新・私的「障害者解放運動」放浪史 13

『そよ風のように街に出よう85号』(2013年9月発行)より

●鼎談は、つづく

 

 「一九七〇年代から、障害者市民解放運動のメッセージ」。牧口一二さん、楠敏雄さん、ボクの鼎談ウラ話は、今少し継続することにした。オモテ向きの鼎談は、すでに、吹田市・ぷくぷくの会機関紙「まねき猫通信」に掲載されたので、なるべく重複を避けて、ウラ話のオモロイ、オイシイところを中心に、書き綴ってみたい。

 一九七〇年代発の障害者市民解放運動のド真ん中にいた三人が、それぞれの感性と経験を通して、その時代のありようから、今という時代に物申すシロモノ。オモシロく無かろうハズがない。ということで、つづくの始まり。

 

●司会者・入部は語る

 

入部 わたしなんかが、いろいろな反差別の闘いに参加しながら言い続けてきたんは、「当たり前の生活」やった。言葉を変えて言うと、「親元を離れて、オカネと自前の心、つまり、自立した地域での生活」というこっちゃ。それはやね。保護と言う名前の差別を受け続けてきた障害者にとってはな、自分で保護と真っ向から向き合って、いやでも応でも闘わな出来ないことやったんや。

 今は、足りないとはいうものの、勝ち取ってきたサービス制度があるし、無理矢理、家を出んでも、自分なりの生活は出来る。けど、わたしらの時代には、それはそれは、光り輝くような自立生活やった。憧れの重い、重い、自由な生活。バス乗ろうとすると、乗車拒否。喫茶店に入ろうとすると、出ていけと言われてたもんな。家なんか、簡単には借りられへんかったよ。そういうのと、ひとつひとつ向き合って、クリアーして、自立生活を作り上げてきたんよ。

 まぁ、わたしらが訴えてきたことを受けて、街も時代も、少しずつ変わってきたよ。スロープやエレベーターが付くようになったし、格差は大きいけども、ヘルパー派遣時間も増えた。でも、根本的なところ、ひとの目線とか、考え方の中には、依然として優生文化があるし、差別がある。まだまだ勝負は、ついてへん。これからやで、勝負は。

 

●敬老会三人衆のおお語り

 

牧口 ボクは、ホントのところ障害者解放運動とは、全然カンケーなかった。ボクなりに「障害者のことは、なんとかせんとなぁ」との自問はあったけどね。

 若い障害者のひとたちが、日本脳性マヒ者協会青い芝の会なんかに集まって、ガンガンやってるのは知ってたんやけどね。その内に、青い芝の会行動綱領を読んだりして、惚れたなぁ(笑い)。青い芝の会に恋をしたみたいやった(笑い)。

 でも、前回にも言ったように、デザインの仕事がやっと軌道に乗った頃で、青い芝の会のひとに会って、話したいと思ってたけど、仕事がデサイナーなんてことが分かると、「資本主義の奴隷かぁ」なんて言われそうで、その事務所に行く勇気もなかった。

ボク 牧口さん、それは深読みし過ぎですよ。当時、なんとか運動を盛り上げようと、青い芝の会事務所で、勉強会をやってたんですけど。彼女、彼等は、資本主義どころか、総評と同盟、社会党と民社党の違いなんか、全然おかまいなし(笑い)。自分たちのことで精一杯やったんですよ。だから、あれほど情熱を傾けられたんかも知れないですけどね。

牧口 ボクは、運動というのは、からだと人生を賭けるほど、重いもんやと信じ込んでいたから、青い芝のひとから、「仕事を辞めてから来い」なんて言われたらどないしょうかと、すごく心配してた(笑い)。それくらいに、青い芝運動は、ボクの羨望の的やったねぇ。

ボク そうそう、当時のある時期。青い芝の幹事会の会議には、車イス障害者でも、介護者なしで、ひとりで会議場所に来いと言う方針がありましてね。今考えると、無茶な方針ですが、ひとの力を借りて、それをやり切ること、行くことで、ひとりひとりが、自分の自信を創り上げてましたねぇ。

