新・私的「障害者解放運動」放浪史 10

『そよ風のように街に出よう82号』(2012年1月発行)より

●仮の宿・池田市からの逃亡

 

 当時は別々に暮らしていた(当たり前だけど)、連れ合いの保子さんから、「一緒に暮らしませんか」と、電撃のような通告を受けて、大阪府四條畷市にあった彼女のアパートに転がり込むこととなった。当時は、反戦青年委員会運動が断末魔の吠え声を放っていた一九七一年頃。ボクは、四條畷市の隣り街、大東市のポン友のアパートからトンズラして、経営していたスナック倒産とともに、M君という、これもどうにもならないポン友と、大阪府池田市の市役所近く、風呂屋の裏にあった小汚いアパートをアジトとしていた(その内実には、語れぬいろいろがあった)。家主とは家賃が払えなくなった時点でバイナラするから、各地を点々とするしかないのだ。全うな職について働いていないのだから、当然の結果ではあるけれど。そのアジトを片付け、金目のもの(それなりのスーツなど数着を、家賃代わりに)を置き、M君には、「君は、君の道を行け」とかなんとかエエ加減なセリフを投げつけて、紙袋ふたつを小脇に携えて、保子さんのアパートへ、ゴロゴロ。(後年、青い芝の会運動再構築の際、資金確保のために、このM君とともに、現在もある放射線測定サービスKKを起こすことになる)

 保子さんは、教員として、毎日正確に出勤していくけれど、ボクには、行くところが新大阪方面しかなく、それも極端な宙ぶらりん。第二地産マンションの扉が重い。そこに現われたのが、ボクのお師匠さんである、日本脳性マヒ者協会青い芝の会の横塚晃一さんであり、名映画「さようならCP」であった。時は、七二年のことである。このあたりのことは、すでに詳しく書いたので、省略する。ただ、大阪青い芝の会結成や、さようならCP上映運動、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成に至るプロセスは、七二年から七五年の間に生起しており、この第二地産マンションと、アノ、怪かしの大広荘、現在の障害者問題資料センターりぼん社へとつながっていくのである。

 その頃のことは、この項の目当てではないので書かないけれど、いずれかの機会にモノしたいと願っている。惨憺たるボク的状況は、さようならCP上映運動の収益によって、インスタントラーメンをすすりながらではあっても、ラーメンのような極細生活が出来つつあった。

 

●四條畷市から、大阪市都島区へ

 

 さようならCP上映運動も、横塚さんの奮闘によって、へろへろと進み、以前にも書いた保子さんの教え子の障害児医療過誤事件も収束に向かった頃、四條畷市から、毎日、新大阪まで通うのはシンドイという、ボクのワガママと、保子さんの勤務する学校になるべく便利なようにと、当時の国鉄京橋駅と片町線に近いアパートに引っ越した。街には、かぐや姫の「あなたが書いた私の似顔絵〜いつもちっとも似てないの〜♪」と歌が流れていた。ホント、内緒の話だけれど、このアパートの流し台の上の窓から、向かいにあった風呂屋の女性風呂場が見えたのだった。もちろん、ボクは、覗いていません。

 このアパートに住んでいるときに、「一緒に暮らしませんか」の裏側にへんばりついていた、ボクの前の連れ合いとの離婚協議が、いろいろ、あれこれ、こまごま、すみませんなどがあって、その後に成立。そして離婚届け即日、保子さんの入籍が断行されたのだった。このあたりのことも、以前に書いたので中略。

 

●都島から都島。そして大阪府門真市へ

 

 少しの間だったけれど、同じ都島区の友淵町にも住んだ。今では、その理由も思い出せない。そして、より保子さんの勤務学校に近いところをと、大阪府門真市の自動車運転試験場の近くに転居した。この門真市では、京阪電車の線路を越えたところに、アノ視覚障害者の楠 敏雄氏が住いしており、いろいろありの怪しい親交を深め、それは今日まで腐れ縁として続いている。

