新・私的「障害者解放運動」放浪史 12

『そよ風のように街に出よう84号』(2013年3月発行)より

●ちょっと来いには、油断すな

 

 前にも書いたけれど、ボクは、当時の歴史空気の中で、ゼンゼン気にはしていなかったけれども、今考えると実にヤバイことをしていたような気がする。大阪豊中のIさんの件。京都のYさんの件。福岡のNさんの連れ合いさんの件。大阪生野のKさんの件。兵庫加古川のTさんの件。そして、松井さんの件などである。朝鮮人民民主主義共和国(世界史的にも、カンバンと実態がこれほど乖離する国も珍しい)のけしからぬ誘拐問題には程遠いけれども、誘拐もどき自立生活運動の席に身を置いていたのは、事実としてある。

 誘拐は、親告罪だから、訴えられなければ罪にはならないけれど、本人たちにとっては、止むに止まれずの心境での、家出。あるいは親元脱出大冒険ではあっても、親の目から見れば、「なぜ、こんなにも大事に育ててきたのに?」との疑念が残るのは、致し方がない。そして、その疑念は、我が息子、娘に向かうのではなく、その息子、娘の横で脳天気にニコポンと、酒精と戯れているボク、並びに少数精鋭もどき健全者に向けられるのが常だった。「我が息子や娘は、こやつらに騙されているに違いない」と。それにしても、訴えられなかったのは、ひとえに、「騙されている」とは、考えても、「障害者を騙して、何になるのか」のもうひとつの疑念もあるし、我が家の恥(障害者がいること)を晒したくないとの、今もあるけれど、当時の障害者観(差別意識)が強く働いていたのは確かだったと感じる。それら、いろいろな思惑が交差して、かろうじて訴えられなかっただけで、実態は、誘拐もどきそのものだった。

 ひとつひとつの誘拐もどきには、それなりの主義、主張があり、それは、自立したいという本人たちの、熱情に強固に支えられていたから、それらに添う形で行動していたボクたちには、コトを成す度の達成感と高揚感しかなく、罪の意識なぞあろうハズがない。実にノンビリした時代と理念があるばかりの、貧しいけれど、確かに自分たちが時代創出の只中にいる生活ではあった。そのような時代背景の中での、電話チリチリ、「ちょっとこい」松井信号なのであるから、油断大敵火がぼうぼうとは、知った上での松井宅参上となった。

 

●広島は、やっぱカキじゃろう

 

 おっとり刀で、松井さん宅に参上すると、松井さんがポツンとひとりでおり、学生仲間に誘われて介護活動に参加していた、松井さん曰くの「ボクの恋人」と称する女性は、既に広島県在住の兄さんに連れられ(連行もどき)、大学に退学届けを提出して、広島県の尾道に帰ってしまったとのこと。兄さんを含む、件の女性の家族にすれば、ロクに勉強もせずに、脳性マヒ者と同棲するなんて、とんでもハップンではあったろうし、連れ帰るのは、至極当然の行為であったに違いない。ところが、その家族の論理には、決定的な穴があったのだ。それは、女性と松井さんの交わした意見が、全く断わり無しに無視されていたことである。

 松井さんは、「彼女はボクのことが好きだから、広島には帰りたくないと言っていたし、ボクも彼女のことを愛しているから、なんとか事態を打開したい。ついては、今から尾道に行き、彼女の真意を確かめ、出来れば大阪に連れ帰りたい。そこで河野ハーン」ときた。「一緒に尾道まで行って欲しい。キップは手配したし、宿泊するところも確保してあるから」と、情けなさそうに語った(「ぬかした」がホントのところ)。そのヘンのことには、松井さんは妙に手際よいのである。当時、松井さんはまだ歩いていたから、ノッポの松井さん、チビのボクのデコボコ・コンビで、JRなどとハイカラな名前の前、国鉄に大阪駅から乗り込んだ。未だ新幹線なるものも一般化していない時代である。特急列車で一路尾道へ……。

 列車に乗り込んでから、松井さんにいろいろと事情聴取すると、びっくりする事情なるものに、アタマをゴツン。彼女の住所が曖昧。行ったこともない。知ってるのは電話番号のみ。その上、「河野ハン。これキップ。代金は○○○○円」とまたまた言う(ぬかす)。同行を頼まれて、自腹で旅費を払うとはなぁ。トホホホものである。泊まるところは、尾道駅近くの、青い芝の会仲間の自立生活の場だとのこと。前途暗たんたる気配が濃厚。ところは、広島だけに旨いカキのひとつも食べられるかなぁの甘い幻想は、いとも簡単に粉砕されてしまった。

