新・私的「障害者解放運動」放浪史 11

『そよ風のように街に出よう83号』(2012年9月発行)より

●きみたちは、映画・チェ・ゲバラ「28才の革命」(二〇〇九年一月公開)を視たか?

 

 一九七九年の障害者市民運動、なかんずく「七九養護学校義務化阻止」運動に接近して、多様な取り組みとひとびとの面構えを伝えようと、前号では、「特別教育支援学校」って、ナンダと終えた。ところがである。二〇〇九年が明けたとたんに、とても重要な訃報が飛び込んできた。「松井義孝さん(脳性マヒ者)一月一〇日、午前一〇時〇三分死去。享年五七才」がそれである。一二日、「成人の日」として、世間が喜びを沸騰させていた日に、松井さんの「告別式」ではない「お別れの会」が、大阪府堺市立斉場で行なわれ、ボクの姿は、その会にあった。

 誰のときでもそうなのだが、別れは切ない。とはいえ、なかでも、現代史のいち時代を共有しながら、共に駆け抜けたポン友を失うのは、とても辛い。それも、「逆縁」である。順番通りならば、ボクの方が先だったハズであるのに……。お別れの会が閉じられ、焼場に随伴して、形通りに松井さんは、分厚い扉の向こうへ姿を消したけれど、扉のこちら側は、現実の世間であり、扉の向こう側は、伝説の世界なのだ。松井さんは、伝説の世界の住人となってしまった。扉が閉まった瞬間、ボクは、一滴の落涙をし、心の記憶の池に静かに波紋が広がるのを知覚した。そして、問わず語りにからだが鳴動するのに耐えた。

 たんを詰まらせて、人工呼吸器を装着して、危篤状況であることは、障害者問題資料センターりぼん社のメール通信で知らされていたけれど、いのちの旅立ちに準備とか、用意をすることが出来るハズはない。「危ないんだな」とは認識出来ても、その死が今なのだと、受容することには、つながらないのが、ボク的状況なのだから、仕方がない。

 ボクは、一九五九年、つまり、チェ・ゲバラとカストロによって、キューバ革命が成された年に、いろいろと事情があって、おずおずと左側世界のドアをノックしたのではあったけれど、それ以後の一〇年とちょっとは、デモだ、ストだ、カクメイだぁのワメキ放題。またまた事情があって、ボクが左側の世界(日本社会党・日本社会主義青年同盟・反戦青年委員会など)から、半ば追放、半ば脱走した一九七一〜二年の頃、日本脳性マヒ者協会・青い芝の会会長・横塚晃一さんに出会い、その後の大阪青い芝の会・関西青い芝の会連合会の前身でもあった、兵庫県姫路市の書写養護学校卒業生を母体として始まった「自立障害者集団・グループ・リボン」運動のなかで、松井さんと出会った。奇しくも、チェ・ゲバラが南米革命闘争の末に殺された時期に符合する。

 

●松井さんは、革命に愛を求めた、チェ・ゲバラのようだった。誉め過ぎかなぁ。

 

 本当は、七九養護学校義務化阻止運動の中でも、関東風スタイルではなく、関西風うどんのような活動をすすめていた障害者市民運動と、分裂していた教職員組合運動の中でも特異な存在であった、大阪一五教組の反養護学校運動に、筆をすすめるつもりだったけれど、松井さんのことでページを埋めたい。そうした方が、七九年当時の風の色や、風向きが読者のみなさんに伝わると確信するからでもあるし、どうしてもそうしたいのだ。ワガママをお許し願いたい。先にも書いたけれども、当時の障害者市民運動のカタマリは、テンデバラバラで、やっと映画「さようならCP」上映活動を経過して、新大阪駅前の地産マンションの一室に、そのカタマリが出来かけていた頃ではあったけれども、その中心の若いひとびとは、殆どが書写養護学校出身者で占められていた。姫路市周辺からの遠距離通勤のようなものが続いていた。

 大阪での有力な養護学校といえば、堺養護学校の生徒自治会活動が、少しは知られていたけれど、まだ、外の世界との接触はないに等しく、その中から、すでに先年、故人となられたIさんが、事務所に訪ねて来て、いろいろと話し合ったけれど、書写養護学校パワーに恐れをなしたのか、「ボクは、弁護士になるんや」のセリフを放ち、二度とおいでにならず、後日の青い芝の会結成には、姿を見せなかったくらいであった。そんな時期に、颯爽と登場したのが、松井さんだった。

