新・私的「障害者解放運動」放浪史 15

『そよ風のように街に出よう87号』(2015年1月発行)より

●幻の「シナリオ」2冊目



 ひょんなめぐり合わせで、ボクの前に現れた2冊のシナリオ。1冊目は、1975年に制作された「映画・何色の世界」のもの。それを、2回にわたって紹介する駄文をモノして、読者のみなさんにお届けした。

 サテ、まだ1冊の方が残っているのだが、ハテサテ、いかがしたものかと思案投げ首の段。記憶の闇が、悪魔のようにささやいた。

「発行当時には、3000冊のものが、長い年月の間に、保存用の2冊になっているんだジェ。手作り冊子なんだから、全国各地のクズ籠に散逸してしまっていることだろうから、新たに、その概要を書き残しておくのも、障害者市民運動の近・現代史のひとつの風景にはなるだろうから、書くべし」と。

「何色の世界」公開から2年が経過して、次なる映像は、なにを表現すればいいのか、の悩ましい時間を食べて、1977年に制作、公開した作品が「 映画・ふたつの地平線」(養護学校はもういやだ)だった。前2回の紹介では、プロのライター・高杉晋吾さんのレポートを引用させていただいたが、今回もシナリオ全体を紹介することは、とても叶わぬことなので、その周辺から、攻め立ててみたい。全体をのぞきたい方は、障害者問題資料センターりぼん社にて、ビデオとして販売しておりますれば、お買い上げの上、御覧くだされ。と、ここで、ほんのお商売も。

 1977年といえば、全国の先陣を切って、1月末には、養護学校義務化阻止のために、全国青い芝の会が文部省交渉を開始。8月の第2回全障連大会では、義務化阻止の全国統一闘争が方針化されている。また、4月には、川崎駅前でのバス乗車拒否糾弾乗り込み闘争もあった。

 前年の76年には、和歌山県立福祉センター糾弾闘争。大阪市では、車イスの女性障害者の教員採用を巡って、座り込み闘争。などなどが目白押しダンゴ。

 いわずと知れて、養護学校義務化阻止闘争は、日本教育分断化と、教育からの障害者排除に切り込む闘いだった。全国各地では、ジワジワと障害者団体が立ち上がり、闘いの輪が広がっていた。

 それらの闘いと、個別の闘いとを、つなぎ合わせ、大きな流れを構築する一助になればと、作品化が決定された。腰の軽いのだけが取り柄のボクら。早速、闘いの現場に馳せ参じる。和歌山、大阪、神奈川、東京へわらわらと。それぞれの現場では、カメラを回し、フィルムに、闘うひとびとの表情と状況を焼き付け、帰ってきては、編集の繰り返し。若かったなぁ、疲れなんか全然苦にならなかった。

 作品には、実に雑多なひとたちが登場したし、同行したひと、言葉を届けてくれたひとも多かった。そのひとたちの言葉を紹介して、「ふたつの地平線」という映画が、どのようなものだったのかの、想像のチカラの助けになればと。

(和歌山県立福祉センター糾弾闘争から)

 「詩・センターを占拠した」詩人・芝充世さん
 すでに針金は首にくいこみ、所かまわず小便たれ流して/一昼夜。おたがいの体をつかまえあい、首と首を/くくりつけて、藤田よ見てくれ、初めて自由をかけて/たてこもった。君のうらみがにえたぎったところ。/君の望みがズタズタにひきちぎられたところ。/そこに今、私らの旗が静かにはためく。/ある者は机を一人でつみあげ、ある者は車イスをころがし、ある者は指示し、ある者はじゃまにならないよう場所を移し、抵抗できる者は消火器を唯一の武器としてかかえたまま、はなさなかった。共に信じあい、どのような行為をも、/おたがいにほめたたえ、その事を自分の事のように思った。藤田よ、聞こえるか。私らの初めての歌声が。のどをはらし、最後まで歌い続けた ひとかたまりの歌声が。/この苦しさは苦しさではない。/このみじめさはみじめさではない。いつわりの命をたたきわって、今、私らの体を同じ一つの血が流れる。遠い寝たきりの部屋にも、窓の外で/にぎりしめたこぶしにも、同じ一つの血が流れ、/「センター占拠!」「センター包囲!」/1976年1月、はじめてめざめ、はじめて立ち上がり、/私らだけで闘いぬいたこの熱い勝利の日。全ての解放に/いざりよる夜が、激しい陣痛の中から、真っ赤な顔を/つき出している。藤田さんが奪われたものは、/何であったのでしょうか。彼に何ものをも与えなかった教育。/彼を絶望に追い込んだ教育。その教育が今、問われているのだ。

(ふたつの地平線を見て)

 「首から上健全者の障害者集団・あしの会」の中東さん。(このひとは、九州の大学在学中に事故に合い、車イス生活に。大阪での教職試験を受験するも、正確な説明もなく、失格に。そして、その大阪市教育委員会への糾弾闘争が闘われた。)