 この地で保子さんは、妊娠し、出産のために、大阪府池田市に引っ越し、(近くにボクの母親が住んでいた)池田市の産院で第一子の真介を生んだ。七六年一二月三日のことだった。それからドタンバタンの子育てが始まり、育児、家事、勤務を彼女は健気にこなすが、ボクは、後年、(保子さんの謀略によって)家事を引き受けることになるけれど、その当時は「理念だ、解放運動だぁ!」と叫ぶばかりだった。多分、たまりかね、限界を越えたのだろう、ある日、尋常ならざる決意を込めた目付きで宣言した。「四條畷は、あまりに遠い。近くの箕面市に転勤することにしました」と。ボクは、学校的事情に疎く、それがどんな意味を持つのかも知らずに、それが出来たらいいねと、エエ加減の体たらく。

 一九七六年八月、全障連が大阪市立大学で結成された。その受付には、大きなお腹をした保子さんの姿があった。出産をし、現場に戻ったものの、転勤希望とやらが、そんなに簡単に実現することはなかった。保子さんは、箕面市教育委員会に執拗に通って希望を述べ続けた。それはまさしく、頼りないボクを当てにしないで、子どもとともに生きていこうする母親の姿そのものだったように想う。そういう母としての願いと、教師であり続けたいという信念が、岩をも穿った。

 七九年に、箕面市に新しい小学校が出来ることになり(現在の箕面市立中小学校)、その学校に聴覚障害児の言葉の教室が開設されることになったのだ。保子さんは、聴覚障害児教育の資格を持っており、教育委員会の希望と、保子さんの希望が握手することになった。中小学校の開校まで、箕面市立東小学校と、オープンほやほやの箕面市立総合福祉センターささゆり園に開設された言葉の教室に勤務した後、中小学校へ正式に着任したのだった。友人の教師たちに聞くと、このような転勤のあり方は、非常に珍しいとのことだった。つまるところ、保子さんの粘り勝ちなのではあろう。脱帽!

 

●到着したみなと、箕面

 

 ボクと保子さんの出合いからのことを、障害者市民運動をバックに、極かいつまんで書いてきた。出合いの前史、結婚した七五年からの年月は、四〇年を越える。この長い時間を食べ、ともに文句をいいながら、支えあい、慈しみあって、暮らしてきた。その最終の港、箕面の町で彼女は、ふたりの息子と、ボクを残して逝ってしまった。二〇〇七年七月三〇日。享年六三歳だった。

 次なる、「ニッポン障害者市民の闘い」に項を移す前に、保子さんが、箕面の街に残したものを、もう少しだけ書き連ねておきたい。そして、本筋の放浪史に進みたい。

 先にも書いたが、保子さんは、箕面市教育における「聴覚障害児教育」の先達として、箕面市という港にふんわりと着地し、それ以来、ボクとは違う方法論を駆使して、箕面市における障害者市民運動に関わり続けた。

 一九八二年に豊能障害者労働センターが設立されたが、その旅立ちの拠点が、ボクたちの自宅であったことで、当然のこととして、保子さんも、その渦中にあった。その原風景は、保子さんの脳裏にクッキリ刻まれていたことは、想像に難くない。豊能障害者労働センター設立以来、五年前に亡くなるまで、金額は時によったけれど、一時金からの支援カンパを欠かすことはなかったことが、それを示しているし、各拠点では、保子さんの教え子だった障害児たちが大人になっている。また、豊能障害者労働センター設立以後、次々と設立された障害者市民事業所、作業所に対しても、学校現場に身があれば、その現場から、教育委員会に身があれば、行政の立場から(学校教育部長も務めた)、陰になり日向になって、支援の綱を緩めることはなかった。

 教育委員会に席がある頃、いつもボクに呟いていた。「役所には、学校のような子どもたちの笑い声や泣き声がないから、寂しい」と。そして、どうしようもないボクと、ふたりの子どもたち。世界と時代の子どもたちを包み込むような思念を残して、逝ってしまった。ボクには、言葉で語れぬ濃密な時間と思い出を手渡して。今、ボクには、涙しかないのが悔しい。

                                                     

●私的の私的から、涙を拭い、一九七九年に向かう

 