 

●雪の夜は、シンシンと

 

 今の在来線尾道駅は、町並もきれいに整備されて、駅舎も小綺麗になっているけれど、一九八〇年代の頃である。ボクたちが尾道駅に到着した夜。人通りは殆ど無く、商店街の入り口のところに、二、三軒の飲食店がボンヤリ灯りをともしているくらいのものだった。「松井、腹へったなぁ」と、それとなく声をかけると、さすがの松井さんも、腹がへっていたらしく、一軒の飲食店を指差した。その店で食べた酢ガキの旨かったこと、いまでも鮮明に思い出される。まぁ、そんなことは、どうでもいいワケで、腹ごしらえをしてから、宿泊先のIさん宅に向かった。このIさんは、女性脳性マヒ者で、広島県では、自立生活の先駆者でもあった。一九八一年に、国鉄尾道駅近くの踏み切りで、電動車イスの前輪をレールに落とし込み、列車にはねられて、惜しくも亡くなられている。そのIさんは、このデコボコ・コンビを快く招き入れ、一室とフトンを提供してくれた。当時の自立生活者の暮らしは、今もそう変わらないけれど、極度にビンボーだった。介護者を探す電話代にも事欠く有様。そのIさんの電話を借りての愛の口説きなのだから、松井さんも、相当な根性ではある。しかしながら、その到着した夜に、何度電話をかけても、彼女には届かなかった。

 仕方なく、ふたりともフトンに潜り込むしかなく、ふっと屋外を見ると、雪が深夜の空からシンシンと降り積もっていた。

 

●ホント、そんなこんなの素敵な松井さんだった

 

 次の朝、またまた電話すると、幸運にも彼女につながったのだ。早速、我々が尾道に来ており、あなたとの話し合いを熱望していることを伝え、Iさんの家で会い、話し合うことになった。

 その日の午後、彼女がおずおずとやって来て、松井さんと長い時間を使って話し込んだ。ボクは、お邪魔虫だからと、同席はしなかったが、話し合いの結果は、お互いの気持ちにブレはなく、近い内に彼女が大阪に帰ってくることになったとのこと。よ〜し、やったゼである。ところが、松井さんは用心深い。なんとか彼女と一緒に大阪に帰りたい、とダダをこねる。そこはそれ、しょせんは他人ごと。ボクは、彼女と約束したんだから、信頼して、今日は帰ろうと主張するのだが、松井さんは、かぶりを横にふるばかり。仕方がないから、もう一泊をIさんにお願いして、翌日に帰阪することになった。Iさんにとっては、電話は使われるは、泊まられるは、いい迷惑ではあったろう。松井さんは、結構、勝手頑固なのではある。

 

●後日談……

 

 電話チリチリで始まった誘拐共同作戦は、こうして収束したのだが、これですんなりウマク行く程、世の中甘くはないし、障害者差別の壁は薄くない。その後、松井さんの彼女は、律儀に松井さんとの約束を守り、大阪に戻って来、松井さんとの生活を再開したのだが、彼女の妊娠を巡っての大波もあった。

 彼女の妊娠が判明したことによって、再び、彼女の実家・兄派の動向が活発になったのだ。「中絶をして実家に帰れ」との要求が出され、実際に兄派は松井さん宅に押し寄せ、ふたりの意志とは無関係に、彼女逆誘拐作戦が数波に渡って行なわれた。兄派が押し寄せる度に、ボクの家の電話がチリチリと語り始め、その都度、ボクは、松井さん宅に飛んで行くハメになった。スッタカモンダカのやり取りもかなりあったけれど、(そのヘンの事柄については、以前に書いたので、今回は割愛させていただく)松井さんは、雨アラレと降り注ぐ非難と中傷を、ひとり引き受けて、初志を貫徹したのだった。そして、松井さんと彼女は、結婚した。

 そんなこんなの、奥行深く、間口広い、考えと行動を自分のこととしてとらえ、手放さずに、松井さんは、生き続けた歴史の持ち主だった。日本障害者解放運動初期の姿、形そのものでもあった。そして、様々な事柄の中で、思い思いの思念とともに、多くの仲間や先駆者がくぐったであろう、伝説の門をくぐり、逝ってしまった。今のボクには、語るべき言葉もない。ただ、ただ、神なき身で、合掌するばかりなのだ。

