新・私的「障害者解放運動」放浪史 14

『そよ風のように街に出よう86号』(2014年4月発行)より

●新しい記憶への旅立ち

 

 コトは、いつも突然に始まるのであって、このシリーズも、アッチにゴツン、コッチにゴツンしながらも、新しいページは、突然に始まってしまう。今回の流れも、突然に、それもボクの脳の内部からではなく、外の世界から押し寄せてきた。まるでチリ大地震津波のように……。

 友人といっては失礼になるかな。ボクもちょこっとお仕事をしていた、京都花園大学の八木晃介教授(二〇一〇年三月末付で定年退職され、特任教授で大学に残られる。余計なコトだが、本誌副編集長の小林敏昭さんが一コマ、「情報文化論」を担当することになった。小林さんは、ボクなんかとは比較にならないくらいに、大学の先生に向いていると、ボクは、確信する)の個人情報誌「試行社通信」二八一号を、なんとなくウロンと読破していたのだが、その中に、「最後の文士・川崎彰彦さん追悼」という記事があり、その文中に、リポート作家の高杉普吾さんの名前を発見したのだ。                                 

 不覚にも、川崎さんの作品に接する程、読書量を持たないボクなのではあるけれど、高杉さんとは、妙な因縁で面識があった。高杉さんは、ボクが日本社会党大阪府本部のオルグをしていた時代に、社会党中央本部に勤務されており、その後、作家に転じられたひとである。この川崎さん、高杉さんは、作家の五木寛之さんと、早稲田大学露文科の同級生で、親しい間柄と聞く。

 その高杉さんが、青い芝の会運動をリポート取材されたことがあって、その一連の行動の中で、一九七七年に、障害者問題資料センターりぼん社で制作した八ミリ映画「何色の世界?」ある在日朝鮮人障害者の証言(恥ずかしながら、シナリオ、監督がボク)で、Kさんという、多くの仲間に先立って、自立生活を始めた在日朝鮮人障害者のひとを取材する場面で、かなりの時間、登場してもらった。その場面のことは、おいおい書くことにして、押し寄せた津波事情の展開へと。

 

●ありゃまぁ……

 

 懐かしいなぁと、高杉さんの顔を思い出し、ひとりほこほこしていたらば、その次の日、豊能障害者労働センター経営の定食店・キャベツ畑で昼飯をがっついていると、キャベツ畑の二階にある点字印刷室のひとが、「河野さ〜ん、こんなのが出てきたんよ」と届けてくれたものがあった。それを受取り、一瞥して、ありゃまぁ……だった。

 それはもう、今では幻の冊子となっている、「りぼん社通信」(現在の障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の前身のようなもので、黄ばんだ表紙と手書きの文字の行列で溢れていた)二号、三号だった。こんなの、どこにもありゃあしないシロモノなのだ。その二号が、前述した「映画・何色の世界?」の特集とシナリオだったのである。

 ホント、因縁とは恐ろしい、なんてね。

 その冊子の中に、高杉さんの文章があるので、ちょっぴり引用する。

 「一九七七年六月二七日、新幹線新大阪駅で下りた。もう真夏に近い太陽がジリジリ照りつけて、新大阪駅前の白っぽい高層マンションの群れに反射してまぶしい。

 白っぽい車体に草色の文字で大きく『 障害者差別を許すな 関西青い芝の会』と書かれた七〜八人乗りのカマボコ型ワゴン車が新大阪駅の車回しをスーイと走ってきて僕の前で止まった。この車には畿台かの車イスが積んであった。運転してきたのは、今様の長髪にカッコいいひげをはやしたF君という青年であった。

 この車でF君に伴われて着いたのが、関西障害者解放センター。駅から歩いても一〇分ほどの被差別部落の一角にある、文化住宅・大広荘にそれはあった。大広荘の部屋は六畳と四畳半。そこに関西青い芝の会連合会(脳性マヒ者集団)、グループ・リボン(自立したいろいろな障害者の集団)、関西グループ・ゴリラ(自立する障害者の友人である健全者グループ)、大阪障害者教育研究会(教師の立場から障害者の解放教育にかかわる集団)などがひしめきあっている。僕は、このセンターのスポークスマン的な役割りをしているらしい(公式にはどうか知らないが)河野秀忠君(三三才)からこの集団の形成されたいきさつについて話を聞いた」