 私的想いのたけが一段落したので、いよいよ七九年養護学校義務化前後の障害者市民の闘い方面に筆を進めたい。

 我が、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」七五号(〇七年十一月一〇日発行)特集に登場した、脳性マヒ者の教師、久米祐子さんは、教師歴二七年の強者であるけれど、その久米さんが大学受験をしたのが、七九年養護学校義務化の年である。つまり、全国青い芝の会や全障連が総力を上げて、養護学校義務化阻止の火蓋を切ろうとした時代に、既に障害者差別に抗する、次世代の障害者市民が育ちつつあったのだ。しかしながら、闘いの主体たる障害者市民の組織は、理念の深さは充分過ぎるほど持ちながらも、非力であることを否めなかったから、次世代の若い障害者市民にまなざしを注ぐ余裕を持てないでいた。それらのことが、後年の世代間つながりを弱めるような一面につながっていったのではあるまいかと、最近、よく考える。

 一九七三年、この年には、ベトナム戦争が終わり、オイルショックで世間からトイレットペーパーが姿を消した。五月には、政府が「優生保護法改正案」を国会に再提出することを巡って、青い芝の会が数度、当時としては珍しい、障害者団体として、厚生省との交渉を持っている。続いて、大阪青い芝の会が結成され、全国青い芝の会総連合会結成(初代会長・横塚晃一さん)に発展した。また、年末にかけて、兵庫県の「不幸なこどもの生まれない運動」のCMが、サンテレビで流されることへの糾弾闘争が、兵庫青い芝の会を中心に担われ、その計画を頓挫させた。

 年が明けて、七四年。障害者市民差別の「法的根拠」としてあった、優生保護法改正案は、七月の国会で廃案となり、年末には、関西青い芝の会連合会が結成されて、まだまだ萌芽的な動きではあったけれど、関西障害者解放委員会との共同の呼びかけで、大阪第八養護学校建設阻止運動が組織されていく。世間では宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」、いわゆるベルばらブームが沸いていた。

 

●ハテ、サテ、次なるは。初代会長・横塚さんの憂鬱

 

 サテ、全国青い芝の会総連合会が結成され、組織としては、関西青い芝の会連合会を初めとして、全国各地に脳性マヒ者の組織としての青い芝の会が生まれたものの、その組織に集まってきた脳性マヒ者は、総じて若く、障害者市民解放運動の経験があまり無かった。当然のこととして、活動の方向性とか、その理論的根拠は、全国青い芝の初代会長である横塚さんに求められることとなった。

 ところがである、それまでの「優生保護法改悪阻止」を旗印とした運動と、その世間的トレンドでもあった「障害児殺し糾弾闘争」も、優生保護法改正案廃案にともない、テンションが下がり始めていた。それらの活動の中心にあった青い芝の会も、方向性を見失う雰囲気が漂う。その当時、横塚さんは、本当に悩んでいたように、ボクは知覚していたものだったけれども、といって、ボクのコンニャク脳では、コレだという知恵が浮かぶはずもない。

 

●幸せになりたければ、釣りをしなさい

 

 当時、大阪青い芝の会も、関西連合会も、アノ、怪かしの文化住宅・大広荘を拠点としていたけれど、なんの制度もない時代である。介護者の人数は極端に不足していた。だのに、映画「さようならCP」上映運動や、いろいろな糾弾闘争に触発された若い脳性マヒ者が、どんどん増えて、まさに門前市を成すという感じではあった(本当は、そんなハズはないのであって、何も無しから始めた運動だったから、そのように感じただけだったのかも知れない)。トイレ介護、特に女性の介護者がとても必要だった。男のボクたちでは、それはかなわない介護だったのだから。大広荘は、東淀川区南方町にあり、周りはいわゆる被差別部落のひとびとの町であり、反差別という共通の空気が流れている町なのだった。甘える気持ちは毛頭なかったけれど、ボクたちは、背に腹は変えられないと、日頃から利用している食堂や、お好み焼き屋さんのオジサンやオバサンに、「ちょっと手伝って」と、無理をお願いして、介護を手伝ってもらうことが日常化していた。