 

●伝説の門

 

 サテ、新しい展開はと、脳の底を模索し始めたとき、偶然にも大阪府吹田市にある障害者団体が発行しているミニコミ紙編集部から、企画に参加してほしいとの依頼が届いた。

 その企画というのは、一九七〇年代から開始された障害者市民解放運動のド真ん中にいた三人が、その時代を語り、これからの未来に目線を放つ鼎談をしてほしいとのシロモノ。司会者は、元大阪府豊中市議会議員入部香代子さん。件の三人とは、「そよ風のように街に出よう」編集部の長老・牧口一二さんと、全国障害者解放運動連絡会議顧問の楠敏雄さん。そして、ボクであった。知るひとが知らば、この布陣でこのメンバーとなれば、「チョーアバウトな、障害者市民運動ネットワークの敬老会かいな?」と喝破されるハズではある。その上、入部さんが司会となると、何をかをいわんやである。その鼎談が行なわれたのが、〇九年九月一日のこと。何分にも、ボクを除けば日本障害者市民解放運動の優れた実践者であり、生き証人の方々である。鼎談の隅々からにじみ出ていた、ひとびと的栄養分を記憶に刻みつけない手はないぞと、ひとり小躍りした。

 ということで、今回からは、敬老会もどきの鼎談、放談をボクの目線で書き付けることにした。(ずいぶん勝手な言い分)でも、その栄養分の中に含まれる、経験や時代認識から、日本障害者市民運動のこれからに、滋養がタップリ供給されるのは、言を待たない。それと、こんな機会は、そうそう訪れないだろうから、絶好のチャンスではありますまいか。ところで、未だ伝説の門をくぐっていないメンバー鼎談の小見出しに、伝説の門と冠したのはいかなる心積もりなのかの問いに対するお答え。

 牧口さんと楠さんは、それこそ七〇年代からの付き合いであり、ともに同じ時代の空気を呼吸してきた、兄貴分、弟分である。最近は、年の初めに、同じように時代を共有した、元NHKディレクターの杉本章さん家に集まり、牧口さん、楠さんを始めとする総勢五、六名で飲み会を開くことを恒例としている。その集まりの名前が「仮称・敬老会」もどきなのである。毎年、飲み会がお開きになる直前、誰言うともなく「来年は、この中の誰かが、伝説の門をくぐっているかもしらんなぁ」と、笑い合うのも恒例化しているから笑っちゃう。

 

●またまた間に合っていない……

 

 〇九年九月四日に、大阪府寝屋川市の赤羽君(小学校就学前)が、和歌山県内にある施設で亡くなった。また、九月九日には、愛知県豊明市の天野志保さん(二四才)が三度の心停止の後、あるのか、ないのか分からないけれど、あればいいなぁの天国に旅立たれた。か細いつながりしかなかったけれど、おふたりとも、施設と実家の違いはあっても、地域生活での自立に向けて、バクバク(人工呼吸器)を使いながら、精一杯生き抜いたことは、ひとびとの記憶に刻印されている。こうして、さまざまに伝説の門のくぐり方をした友人、知人がボクたちに残した声と言葉は、共通してある。それは、「にんげん解放への道は、まだ見えないぞ。その歴史の動きはあまりに遅い。またまた、間に合わなかったなぁ」なのだ。

 ボクたちは、横塚大先輩(日本脳性マヒ者協会・青い芝の会総連合会会長)の残された言葉通り、「早く、そしてゆっくりと」を確実に実践すべく、ボクたちが創り、記憶した、来し方と今、行く方向を結ぶ営みを継続するしかないのだ。

 

●鼎談のハジマリ

 