 とあります。ボクがまだ三三才だったんだじぇ。顔から火が吹き出るなぁ。この続きもおいおいと。

 

映画「何色の世界?」上映あぴいる前編

 

 三五〇四〇時間は、あなたに何を伝える事が出来るか。

 私達は、ここに一本の映画を完成させた。(この映画を差別によって殺された七人の仲間に捧げる)

 関西における「障害者差別を許さない運動」は、何にもましてその底辺を拡大し、層としての組織化に成功しつつあります。七〇年代後半に突入した今、社会的位相を被差別統一戦線にもとめながら、ふみつけられたまんじゅうからアンコがとび出すように、自らを生きた政治過程に登場させているのです。そして、進撃が確固不抜のものとしてある事は、闘いの足場がゆらぎなく、障害者の生活と、おどろおどろしたその群像の矛盾の中に築かれている事に証明されている。私達は、四年間、つまり、三五〇四〇時間をかけて、現実にせかされながらもゆっくりと今にとどいた。映画「さようならCP」に始まり、映画「カニは横に歩く」を生み出した過程をへて、私達とまわりの人びとが作り出した世界は何色だったのだろうか。私達は、その問いをこの映画「何色の世界?」を創る事によって、あるいは、すべての人びとの生活行間になげ出すことによって、提起する心づもりです。

 この世界を色どる課題は、生活、民族、労働、運動、連帯等、多岐に渡っており、完全の意味でフィルムにやきつけられたとは言えません。しかるに、これらの課題は密接にからみ合い、私達をとらえてはなしません。つまりこれらの事どもは、口にのりする事のあり方の行方をめぐって、展開しているからに他ならないからだと、私達は考えたのです。この私達の想いがたといちょっぴっとでも伝わるものならば、足の生づめがはがれようとも、はいずり回ってでも、フィルムをかつぎ、語り合いの場に出かける決意です。

 私達は、はっきりとみなさんに告げましょう。「みてはならない所、知ってはならない事」の中にこそ、本当の事がある事を。しんどい所にこそ、しんどくしてしまったおのが罪をうちくだき、人間の選択された未来に至る方法がかくされている事を……。

 映画「何色の世界?」は、やらせドキュメントです。実像の中から生まれた虚像です。映画を見ただけで満足してもらっては困ります。映画を観た人が、虚像の世界から、実像矛盾世界に自己を移行させる事、自分の手で具体的にさわる事を約束してください。そうする事によって、初めて私達の三四〇四〇時間が伝わった事になるのではないでしょうか。

 今、障害者の自立と解放の運動は、全人格のときはなちをにないつつ、政治、経済の動向を敏感に反映し、歴史的な分水領にさしかかっています。福祉は、保守勢力によって切り捨てられ、革新勢力によって値切られています。障害者の全面発達の美名のもと、能力主義を押しつけられ、全国障害者問題研究会などの融和主義にくるまれています。一方、障害者をおみこしのようにかつぎあげ、説教をたれる運動も花やかです。施設、養護学校政策は、障害者の命をくしざしにし、障害者殺しをよってたかっておおいかくしています。映画「何色の世界?」に写し出された映像は、重度障害者の自立した生きようを通して、重度、重複障害者を環とした、優生思想をなぐりたおした具体的回答をみなさんに示します。政治と経済に規定されつつも、それらを越え、自らの回路の創出にすすむ共同が求められているのです。

 

若いねぇ。荒いねぇ

 

 これらの文章は、約三四年前に書いたもので、想えば遠くまで来たものだ、であるけれど、読んでいて、ドドーッと冷や汗が吹き出した。論旨も文体も荒く、徹夜で和文タイプライターを打っていた光景がよみがえる。が、若さというか、勢いだけが頼りの時代だったなぁとフゥ〜ンである。