 そのなかの、ひとりのオジサンが、ボクたちのことをとても気にしてくれ、何かと面倒見よく付き合ってくれていた。そのオジサンは、釣りが大好きで、近くの淀川に毎日程釣りに行き、時には二メートルもある巨大なウナギを釣ってきて、油ギトギトのカバ焼きを御馳走してくれたりもしていた。その影響で、大広荘メンバーの何人かは、釣り好き人間になり、オジサンの薫陶を受けて、釣り竿を担いで淀川通いをし始めていた。ボクもそのひとりで、淀川河口でのスズキ釣りに熱中していた。今も釣り好きボクは、その時代の影響なのではある。

 横塚さんが神奈川から来阪して、関西連合会の会合に出席した、ある日。やはり憂鬱そうな横塚さんの顔色だったものだから、「横塚さん、気分直しに、淀川へ釣りに行きましょう」と、横塚さんを誘った。横塚さんは、ウンと応じ、ふたりして淀川河川敷の釣り場に向かった。そこで、スズキを三匹程釣った頃、ボクの頭の中で、チカッと光る顔が現われた。それは、映画「さようならCP」上映運動の始まる以前からの付き合いがある、八木下浩一の顔だった。八木下はボクと同い年で、ボクがまだ障害者市民業界に参加する以前の、火炎瓶だぁ、ゲバ棒だぁと血道を上げていた頃、既に八木下は、埼玉県で自身の小学校就学運動を起こし、勝利し、障害児の地元普通学校就学運動の元祖の名を欲しいままにしていた怪男児である。その八木下が、ボクの脳の中でわめいていた。「河野ォ、養護学校の義務化は、アカン。許したらアカン。教育での分断は、もっとキツイ障害者差別を生むぞォ」と。

 それこそ、オヒザをポンである。「横塚さん、次の目標は、養護学校義務化阻止なンとちゃいますか。学校は、全国津々浦々にあります。障害者市民も全国津々浦々ににいます。このひとと、学校をつなぎ、教育を変えることを社会に提案すれば、障害者市民を社会に受け入れさせるのではなくて、障害者市民の存在こそが、日本の教育を変革する主体であることを実証できるのンちゃいますか」と、ボクは、なけなしの脳ミソを駆使して、大演説。続けて「既に、若い脳性マヒ者たちは、関西連合会を中心にして、教育を奪われ続けてきた無念をエネルギィに、養護学校義務化阻止のための組織づくりや、具体的な行動を提起してます。全国的な動きも始まりつつあって、大同団結のための全国障害者解放運動連絡会議結成の準備も、すすめられていますから」と、ウンウンチクチク。

 そのとき早く、そのとき遅く、横塚さんは、我が意を得たりと、ニッコリされ、「実は、ボクも若い脳性マヒ者の力を信じて、それを提案したいと考えていたんだよ」とおっしゃったのである。ホンマかいな、ボクは冷や汗三斗の想いでカラッポ脳と格闘してましてンでェ。

 

●晴れ晴れ。ハレハレ、バレバレ

 

 なんとなく、憂鬱の雲が飛散したような気分になり、横塚さんとボクは、意気ようようというより、釣り竿片手にヒョコヒョコと、淀川河川敷から大広荘に引き上げた。帰り着いた夕刻、釣ってきたスズキを塩焼きにして、小さな貧乏宴会を催した。関西連合会のメンバー、介護者のグ〜タラどもが、さながら大木を取り囲むようにして、横塚さんを囲み、想いのたけを話し合った。なんだか、とても暖かい空気に触れるような気持ちがした。

 「そうだ、わたしたちが奪われた教育を、奪い返す。これからの障害児に同じ目をさせてはならない」と、若い脳性マヒ者たちは語り、みんな本気だった。宴も果て、横塚さんは、最終の新幹線でお帰りになる。新大阪駅まで、ボクは見送りに同道したけれど、横塚さんの微笑が、輝き、まぶしかった。こうして、ボクたちの養護学校義務化阻止闘争のエンジンに火がついた。そのとき、横塚さんが持っていた女性用の雨傘の色と、横塚さんの呟き、「健全者ペースにだけは、してはいけないな」の言葉を、今でもクッキリと想う。それはそうと、「特別支援学校」って、なンやねン。  つづく