 健全者になめられるな!という気概作りだったんですよ。ボクなんか、ヒヤヒヤしてましたけどね(笑い)。

牧口 まぁ、そこまで、自立心に気を配ってたんやろなぁ。

 ひとりで出かけることで、周りの健全者に、障害者のことを認めさせて、巻き込むという狙いだったんだろうね。そうした先進的な取り組みが、積み重ねられて、ヘルパー制度や自立生活支援が少しずつ、創りあげられたのは、事実だからなぁ。ただな、そうした制度は、バリアフリーの考え方を基礎にしたものじゃあなくて、障害者があちこちで騒ぐから、対策としてすすんでいったんじゃないのかな。

 それが激的に変化するのは、一九八一年の国際障害者年以後だろうね。ノーマライゼーションという概念も導入されて、行政の政策が動き出したのが、八〇年代。

ボク 七〇年代は、無茶苦茶なやり方であっても、自分たちは、やれば出来るんだという、実績、自信が花開いた時代を創り上げた。社会の変化もそのように動いたんですよ。その上に、八〇年代の動きが重なってくると。

牧口 障害者の組織、団体も、違いはあっても、それぞれのやり方でやり、文句を言って、行動してたと。それに連動するように、相手方もそれぞれのやり方、意見で応えてくるんや。そんな面白い時代やったなぁ。その時代に、みんなで、「ノーマライゼーション研究会」を立ち上げたのも、風が吹いていたからやなぁ(笑い)。

 そうそう、研究会をやったよな。この頃は、雑誌『そよ風のように街に出よう』も、一番売れてたんやろ(笑い)。日本国内でも、あちこちで障害者運動がネットを組んだりして広がってきたね。世界人権宣言に遅れること三〇年。八〇年代にやっと、国連で「障害者の権利宣言」が採択された。八〇年代になって、ノーマライゼーションという体系的な考え方が定着しだして、様々な制度が姿を現わし始めるんだね。

ボク だけどなぁ。障害者運動の歴史と教訓の中身は、あまり語られることは無かったように感じるな。制度の前進と運動の前進との間に、大きなズレが生まれたのも、その後の不幸のひとつかも知れない。

 そして、九〇年代に入って、行政に幻想を持つようになりました。北欧のような、リベラルな考え方をする、厚生官僚も現れたり、障害者基本法も成立したりして、行政もようやく本腰を入れるんじゃないかという、感違いがあったのかも知れない。障害者基本法のときは、何度、東京に行ったことか。あれはなんだったんだろうかと(笑い)。

牧口 そうだよなぁ。毎年、毎年、一所懸命に声を上げ続け、行動し続けてるんやから、遅いスピードでも、時代は、確実に良くなっていくんだと、思い込んでたところがあったなぁ。

 そしてな、一〇年位前から、政府に金が無くなると、トタンに、制度そのものがバタバタとコケ始めた。ボク個人としては、最大の犯人は、小泉某首相だとニラんでいるんだけどな(笑い)。

ボク 障害者市民は、元々、圧倒的少数派だから、ヒネリ潰すのは簡単なんだよな。そのことに、障害者運動側が気付くのが遅かった。

牧口 行政の後退・変化よりね、怖いのは、社会全体が醸し出す、空気。生活敗北の考え方。つまり、格差を認め出す態度ちゅうか。

 あんな役に立たない障害者のために、なんで、そこまでやらなアカンねん。普通のひとでも、生活に苦労してるひとは、一杯いるやないかと。そのような、優生文化と人々的差別圧力が、無言の圧力が、じんわりと広がってきているように、強く感じるなぁ。

ボク 障害者自立(自滅)支援法でも、障害者福祉サービスを利用するひとには、原則応益一割負担なんだけど、重度のひと程、負担が重くなると言っても、テレビのアンケートなんかでも、「ふぅ〜ん、今までタダだったの。それじゃあ、一割くらいは、当然、払ってもいいんじゃないの。わたしらだって、健康保険で三割負担してるんだからさぁ」てなもんですよ。その視点では見えていない、障害者市民には、働くところもないし、収入もない。その代わりに、保護者(?)の収入が算定されるという、決定的な人格無視、格差の強要の社会的歪みは、確実に増えてる。「社会の中に、弱いひとびとがいる社会は、弱い社会だ」という、国際障害者年のテーマが、悲鳴を上げとりますよ(笑い)。