 しかしながら、論旨は、現在のボクの思念スタンスと、大きくは違っていない。若かったから、ストレート球しか投げれなかったのだ。今は、変化球も少しは、投げれるぞと。

 「私達の共通の友人である、KMさんは、自らの生い立ちと現在を通して語ります。言葉はするするとあなたの胸もとにとどくでしょう。うけとるあなたの思念は自在ですが、あなたの生き方をくらべてみよう。あなたが上映運動をになう事によって、ボソボソ語りを組織し、KMさんのいとおしい生き方と、三五〇四〇時間と、それをもとにした未来に続く、ロマンと冒険の道程を分かち合おう。この機会を、職場、地区、教室に持ち込み、役だてよう。

 上映運動に全てをのぞむ事はできません。欲ばってはなりません。それは、ほんのチョッピリの中継点なのですから。私達の上映あぴいるを次の言葉でしめくくりましょう。『市民社会のどんな階級でもないような市民社会のいち階級、あらゆる身分の解消であるようないち身分、その普遍的苦悩ゆえに普遍的性格を持ち、なにか特殊な不正をではなしに、不正そのものをこうむっているために、どんな特殊な権利をも要求しないいち領域、社会のあらゆる領域から自分を解放し、それを通じて社会のあらゆる領域を解放する事なしには、自分を解放できないいち領域。ひと言でいえば、人間の完全な喪失であり、したがって、ただ人間の完全な回復によってだけ、自分自身をかちとる事のできる領域。』その世界を視よ!

 障害者問題資料センターりぼん社 〇六‐三二三‐四四五六(この電話は、現在も使われている) 映画貸し出し条件つき

 映画「何色の世界?」ある在日朝鮮人障害者の証言

 KMさんの重度障害者としての自立生活を通して、一体、何色の世界が見えたのかその世界は、あなたにとっての何なのか。生活、民族、教育、労働、運動とは何か。四年間の重みを持っておずおずと、そしてするどく問う!〜あなたが上映運動の主体となる事、そこから始まる何色の世界?

 ドキュメント〜八ミリ 一時間一五分 同時録音 制作・障害者問題資料センターりぼん社」

 エライ理屈っポイ文章がテンコ盛りではあるけれど、熱はアッチッチではある。制作年度が一九七五年なので、時代をヒシヒシと感じる。八ミリとか、同時録音とか。今は、そのものが世間に流通していない。それに貸し出し料金つきなのだ。そのことを、コロンと忘却していたが、当時、少し高いなぁという感触はあった。時代ですなぁ。

 しかしながら、当時の制作費は、約三〇万円だった。ビンボー所帯のりぼん社、ボクらには、キツイものがあったのを、かすかに覚えている。

 現在は、映画そのものがビデオ化されて、りぼん社で販売されている。

 

●制作エピソード・一

 当初、KMさんの自立を巡って、鋭く対立していた母親のKHさんは、有名な朝鮮王朝音楽の大家だった。KMさんの自立生活も、ヘルパー制度の無い時代だったけれど、なんとかかんとか介護者も確保され、危ないところではあるけれど、定着し始めた頃に、この映画作り企画がもちあがったのだった。

 KHさんは、映画の音楽を担当してくれ、インタビュー場面にも登場していただいた。

 

制作エピソード・二

 作家の高杉普吾さんが、雑誌「市民」一九七五年一〇月号に寄稿された文章の最後のくだりを引用する。高杉さんは、男性障害者で、自立生活者のMさんの入浴介護をしたり、映画撮影に同行したりしながら、精力的に取材をされていた。

 

 「楽しく巨大な取材だった」

 僕は、KMさんの愛の話を聞いたことをすばらしいことだったと思うと同時に、やはりそこには、M君の存在自体(高杉さんが入浴介護に入ったひと)が見えておらず、しだいにそれが見えてくるにつれて、鮮烈な驚きになっていったのと同じような質の「感動」のあり方があったように思う。それは障害者の愛や性について見ようとせず、見えなくなっている僕の健全者としての感性がめくられ、告発されたことを意味していた。KMさんが呑みながらいった「障害者と恋愛は密接なんや。縁遠いいわれていることでかえって密接になるんや。」ということばを僕は、帰りの新幹線の中でも考えていた。縁遠くしていたのは障害者の愛と性を禁忌として黙して来た僕らの日常感覚ではなかったのだろうか?

