新・私的「障害者解放運動」放浪史 9

『そよ風のように街に出よう81号』(2011年7月発行)より

●街灯に薄く灯がともる夜道に、足をつけた

 

 前回は、被災障害者支援・ゆめ風基金・よびかけ人代表の小室等さんのマネージャーさん退職祝い食事会、同じくゆめ風基金よびかけ人のおひとり、筑紫哲也さんの病気お見舞いと、直前にお亡くなりになった大先輩の翻訳家・二日市安さん宅を訪れ、お参りするという三題話東京道行きから、一九八六年にお亡くなりになった二日市さんのお連れ合いさん、作家の仁木悦子さんに触れ、その当時のエピソードの始まりどころで終わってしまったので、その続きから。ボクも二〇〇七年に連れ合いを亡くし、当時の二日市さんの憔悴に想いを至せるかもなぁと。

 「河野クン、あのね、あのね。駅前に、焼酎と焼鳥のうまい店があるんだよ」という、二日市さんの誘いにマンマと、後は、二日市さん宅に泊めてもらうだけなのだからとの言い訳を添えて、飛びのった。じゃあ行きましょうと、二日市さんの電動車イスにつき従った。ところが、二日市さんの進む方向が、駅前とは反対方向なのだ。ままよ、まぁここはついて行くしかない。なんせ、当時のボクの懐には、貧乏神が住みついており、スカンピンなのだ。そのボクに、二日市さんは、ありがたくも、サケと食い物を奢るとおっしゃっておる。サケも飲みたいし、腹も減ってる事情がボクにはあるし、奢り主の言い分に逆らう理由はマッタク無い。そして、二日市さんの電動車イスは、ボクが小走りにならなければならない程の早さで、スイスイと進む。

 そして、時折、公園とか広場、小川のほとりに車イスを留めて、「ここの公園では、毎日、悦子と電動車イスを連ねて、散歩したついでに、いろいろ話し合っていたんだ。ここでは、推理小説の構想とか、ボクの翻訳の仕事のこととか。いっぱい話したなぁ」と、連れ合いさんとの思い出話をひとり語りされ、長時間の解説つき。そして、次へスイスイ。「この川の土手に咲く雪柳が、悦子は、とても好きでねぇ。あのひとは、花が好きだったなぁ」と、とうとうと。そして、またスイスイ。とある場所では、「悦子には、才能がありましたよ。いろいろな構想を持っていて、ボクは、それを聞くのが楽しみだったなぁ」と、しんみり、たんまりのひとり語り。ボクはといえば、二日市さんの車イスについて行く小走りで、ハァハァして息が上がる。留まると二日市さんのひとり語りに相槌を打つので、チョー多忙。スイスイ、ひとり語り。スイスイ、ひとり語りの連続で、駅前のウワサの焼鳥屋にたどり着くのに、二時間の歴史を要したのだった。

 まぁ、そこは二日市さんのこと、焼鳥屋では、ご自分は、あまりお呑みにならないし、お食べにもならないのに、ボクには、どんどんとすすめられて、ボクは、どんどんヤリました。お蔭様をもちまして、二時間ほどの楽しい二日市さんとの呑み会は、盛り上がり、そして、ボクは、結構デケてしまったのだった。

 

反省だけなら

 