 

●鼎談は、つづくのつづく

 

 二〇一〇年一月一〇日。毎年、恒例の「障害者運動ネット・敬老会」なるシロモノが、開かれた。例年は、杉本章さん宅での宴会だったけれど、少しずつ参加者が増えてくるので、今年は、大阪北の梅田の呑み屋に場所変更。参加者は、牧口一二さん、楠敏雄さん、杉本章さん、二文字理明さん(教育大学)、本田実子さん(関西定期刊行物協会)、小林敏昭さん(そよ風のように街に出よう副編集長)、馬垣安芳さん(吹田ぷくぷくの会)、そして、ボク(河野)の八名。

 当然のこととして、呑み、食い、勝手放談。それぞれの歴史を言いたい放題。ふと振り返ると、ボクたちの歴史も、相当な物量に達するなぁと、感嘆しきりの、二〇一〇年新年の幕開けではありました。

 そして、入部香代子のつぶやきから……。

入部 私が障害者運動に入ってから、もう三七年になるなぁ。お母ちゃんも亡くなってもうてるし、私自身も死にかけた経験あるしな。年取るハズや(笑い)。でも変わってないのは、私らを差別することが、いろんな形を変えて、あることやろな。「五体満足が当たり前。障害者が生まれるのは、血が悪いからや」と、当然のように語られていた時代に、そのことと闘いながら、親元を離れてひとり暮らしを始めたんやから、不安のカタマリやったよ(笑い)。

 介護制度が無かった時代から今を見ると、まだまだ不充分やけどやな、ヘルパー派遣事業もそれなりに増えて、その制度を利用して、生活してる障害者も多いよ。でもなぁ、ひとりひとりの自立を考えるとやな、失敗や困難を乗り越えていかないと、考える力や判断力が身につかへんねん。障害者をサポートするひとたちも、まだまだ経験不足やから、ただ、ハイハイ言うだけじゃのうて、意見を言い合う関係が大事やと思うな。そしたら、お互いに育っていくと思う。

 このごろは、地域での在宅生活を選ぶ障害者も増えているけど、社会経験が少ないから、生活の実際が分からずに、他人の顔色ばかりうかがうひともいるしな。それは、障害者運動の不充分性かもしらんけど、障害のあるなしに関わらず、若いひとたちは、自立の本当の意味をつかみにくい時代になってるんかも知れんね。

 まだまだやらなあかんことは多いな。私は、いのちあるかぎり、生き生きした障害者運動の道を歩いたんねん(笑い)。

 

敬老会三人衆の
   反省だけなら、サルでもデケル

 

 ボクが河野さんたちと、運動で出くわすのが、七九年の養護学校義務化反対運動だったな。ボクは、盲学校でズッと隔離された生活をしてたから、理屈抜きで盲学校、養護学校への拒否感があった。でも、当時は、養護学校推進派の勢力が大きくてなぁ。そんなときに、河野さんたちが支援していた青い芝の会が、正面切って、養護学校義務化阻止を打ち出してね。これは一致できると。それに、青い芝の会は、元気よかったしなぁ(笑い)。

ボク あの頃は、元気ありました(笑い)。それとね、あの当時、優生保護法改悪反対闘争に敗北していてね。次は、なんだという気分が濃厚にあったんですよ。横塚晃一さんと、夜を徹して議論してましたからねぇ。それに、ポン友の八木下浩一もいたから(笑い)。

 牧口さんたちは、「駅にエレベーターをつけろ」って運動をやっててね。青い芝の会は、それに対して「エレベーターなんか使うな。通行人に手伝わせろ」と言ってたな(笑い)。ボクは、両方必要だ、の立場(笑い)。エレベーターを使ってもいいし、他人の協力を求めるときもあっていい。そのときの障害者の都合で選べばいいんだよと。

牧口 エレベーター設置運動をやってて困ったのが、青い芝の会の主張やったね。「オレたちは、車イスをかついでもらって、階段を上がるんや。エレベーターがつけば、移動のコースが決められてしまう」と。そりゃあそうだと思ったので、ホントに困ったよ(笑い)。それで、ひとにものを頼むのがイヤなひともいるし、安全がいいというひともいるんだからと、必死の説明(笑い)。それでなんとか分かってもらえたと。