 僕は、この取材でいくつも見えなかったものが見えてくる不思議な体験を味わった。しかし、それは見えるはずのものが見えなかった自分のヘドロにまみれた感性が、被差別の底で、常にとぎすまされている障害者の感性によって鋭く見破られたにすぎない、と思う。リンゴを認識するにはリンゴをかじらなければならない。「位置づけよりは、お茶づけの方が好きや」と語ったKMさん。壮大な気宇でマクロに語られる分析より、僕は、Mさんの二畳の湯殿の方が巨大なものを与えてくれたと思っている。

 

●制作エピソード・三

 映画制作スタッフとカッコよく書いても、監督&雑用係のボクとカメラマンのM君のふたりだけ。後は、りぼん社のオンボロ車。当然、運転手兼務。主人公のKMさんの介護も兼務。

 このKMさんは、青い芝の会が、脳性マヒ者とその他の障害者市民に分かれてからは、「葦の会」として活動されていた。その後、多くの障害者市民に呼びかけられて、障害者の肉体表現をテーマに、「劇団・態変」を主宰している。劇団の公演は、国の内外に及び、国際的にも高い評価を受けていると聞く。

 KMさんと一緒に、幼い頃に高熱を発して、お母さんによって、担ぎ込まれた大阪大学医学部付属病院を撮影に行ったときのこと。用もないのに病棟内部の撮影は、不可。仕方がないから、病院の外周りを撮影した。(当時の病院は、中之島にあったけれど、現在は、千里万博記念公園に隣接して、威容を誇っている)

 車の助手席に座って、病院の周りをグルグル回りながら、KMさんは、語った。

 「ホントに高い熱が出たんよ。何日もな、それで、熱が引いて、ちょっと安定した頃に、私のお母ちゃんは、ズッと付き添ってくれていて、お医者さんに聞いたんよ。『この子は、どうなるんですか』って。そしたら、お医者さんは、『この病気は治らない。体力が回復しても、障害が残るでしょう』っていうんよ。お母ちゃんは、びっくりするし、オロオロするしで。なんとか治してやってくださいって。

 そしたら、お医者さんは、できる限りの治療をしましょうと言ってくれてね。でも、それからは、私にとっては、地獄やったね。ルンバールいうてな、脊髄に注射する薬があんねん。それが気絶するくらいに痛いねん。それが毎日なんやで。私、痛い、痛いいうて、ずーっと泣いてばっかしやった。 ここには、そんないやな思い出しかあれへんねん」。

 そして、KMさんが見上げた空の雲が、病院の窓のガラスの中で、ゆっくりと流れていた。

 

●制作エピソード・四

 一九七五年の時代、世は、国際婦人年であり、ベトナム戦争では、北ベトナム軍によって、サイゴンが陥落。ベトナム戦争の収束方向が確定していく。

 阪大病院を退院したKMさんは、大阪市北区中津にある、中津整肢学園(全寮制の療護施設)に入所する。その場所も内部撮影は、不可。ではと、表玄関の内側を、表通りから撮影。職員の姿はなく、障害のある子どもたちが、ボール遊びに興じていて、明るい声が跳ね回っているのが、印象的だった。またKMさんの語り。

 「ここで、入部香代子(旧姓・長沢)、カヨちゃんに出会ってん。それが、後々、私が自立生活を始める、とっかかりやったな。ここには、いろんな思い出があるとこやねん」。

 その友人の入部さんは、後年、大阪府豊中市の市議会議員になって故人になられたけれど、当り前だが、そのことは、当時、誰も知らず、予想だにしていなかった。ただ、七五年には、入部、Kさんたちが中心になって、豊中・エーゼット福祉工場設立委員会が旗揚げしているから、何かの因縁つながりはあるんだろうなと、なんとなく合点した。        つづく