 酔ってしまったからいうわけではないが、二日市さんが悦子さんに持つ想いの深さについてのボクの測量は、見事にはずれていたのを思い知らされたのは、その後であった。たっぷりと呑みかつ食べたので、サァ、ボチボチ引き上げましょうかと、二日市さんの勘定が済むのを待って、店の外に出た。それからは、一〇分程の距離をスンナリ帰るのかと思いきや、店到着以前のスイスイ、ひとり語りの旅が再開されたのだった。往路程ではなかったが、二日市さんの自宅に帰り着くのに、小一時間はかかっただろう。帰りは、ボクも二日市さんも酔っている。しかし、二日市さんは、電動車イスなのだ。酔いは、あまり関係ない。しかし、ボクは、スイスイ、ひとり語りに、小走りで伴走しなければならないのだ。息は上がるは、眼は回る。二日市さん宅に到達した頃には、完全にデケていた。「河野クン、ちょいと呑みに出ようか」の二日市さんの科白にのったのが、この結果。全体で五時間の「ちょいと呑もう」だったのだから。ご自宅に着くなり、ボクは、二日市さんの介護も放ったらかして、出る前に用意しておいた布団に倒れ込んだのだった。気がつくと、そこは、閑静な、朝の二日市さんの自宅だった。

 ひとは言う「反省だけなら、サルでもデケる」と。

 そのような思い出深いことのあった時期には、仁木悦子さんの部屋が、生前のままあり、書棚のものも、そのままにあった。そして時代が移り、今回の無念のお参りになったのだが、屋内を見渡すと、仁木さんの部屋は、そっくり、そのままにあった。二日市さんの、仁木さんに対する想いの深さの断片に触れ、ボクの連れ合いに対する想いも重なって、涙が、どど〜っと溢れるのを止められなかった。

 

去る者、日々に疎し……であっては、なるまい

 

 あまりに大き過ぎるアナポコが、二日市さんのご逝去によって、日本障害者市民解放運動のジャンルに開いてしまったと、本当に、本当に、つくづく感じる。と同時に、ひとびとの歴史は、嘆いても、嘆いても、元には戻らないことも事実であって、否が応でも、ボクたちは、未来を見据えるしかない。奇しくも、〇七年七月、ベ平連(七〇年代に設立された、ベトナムに平和を!市民連合)創設者のひとりであった作家の小田実さんが亡くなり、〇八年の四月には、作家の岡部伊都子さんも亡くなった。そしてボクの身近なこととして、ボクの住いする、大阪北部の街、箕面市の元市長であった橋本卓さんが、〇九年三月にお亡くなりになってしまった。

 これらのひとびとは、ボクの放浪史だけではなく、戦後六三年の歴史を切り開いてこられた、ボクたちの先達である。ボクは、青い匂いにまみれて、反戦青年委員会運動にうつつを抜かしていたから、小田さんとは直接の面識の機会を持たなかったが、国論を二分した日米安保条約闘争の前後に、その作品や行動から多くのことを学ばせていただいた。岡部さんとは、偶然に「ノーマライゼーション研究会」設立時からのお付き合いだった。研究会の事務局を担当していたボクのところに、岡部さんから電話があった。事務量が多く人手がないもので、会員に送った通信物の宛名に「様」が抜けていたのだ。電話は、そのことを指摘するものだったが、「なにしろ人手がないもので、失念しており、大変失礼をしました」と平謝り。岡部さんは、それに応えて「そりゃあ、大変ですね。まぁ、様がなくても、生身の人間のところに届いているのだから、よろしいんじゃありませんか」と、おっしゃって、こちらは冷や汗三斗の思いをした。そのときに交わした会話の中に、ボクの連れ合いが岡部さんの大フアンですというのがあって、以後、最後の著書になってしまった「遺言のつもりで」まで、新著を出版されるたびに、いつも一冊の謹呈本がボクと連れ合いの手元に届いた。なんとも感謝しかできない。

 橋本さんとは、ボクが五〇歳の誕生日を記念して、「五〇歳の闘争宣言」という、ボク主催の集まりに出席いただいた頃からのお付き合いで、そのすぐ後に行なわれた箕面市長選挙に出馬してくれと、当時のバドミントンナショナルチーム監督であった、サントリーの山本次夫さんとふたりで口説きに行った思い出がある。橋本さんは、「市職員は、市民と論争しなさい」が口癖で、実務において、(財)箕面市障害者事業団を設立させもした。市長退職後も自治政策研究組織「未来自治・フラップ」の活動をご一緒させてもいただいていた。