ボク 時代やねぇ。あの頃は、「あれかこれか」ではなくて、「あれもこれも」と、それぞれの置かれた状況や生活に合わせて、それぞれに運動に参加していたね。

 最近、今の若い障害者はウンヌンというセリフを聞くことが多くなりましたね。そう思いませんか。人類は、いつの時代にも、年寄りは同じセリフを使い続けてきたから、その批判は、間違い(笑い)。ただね、障害者が人間として、どう解放されるのかを考えると、それは、決して楽しては出来ない。苦労の中にこそ楽しいことや、辛いことが沢山あって、それを自分のこととして引き受けていくことが、基本ちゃうんかなぁと。

牧口 ホント、自分が解放されるってどういうことやろと。説教のように、ああしろ、こうしろ、というのとは違うし、強いリーダーや教訓を求めるんじゃなくて、「自分の好きなようにやる」という、大胆さが必要なんやろな。

 人間は、多かれ少なかれ、自分さえよければいいという気質を持ってるよ。好きなようにやるといっても、パンを食べれないひとの目の前で、ウマイなぁとひとりでパンを食べるヤツは、許せないな。

 私欲を認めても、全面的には肯定しない。パンを半分にして、困っているいるひとにあげるような社会じゃないとなぁ。

牧口 それくらいの常識は、みんな持っているんじゃないのかなぁ。

 それは甘いなぁ。ボクが電車で白い杖で席を探していても、声をかけてくれるひとは、ホント少ないよ。

牧口 確かに、無関心が広がってるなぁ。自分が生きることに精一杯で、ゆとりがなくて、他者への目線がなくなってるからなぁ。

 べつに席を譲ってほしいワケじゃない。あっちの席が空いてますよと、ひと声かけて欲しいだけなのに、それが出来ない社会になりつつあるな。

 

イタチの最後っぺ
    ……それぞれに、これだぁ

 

ボク 青い芝の会は、哲学的な発想と直接行動で、ボクなんか、いろいろ教えられました。考え方としては、社会環境をどう作るのかと。ひとりひとりは、どう生きるのかの問いかけのふたつがないと、先が見えない。今の時代的には、ほとんどのひとが、自分はどう生きるのかの問いの前に立ち尽くしているんじゃないのかなぁ。

 かって、横塚晃一さんが言っておられた言葉を思い出すなぁ。迷ったときは、一歩踏み出すこと。答えが見つからないときは、重度、重複といわれる障害者のところに行け、です。そのひとたちの中に答えがあると。今の時代をいくら分析しても、答えは無いんじゃないかな。やっぱ、答えは、自分の中にあると思うけどなぁ。

 障害者運動は、ひとを変えることが出来るのか。それが根本的な問いだよ。ヘルパー制度の無かった時代。健全者は、障害者と付き合う中で、自らを問い、変わりながら、介護の社会性を身に付けてた。ところが、今の介護は、介護労働の提供という契約関係になってる。制度は必要だったけど、ボクたちの失ったものも大きいといわざるをえないな。これからの障害者運動は、なにを問い直し、なにを変化させなければならないのか。それが見えにくくなってるな。

牧口 自分は、何者で、どこから来て、どこに行くのかと問い続けることは、とても重要だよ。しかし同時に、人間は、弱い存在でもあるからね。言葉としては、自分のやりたいことを、思いっきりやるということやろうな。自分で考えて動いていけば、挫折は当然あるやろうから、それをどうとらえ、どう起き上がっていくのか。それが自分自身の勝負なんやろうな。

ボク 自分たちだって、結構間違ってきたし、これからだって怪しいもんや(笑い)。でも、諦めないで、それぞれが、問いを投げかけあい、キャッチボールを続けるしかないし、それしか出来ないんじゃないのかなぁ。情けない結末やけどなぁ(笑い)。

 市場原理主義の時代だけど、時代に流されて行くと、生活出来なくなって、しんどくなるよと忠告しながら、もうひとつの時代や世界を提起しないとな。      つづく