代。観念だけでの、水俣反公害闘争参加とチョー貧乏旅行の顛末を続けようとしていた矢先。保子さんが亡くなって七ケ月後の二〇〇八年二月一七日に、衝撃的な知らせが飛び込んできた。

 『後藤安彦さん七八歳(ごとうやすひこ—本名・二日市安〜ふつかいちやすし—翻訳家)一六日、急性肺炎のため死去。葬儀は一九日午前一〇時、東京都杉並区高円寺南二の二の二のコムウェルホール高円寺。自宅は世田谷区砧六の二六の二一。喪主は妻可代(かよ)さん。

脳性まひ患者だったが、主に推理小説を翻訳しながら、障害者問題にも取り組んだ。前妻は脊椎(せきつい)カリエスを患っていた作家の仁木悦子さん(八六年死去)。』毎日新聞訃報欄より。

 がそれである。「そよ風のように街に出よう」本誌に連載されている「日の光があふれていた」の執筆者で、ボクたちの大先輩でもある二日市さんが、入院先の病院で亡くなったのだ。少し前から体調不良があり、入退院を繰り返されていたこともあって、ウームと感慨が深く胸を突く逝去であった。日本障害者市民解放運動は、大きな、大きな柱を、またひとつ失ったことになる。これからは、全国の心あるひとびととともに、小さな柱の力を寄せ集め、障害者市民解放運動と、その先にあるであろう「にんげん解放」の大道を、とぼとぼ歩き続けるしかないのであろうか。ということで、筆先は、水俣を棚上げして、東京に向かう。

 訃報翌週の二月二七日。牧口一二長老と同行ふたり。東京に赴き、世田谷区砧の二日市さんのご自宅に、お参り方々おうかがいした。祭壇にあるお骨箱の横の二日市さんの遺影が、微笑をたたえてお迎えくださった。いつものように「やぁ、やぁ」という声が聞こえてきそうで、胸が詰まった。

 私事だが、その前日の二五日、二六日は、ボクの父方、母方、最後の叔母(母の妹)の通夜、葬儀だったので、とてもたまらなく、切ない三日間ではあった。

 

●小田急・小田原線・祖師ケ谷大蔵駅

 

 二日市さんのご自宅は、祖師ケ谷大蔵駅から、歩いて一〇分くらいのところにある。閑静な住宅街の奥まった場所の、広い平家建。ご自宅への訪問は何度かあり、泊めていただいたこともある。長老牧口一二との訪問は二回目であった。祖師ケ谷大蔵駅に降り立つと、以前におとずれた時と、街の表情がガラリと変貌していたのには、ふたりともに溜息が出るばかりだった。以前の駅は、地面にあり、線路も道路と交差していたのだが、降り立った駅舎と線路は、空中の高架にあった。駅舎の通路には、大小のウルトラマン人形が展示されており、さながら記念ハウスの様相。この世田谷区砧には、円谷プロダクションの本社(近々取り壊されるらしい)があり、その影響で「ウルトラマンの街」を名乗っているらしい。

 まぁ、そんなことはどっちでもよくて、二日市さんのご自宅を交差点に、筆をすすめたい。ご自宅には、仁木悦子さん名の表札と、「障害者団体定期刊行物協会」の看板が、二日市さんの名前とともにある。仁木悦子さんのお名前は、広く知られている。一九五七年、江戸川乱歩賞を「猫は知っていた」の作品で受賞した推理小説作家である。ボクも二回、ご自宅でお会いしたことがあり、もの静かな中にも、熱い情熱を、その視線に感じいらせられるひとのように、ボクは、ズシリと受け止めた記憶がある。その仁木悦子さんが、二日市さんの前のお連れ合いなのだ。残念なことに、一九八六年にお亡くなりになり、落胆し、憔悴する二日市さんの表情を鮮明に思い出すことができる。現在でも、仁木さんの書斎や著作物、数多くの蔵書が、二日市さんと、現在のお連れ合いの可代さんの努力でそのままに保存してある。

 

●おそらく日本初の障害者市民運動

 

 そよ風のように街に出よう本誌七三号特集に、船橋のご隠居と称され、障害者市民運動に正しい苦言を呈せられている宮尾修(七八歳)さんの証言がある。『一九七三年に、「福祉元年」という言葉が出てきた。そのときには、すでに二日市さんたちが、八〜九くらいの障害者文芸団体で、障害者市民が発行している出版物の送料負担軽減のために、障害者低料第三種郵便のことで、首相官邸に陳情してました。佐藤内閣のときです。そのように、七二年から、それが運動として取り組まれ、制度化されていったんですね。この運動は、日本における障害者市民運動が初めて制度として勝ち取った、歴史的な運動だったですねぇ。』と。ボクがまだ観念と格闘していた時代だった。

 ご自宅にある看板と事務所、「障害者団体定期刊行物協会」の代表が二日市さんの終生の役職でもあった。事務所は、現在でも機能していて、全国各地の定期刊行物協会のまとめ役、本山としてある。この低料第三種郵便制度は、近年、郵政民営化などによって、揺らぎ始めているけれども、二日市さんが、日本障害者市民運動に先駆け、先鞭をつけたことは、あまりに大きく、重いものではある。

 約四〇年前に起こされ、情報発信の自由のための運動が実を結び、制度として動き始めた事実を知るひとは、現在の障害者市民運動を担うひとたちの中にも、あまりにも少ないのではあるまいか。今では、低料第三種郵便を取り扱う協会が、全国各地に二六協会組織され、地域での障害者市民団体の重要な情報媒体として機能しているし、加盟団体は千七百を越えている。それほどに、二日市さんたちが解き放った、抑圧され続けていた障害者市民の、情報エネルギィは、巨大だったのである。銭カネだけの問題ではない。自分たちを表現することは、自分たちを実現することなのだと、二日市さんは、考えていたのではなかろうか。

 ITだ、コンピューターだ、メールだとかしましい時代になってしまったけれども、活字紙媒体の役割りは、終わりはしない。時代を越えて、人間の言葉を伝えるものとして、深化させられるに違いない。その先見の見識を備えておられた二日市さんは、やはり、凄いのだ。障害者低料第三種郵便制度を利用しているひとや、団体は、二日市さんの死に涙せよと、怒鳴りたい気分にいるボクは、ヘンかなぁ。

 

●電動車イスの散歩

 

 あれは確か、八七〜八年の頃だったと思う。取材か、集会参加かの用事があって、東京に行った折に、二日市さんのところに泊めてもらったことがある。夕闇せまる頃、いつものように、「あのね、あのね。河野クン、あのね」と、せき込むように二日市さんが、語りかけて、「駅の近くに、焼酎と焼鳥のウマイ店があるんだよ」と、誘っていただいた。もう後は、二日市さんと話したり、いろいろ教えてもらう、楽しい夜の時間だけなのだからと、渡りに船。ホイホイと、あまり深酒はしないハズの、二日市さんの電動車イスの後につき従って、街灯が薄く灯る夜道に足をつけた。  つづく