 スラッと長身で、片手で首を固定して、片手で調子を取り、新大阪駅構内を走っていた姿が、ボクの記憶に住んでいる。まぁ、その走りっぷりは、当時、事務所に詰めていた、グループ・リボンの中心的人物、Kさんという女性脳性マヒ者への、愛のパフォーマンスだったと、後年には、語っていたけれども。そして、松井さんは、名門・堺養護学校生徒会長経験者でもあって、そのことが、出会い以後の松井さんの役割を決定したといっても過言ではない。

 つまり、松井さんは、文章がかけるのだった。失礼を顧みずにいうと、青い芝の会の中でも、見識のある理念高い文章を書く、筆力のあるひとは、多数おられた。ただ、そのひとたちは、横塚会長を始めとして、養護学校どころか、学校教育と無縁に過ごし、例外なく独学で勉強・修得されたひとたちばかりであった事実がある。その後、養護学校教育を受けた若い脳性マヒ者仲間には、長文の文章を書けるひとが殆どいなかった。ボクの偏見かもしれないけれど、これはどうも、養護学校教育のせいなのではないのかという、想いが捨て切れず、ボクにはある。リハビリテーションに重点を置くばかりに、勉強が軽視されたのではあるまいかと。

 それと同時に、松井さんは、アテトーゼ弁が立った。様々な事柄を説明したり、立論したりするのが得意だった。ちょっとインテリ風で、カッコ良かったし、松井さんの活動参加によって、その後、堺養護学校出身者が、続々と活動に参加してくるようにもなったのだった。その上に、活動のことは、無論のこと、活動に「愛」を求める独自のスタイルが、松井さんを輝かせていた。ここらあたりが、チェ・ゲバラそっくりの所以でもある。

 

●活動多く、恋多く

 

 〇七年に、大阪府豊中市会議員を引退した、入部香代子とは、後年、青い芝の会の活動が分裂してからも、ずいぶん深いつながりをもっていたように想う。今では、考えられないことではあるが、それぞれの地域に、まだ根を張らすことが出来ないでいた当時、ひとつの地域で、ひとつの提案が成されれば、各地の仲間がワラワラと駆け寄り、いろいろな活動に集まったものだった。違う言葉でいえば、それだけ非力だったということではあるが。

 入部香代子たちによって、障害者と健全者が同一賃金で働く(そのスローガンは、今日でも実現してはいないけれども)エーゼット福祉工場を建設しようという旗が立ったとき、松井さんは、その活動に駆け寄り、署名集め、カンパ集めに奔走していた事実があり、自分の住む地域で、エーゼット作業所で作っていた、廃油リサイクル粉石鹸を販売していたこともあった。それも、とても誠実に。その反動なのか、松井さんの恋の遍歴には、目がテンになるほどの回数が、伝説の住人となった今、記憶の連鎖として、湧き上る。

 でも、それらの恋物語は、松井さんの浮気症を表現するものではない。正直なところ、障害者といわれるひとたちが、恋をする、あるいは、恋に落ちるという場面設定をすることは、この現下では、相当に困難な事柄であることは、世間の差別性が証明している。そのことは、松井さん自身が最もよく知るところではあったのだ。だからこそ、成功しても、しなくとも、松井さんは、恋に挑戦し続けたのではあるまいか。それも、誠実にして、根気よく。

 ひとつのエピソードが、そのことを語る。政府・厚生労働省が〇八年末に公表した、医療過誤訴訟の多くが産婦人科に集中しており、その結果として、産婦人科医師が減りつつあり、また妊産婦の病院タライ回しもあるからと、出産医療過誤による訴訟に、「重度の脳性マヒ児が産まれると、三〇〇〇万円を補償する」とした文言に、「これは、脳性マヒ者を始めとする、障害者市民に対する差別だ」と、青い芝の会運動草創期を担った、横田さんを始めとするひとたちが、年末に厚生労働省に集まり、抗議行動を展開している。殆どのメディアが、そのことを報じなかったけれども、最近は、殆ど外出をしていなかった、松井さんの確信に満ちた誠実な姿が、その抗議をするひとたちの中に、確かにあったのだった。