 今、ボクたちの身の周りにあることどもは、突然に立ち現われたワケではない。先達たちの汗に彩られて創造されたものである。それらを忘れずに記憶し、また新しい記憶をボクたちが継ぎ足して、あらゆるこどもたちに手渡さねばなりますまい。去る者、日々に疎しであってはならないのだから。

                  

旅は、道連れってかぁ

 

 一九七九年養護学校義務化に対する、全国青い芝の会の人間としての美しい闘いの本筋になるハズだったけれども、人間の予想ほどアテにならないものはない。どうにもこうにものやんごとのない連れ合い、保子さんの乳癌闘病六年間の末の死去という事態に直面してしまったのだから。そして急遽、そのメモリィ世界描写へと、横道にそれたのだが、いざの時期に、日本障害者市民解放運動の大先達であり、ボクが編集長をしている本誌の執筆者でもあった翻訳家、二日市安さんの急逝にゴツンとブチ当たってしまった。仕方なく、何に対しての仕方なくなのかは不明のままに、メモリィ世界から、またまた横道に侵入。従って、今回前半も、二日市さんへの追悼色に染まった記憶文章になった。そして迎えた今回後半なのだが、横道から横道へとすすんだ筋目を、ひとつ回復して、ただの横道に戻る。この横道のメモリィ世界が終了次第、本筋の一九七九年前後の我等が障害者市民業界動向に向かうことをお約束したい。したいなぁ〜と。

 ときは、一九七一年頃のことである。この年に、カンケーないけれど、NHKテレビが全面カラーに移行している。時代は確実に、現代へと転換しつつあった。それも様々な矛盾を抱え込みつつ。その時代のシッポのあたりで、ボクと後の連れ合いの保子さんの出合いが、チョコチョコと進行していた。以前に書いたように、熊本県宇土半島の松島で、(その頃になると、保子さんのことが、ボクの脳の内外を占拠するようになっていた)後ろ髪をひかれる想いで別行動に移り(当時のボクは、現在のように坊主頭ではなく、ヒゲはあったけれど、長く髪を伸ばして、頭の後ろでチョンマゲのように束ねていた)、保子さんは、天草の実家へ。ボクたち正体不明の四人組は、公害の街、水俣市のN先輩のもとへと、旅を続行させたのだった。

 

観念の闘いも終わり

 

 水俣市では、N先輩と旧交を温め、水俣反公害闘争を支援すると称して、落書き宣言を敢行したりして、観念の世界に浸り切っていた。しかし、どんなことをしていても、ボクは、いつも保子さんのことを考え続けていたのだった。

 ひとという生き物は、なかなかよくデケた生き物で、観念三昧の時の過ごし方ではあっても、水俣現地のひとたちとの交流は、確実に積み上げられた。作家・石牟礼道子さんのお連れ合いで、当時、水俣市教職員組合の書記長をしていたひととも知り合い、いろいろ親切にしていただいた。そのおかげで、水俣病患者さんたちとも知り合いになれた。そのことが、後年の障害者市民解放運動に参加したときの考え方に、栄養を供給してくれることにもなった。

 正体不明四人組のフトコロがピーピーと歌い出し始めた頃、ボクたちは、N先輩(このひとは、後に鳥取県に移り、心の病を患い、闘病のなかで仲間と出合い、結婚されたけれど、交通事故で亡くなった。惜しいひとだった)と、惜しみつつ別れ、水俣市を後にした。

 帰途は、鶴で有名な出水市から、鹿児島市を経由して、宮崎市、大分市に向けて、オンボロ車でトコトコと。別府港からフェリーで大阪築港へと、実に見事なチョー貧乏旅行を貫徹した。今程セコセコしていなかった時代だからこそ出来たのかもしれない。ところで、この四人が四人とも、職を持っていなかったのだから、帰ってきてもすることがない。なんかせんとなぁと、タメ息、タメ口。そこで思いついたのが……。ボクが障害者市民解放運動に参加するまでに、まだ時間のあった頃。