 入部さんの「ほんなら始めましょか。では、それぞれの運動への関わりから……」との、なんともかんとも号令で鼎談は、開始されたぁ。

牧口 七〇年代の始めの頃、デザイン学校を卒業したんはいいんやけど、どこのデザイン会社に就職のために行っても、断わられるばっかりやった。それは、ボクが障害者やってことが原因やとは、薄々気づいてたんやけど、ボクは、それを認めたくはなかったんやなぁ。仰山、面接に行ったんやでェ。みんなアカンかった。その内に、元の「おばけ箱」のメンバーや、亡くなった吉田タローなんかが声をかけてくれて、「おばけ箱」の前身の、Aデザイン事務所で働くようになってね。それからやね、ボチボチと仕事も順調になり出したんよ。その頃やね。障害を持ったこどもが、そのこどもの将来(親の将来?)を悲観した親によって殺される事件が、続いてねぇ。それがなんとも無念に感じられてね。なんとかならんのかと。これは、障害者が役立たずというマイナスイメージで見られているからやないかと。そのマイナスイメージを変えれば、障害児殺しも少なくなるんやないかと、ホント単純に考えてたんよ。(笑い)その頃には、青い芝の会は、障害児殺し減刑嘆願の動きに対して、減刑を認めれば、障害者はいつ殺されるかも知れないと、異議申し立ての運動をしていたんだよねぇ。

 ボクは、北海道の全寮制の盲学校を、一九六四年に卒業してね。京都の仏教系の大学に入学した。最初の二年間くらいは、「健常者に負けないようにガンバルんだ」と、点字の辞書を頼りに、徹夜、徹夜のガリ勉(笑い)。でも、実際の大学生活の中で、自分ひとりの努力だけでは、どうにもならない、突破できない壁があることを、だんだん思い知らされるんですね。毎日、実際の差別に出合って、こんなに勉強したって、何の役に立つんだと。孤独というか、空しさというかを感じていた。そんな時に、七〇年安保闘争の動きの中で大きくなっていた学生運動が、大学批判を始めるんよ。ボクは、その学生運動に共鳴して、デモに参加するんですが、デモの学生がボクを見て、驚いてね。「危ないですから、道路の脇にどいといてください」って言うのよ。だから、大学解体を叫ぶ学生連中でも、障害者を差別するんかと、とても失望したねぇ。その後も、全共闘の一員として、学園民主化運動、部落解放運動などの、いろいろな社会運動に参加し続けるんだけど、そのような社会運動ですら、障害者を排除するんだよね。そんな中で、ボク自身の軸足が、障害者解放運動に移っていったんだね。

ボク 牧さんや楠さんが仕事や生き方に悩んでいた頃、青年同盟や反戦青年委員会運動で、ホンキで革命するつもりで、火炎ビン投げとりました(笑い)。まぁ、それらも敗北するんですが、狭山差別裁判闘争の中で知り合った、SP(ポリオ)障害のひとと、先程、牧さんが言っていた、青い芝の会の障害児殺し減刑嘆願運動に反対する活動なんかを記録した、ドキュメンタリィ映画「さようならCP」の上映運動を始めたんですよ。だから、流れから言うと、ボクの中には、まず「社会を変える」という視点と人権というのがあって、福祉なんて、ツメのアカほどもなかったですねぇ(笑い)。ところが、そのボクの自慢の階級理論がですねぇ、「愛と正義を否定する」などの青い芝の会行動綱領によってコテンパンに粉砕されるんですね。それは、「能力主義」なんだって。そこからですねぇ。差別の谷間でしか生きられない、青い芝の仲間の生き方に触発されながら、生きるとは何か、平等とは何か、労働とは何かを考え直さざるをえなくなって、今も考え続行中です。上映運動は順調に進むんですが、進めば進むほど、障害者仲間が増えて、ヘルパー制度なんかな〜んにもない時代だったから、施設から出たい、親元を離れて自立生活がしたいという、障害者仲間のサポートと活動で、七〇年代は、アッちゅう間(笑い)。そんな中、七四年優生保護法改悪阻止闘争、七九年養護学校義務化阻止闘争などで、お目めグルグルでした(笑い)。

牧口 そうそう、思い出したけど、ボクも学生運動の影響を受けたねぇ。高校の生徒自治会の議長をやってたんやけど、当時は、流行りのようなもので、ボクの学校でも、バリケードストライキをやった。ボクも「安保反対」を叫んで、バリケードの中に入ったんよ。そんな雰囲気の中で、大多数の生徒は、安保反対なんやけど、五人くらいのグループで、安保賛成論を掲げて、論戦を挑んで来るのがいた。論敵ながら、あっぱれやなぁと、今でも覚えているな。安保反対論の多数派のことは、あんまり覚えていないのに、その小さなグループのことは、覚えているんやから、不思議なもんやなぁ。(笑い)なんでも自分の主張は、ハッキリせんとアカン言うこっちゃなぁ。

 まさに、鼎談。鼎の軽重を問うである。     つづく