 

●最後までの微笑

 

 「七九養護学校義務化阻止」運動に果敢に挑戦して、時代の風になった、ひとびとの面構え列伝のどこかしこに、松井さんの呼吸が必ずあった。養護学校義務化阻止闘争を担う群像の中、松井さんそのものが、大阪における名門養護学校と称される堺養護学校卒業生、生徒自治会長経験者だったことは、因縁事としても、今日の「特別教育支援学校」の質を予想させるものだったろう。そして、それらのひとびとの顔には、微笑が絶えずにあった。「産婦人科医療過誤、脳性マヒ児補償文言」に対する、厚生労働省交渉の場にも松井さんの姿があり、その姿を写真に撮ったからと、松井さんの愛のパフォーマンスの直撃を受けた女傑Kさんが、「お別れの会」の場で、ボクに、その写真を見せてくれた。やっぱり、松井さんの顔には、微笑があった。そして、棺の中の松井さんを見やると、心なしかだが、笑っているように見えたのは、ボクの老眼のせいだろうか。

 一九七二年から開始された映画「さようならCP」上映運動から、七九年「養護学校義務化阻止闘争」に至る約一〇年間……。分秒刻みで、思いつく限りの障害者差別に対する糾弾闘争、個別課題への取り組み、青い芝の会の組織作り、共闘組織との共同運動が、文字通りボクたちを休ませることなく、門前、市を成していた。ボク自身も松井さんたちも、自宅に帰れなくて、事務所に連泊が通常の活動スタイルなのだった。まぁ、松井さんの言葉を借りれば、「家に帰ってもなぁ。親の顔ばっかり見てても面白くないもんなぁ」だった。養護学校を卒業しても、働くところも、行くところも無かったのが実情だったのだ。その上に、収入が障害者年金しかないのだから、当然の結果として、家に立て篭り、世間様の差別視線を避けながら、逆に世間様を凝視し続けるしかなかった。その松井さんたちの前に、自分たちが自由に使える、デッカイ解放理念とチッコイ事務所が現われたのだし、尊敬できる運動の諸先輩からのレクチャーテンコ盛りなのだから、家に帰るハズもない。帰っていられない。

 

●奇妙だけれど

 

 それで思い出したのだけれど、松井さんの「お別れ会」で、松井さんのご兄弟にお目にかかったのだが、ボクは、四〇年近い付き合いだったのに、松井さんの親、兄弟、親戚のひとびとに会ったことが、一度たりともない。離婚したお連れ合いさんや、ふたりの子どもさんには何度か会ったし、それなりの事件や関係のつながりはあったのにである。

 それで七〇年代のボクたちの関係性を思い出し、思い出し、まさぐってみると、奇妙なことに突き当たった。もちろん世の不条理と激突しながら、青く匂う若い年を疾走しつつ生きるのに忙しいこともあったろうし、親子兄弟の間柄には、濃密な愛情もあったけれど、それ以上に、社会の影響の元にあった近親憎悪的差別感情があったことは否めない。それは、今日でもそう変わっているとは思えないのだから、と物思いを引っ張ると、当時、毎日のように一緒に行動し、議論し、語り明かし、飲み明かしたのだけれど、ただの一度も「親、兄弟、親戚」などのことを話し合ったことがない。ボク自身は、母親、父違いの妹たちとは疎遠で、親戚も少ないものだから、松井さんたちに語るネタが無かった。だから話さなかっただけなのだけれど、ボクには、若い障害者仲間が、ファミリイのことを話し合ってる場面に出くわした記憶が皆目無いのだ。自分の今まで、今、これから。社会の過去、現在、未来のことは、アテトーゼ言語を駆使して、パッションを振りかけて、熱く語り合っていたけれど、その会話に、親、兄弟、親戚が登場することは、無かったように記憶する。それと、障害者運動、なかんずく、青い芝の会運動の諸先輩方からも、身内の話を聞くことはなかった。これは、ボクの記憶の中でも奇妙なこととして、脳の底に沈殿している。どうしてなんだろうかと……。

 

●松井小放浪史

 