 

レモンの旅社

 

 そろそろ学校でも、公害問題が学習され始めていたこともあって、水俣公害現地研修旅行、今でいうツアーを企画しようじゃあないかとなった。そのカスリでメシを食おうとも。ツアー資格も何もないボクたちと、現地の窓口をN先輩にして、現地案内は、現地の患者さんたち。宿泊は、水俣教職員会館。行きも帰りも国鉄急行列車という、当時としても、トビッキリの格安、激安ツアーだった。

 大阪府下の学校に案内状を送りつけ、参加者を募集したところ、案外に参加者が集まった。一回三〇名くらいだったろうか。夏休みと冬休みの二回のツアーを実施した。評判が結構よく、シメこのウナギ、職創造に勝利せりと悦に入っていたところ、売り上げ決算をしたらば、収支トントン、利益なし。あまりに、親切、安上りなのだから仕方がないか。こうして、たった二回の幻の旅行社は、もともと認められていなかった世間から姿を消したのだった。そして、ボクたちは、それまで以上にビンボーになっていた。……その旅行社名を「レモンの旅社」という。一〇年くらい前まで、ボクの机の引き出しに、レモンの旅社のゴム印がころがっていたけれど、アレ何処にいったのかなぁ。

 

再会は、とっても恥ずかしく、甘い

 

 ボクたちが九州から帰って来て、しばらくして夏休みが明けた。お盆休みだった街が、ブルブルと身震いして、普段の活動を始め、学校にこどもたちの歓声が満ちる前に、保子さんが、熊本県天草から帰って来た。その顔を見たとき、とても恥ずかしい気持ちになったことを、ハッキリ思い出すことが出来る。

 それにしても、ボクたちは何もするアテが無い。新大阪駅前の第二地産マンション(ここが、後年、関西青い芝の会連合会の事務所になる)を、水俣反公害闘争をともに闘っていた持ち主の貿易会社のひとが、海外赴任したので、タダで借り受けていたところだけが居場所だった。その前にタムロしていた、豊中市内の喫茶店は、家賃滞納で追い出しを食い、その後のスナックも風前のともしび、八方ふさがり。ボクはといえば、相も変わらず、友人のアパートを転々としながら、デモと会議の日毎。これから先の展望など、百万件捜索願いを出しても見つからない状態で、酒精と観念に親しんでいたのだから、呆れるしかない生活態度だった。そこに保子さんが、実体として現われたのだから、もう夢中になって、明日を、時代を、世界を語り続けた。

 そうして、そのとき歴史が動いた。以前にも書いたように、大阪経済大学の教授が出資して作った豊中市内のスナックが、文字通り、予定したように、その殿様商法によって倒産したのだ。万事窮す、もうボクには、第二地産マンション(このマンションの一階の全フロアーが、彫刻家・岡本太郎の事務所だった)しかないし、反戦青年委員会運動は、さらに衰退しつつあった。反公害運動から、狭山差別裁判闘争、沖縄問題と間口は広がるけれど、奥行きの尻の落ち着き場所に、困窮し尽くしていた。

 そんな、どうにもこうにもブルドッグのある夜、例のごとく喫茶店で、熱だけ高い議論デートを保子さんとしていたところ、保子さんが話の一瞬の間を捕らえて、ニコニコ微笑しながら、「わたしと一緒に暮らしませんか」と、サラリといったのだった。ボクは、空想の世界から、急激に現在に引き戻されながら、「ウン!」とうなずいていた。

 でも、実のところ、前の連れ合いとは離婚出来ていない事情があり、それをどうするんだの囁き声が、耳の後ろで風を送っていた。こうして、ボクが障害者市民解放運動に飛び込む寸前からの、四条畷市、城東区、都島区、門真市、池田市、箕面市への旅が始まったのだった。  つづく