 松井さんが、一九七三年に結成された大阪青い芝の会に参加したのは、確か七五年頃だったと思う。それからは、青い芝の会関西連合会結成の後に、活動の中心的役割りを担うようになっていった。同時頃に参加してきたのが、〇五年に亡くなったSさんだった。Sさんもまた、堺養護学校生徒自治会長経験者だったのである。その他にも、先年に亡くなったIさんを先輩として、Kさんなどの大阪南部堺組が続々と参加してきていた。

 同じく七三年には、日本脳性マヒ者協会・全国青い芝の会総連合が結成され、それに伴って当時、関西各県から大阪青い芝の会に集まっていた障害者仲間は、兵庫、奈良、京都、和歌山と、各県別の青い芝の会として組織し直されて分散した。そして、大阪青い芝の会は、南部、中部、北部に分割されたのだった。今でもハッキシ覚えているけれど、それまでの会計は、大阪青い芝の会で一本化していたけれど、それを分散させるために各県別に事務所を構え、銀行口座を開設したり(当然、口座名義は、ボクであり、しばらく後までボクの認印が流通していた)と走り回ったことや、資料類を五つに分けて、運び込んだりしたことを記憶している。もちろん、青い芝の会には正規の会計役員がいたのだが、全国青い芝の会結成の後、映画「さようならCP」上映事務局(その前は、上映実行委員会)として、常時事務所にいたボクが、会計屋さんとして、便利使いされていた結果ではあった。ただ、この分散化以後は、完全に事務仕事からは解放されたのだった。そして、同年には、障害者問題資料センターりぼん社として自立(?)することとなった。

 そのようなゴタゴタが、一定落ち着いた頃に、松井さんが登場したのだ。だから、松井さんの初陣は、「およげタイ焼きクン」の歌とともに闘われた、和歌山県立身体障害者福祉センター糾弾占拠闘争ということになる。その闘争を記録化した8ミリ映画、りぼん社制作「ふたつの地平線」には、松井さんが大写しになっている新聞記事の写真が収められてもいる。

 それ以後は、青い芝の会運動のどの場面にも松井さんの姿があり、最初に登場したときのスーツ姿は、ボロいラフ格好になったけれども、文字通り全国を股にかけて走り回っていた。当時、ボクたちの介護力は、スズメが聞いたら怒るかもしれないけれど、スズメの涙程もなく、慢性的介護不足にあった。だから、どうしても活動の中心を担う仲間は、歩ける、走れる、しゃべれるひとに偏りがちで、その点、松井さんや、今は広島県尾道市に在住するMさんたちが、ピッタンコの条件をそなえていた。今振り返ると、車イスを利用するひとたちに充分な介護力を供給できなかったこと、努力不足を恥じるばかりだ。としても、現在に至っても、介護不足をかこっているのは、社会の大恥さらしではあるまいかと感じる。

 松井さんは、そのような情況の中、青い芝の会仲間の理論的支柱として、全国会長の横塚さんたち、先輩諸氏を補佐して、とどまるところを知らなかった。そんな多忙が服を着ているような日常ではあっても、松井スタイルの愛のパフォーマンスは、続けていたらしい。いたらしいというのは、ボクは大阪北部の箕面市に転居したという事情があり、松井さんは、地域活動をすすめるために大阪市南部に居を構えたという事情が重なって、日常的な接触が激減したということのためにである。当時、介護に入っていた仲間から聞くと、アノひとにも、コノひとにも、松井さんのラブコールが届いていたよとのこと。感心するばかりだ。

 

●イザは、電話から

 

 八〇年頃かなぁ。当時は、まだ携帯電話などというしゃれたもののない時代。ある朝、自宅の電話がチリチリとしゃべり始めた。松井さんからだった。特有の言い回しで、「あのな、河野ハン。ちょっと手助けしてほしいねン。好きな子が出来てんけど、その子が、兄さんの言いつけで、広島の尾道に帰ってしまうねン。その子も、ボクのこと好きやいうてくれてんねン。なんとかしたいから、尾道まで付きおうてくれませんか。その子は、活動仲間やねン」と、ちょっと鼻にかかった声で話し、ケケケとクシャ笑いでテレくさそうにした。松井さんと話していて、用心しなければいけないのは、いつでも、ケケケと鼻声とクシャ笑いなのだった。それに出会っては、ヒドイ目に会った経験が山ほどあったのだから。なんせ、四〇年近い付き合いなんだからね。仕方がないから、松井さん宅に参上つかまつる。   つづく