 「ふたつの地平線」を何度か見た現在、首から上健全者の障害者としての私にとって、小学校の教師を目指す私にとって、一つの転機になった映画である事に気がつきました。

 ある上映会の時に、一人の健全者が、「私は、女の障害者が河のほとり立って、様々に想いをはせている。そしてバックに音楽が流れている場面に、一番感動しました。」と言っていました。また、私達の仲間である、「あしの会」の障害者がこう言いました。「脳性マヒ者が群れをなして、文部省に抗議していく場面で、一人一人様々なかっこうではねるようにいざったり、手足をバタバタさせているのを見ていて、一種独特の異様さと、相いれない感じを覚えた。」と。私にはこの二人の言ったことが不思議にも、両方ともよくわかるのです。私は障害者になって4年と数か月なのですが、中途障害者であることを、今さらのように認識させられました。そして、私自身にとって必要なのは、大切なのは、このことだと思うのです。

 私達障害者の問題は、常に障害者の周囲のひとびと、障害者の親、福祉行政担当者、教育、施設関係者などによって、対策として進められていくのであり、養護学校義務化も障害児教育の総合的対策にほかならないことを、この映画のサブタイトル「養護学校はもういやだ」の中にみるのです。社会の根っこである教育が、私達障害者の現実と未来を象徴し、それが障害者を、人間の存在として認めない方向へ向かっている以上、藤田さんと野中さんの死は、はっきりとした挑戦であり、それを私達一人一人が見極めていくことが強く強く要請されているのが、この映画ではないでしょうか。

 バス闘争の場面で、市民の何人かがはいた言葉、「みんなの迷惑も考えろ。」「障害者がこんなことをしちぁいけませんよ。」「早くどこかへ運べ。」の中に、全ての健全者が現在の社会の中で、障害者に対してどんな位置にいるのかを、痛い程、知らなければならない。藤田さんのアパート、野中さんの追悼集会、文部省抗議行動の中に、教師は学校で何をやってきたのかを、思い起こさねばならない。

 また私達、「あしの会」に位置する障害者、福祉政策に反映される障害者は、理屈ではなく、身体全体として感じるあの異様さから、私達の生きる方向をさぐらねばならない。様々だが個々の人間が、それぞれの立場に目覚め、そこからの変革と、闘いへの決断がせまられていることを、私自身に記しておきたい。

 私自身、小学校教師への道を突き進み、教育が支えている差別の柱を切りたおしていきたい。

 1977年代後半は、確かに、障害者市民解放運動の覚睡の時代だった。それは、小さいけれど、ひととしての確かな、いのちと自由への渇望の衣をまとい、それぞれの闘いの場で、オーラを放っていた。

 これほどに、教育への憧れを強く想った時代があっただろうか。養護学校が、特別支援学校と名前を変えても、その本質は、通底している。そして、障害者市民のオーラは、今、困惑の時代にある。

 中東さんの教師への願望は、実現しなかったし、芝さんが、詩をモノすることもなくなって久しい。そういう時代だったとは言いたくないけれど……。悔しい!



●お約束



 時は、1977年。新しい時代へのメッセージとして、記憶として、この年に制作された「映画・ふたつの地平線」の上映あぴいるをお届けする。

 時代は、2年後に養護学校義務化が隙あらばと、牙を研いでいた頃である。全国で初めての障害者市民団体(全国青い芝の会)と文部省(当時)が、養護学校を巡って実力直接交渉を始めた時期で、その全体像も映像として収録されている。時代は叫ぶ。国連では、盲ろう青年・成人に関する世界会議が開かれ、「盲ろう者の権利に関する宣言」が採択されており、第2回全障連全国大会では、養護学校義務化阻止全国統一闘争が決議されていた。

 「ふたつの地平線」のサブ・タイトルは、(養護学校は、もういやだ)だった。

ここに告げる・「ふたつの地平線」上映あぴいる

 私たちは、あなたをお誘いします。私たちは、あなたをそそのかし、自由と解放の旅行にお誘いしたい。この映画をのぞいてごらん。あなたのからだの奥底にかくれている、やさしさの胎児がみえるでしょう。その上にうず高くつもったヘドロが、あなたの心臓をぬりつぶしているのがみえるでしょう。この映画は、あなたを抑圧から解放し、奔放に生きさせるためのパスポートです。その行き先のないパスポートをあなたにプレゼントしましょう。不安と不信がからまって、身動きできなくなり、疲れた、死にかけの表情で生きている人々よ。この映画の主役たちの、生そのもののありようをみよ。ひたむきに笑い、しゃべり、時間をとめるようなしずかな表情、そのごまかしのないありように、あなたはいやされ、じっとしていられなくなるだろう。おおらかな自分をとりもどし、生命あるものを熱愛したいと思うようになるだろう。

 この映画は、苦しみ、もがきながら殺された「ふじた・まさひろ」君と、そのおそすぎた青春を、闘いの中でとりもどし、短くも燃やしつくして倒れた「のなか・ただお」さんに導かれ、今日も生き、自立し、ありのままの自分の生きようを闘っている、数多くの障害者のエネルギィを焼きつけてつくられました。

 スタッフは、全員健全者です。しかし、スタッフは、途中、何度も過労と病に襲われ、歯を食いしばって、制作作業を貫徹しました。これは、障害者と健全者の合作映画です。専門家ではない人間の、ふてぶてしくも、ナイーブな心でつくった映画です。全面展開するしか、生命を生きる道のない障害者の生きようが、今あなたに贈られようとしています。さぁ、健全者であるあなたは、彼らに、彼女らに、何をお返ししますか。権力のいいなりになって、彼ら、彼女らを殺し続けたいですか。それとも、彼ら、彼女らとともに、人間をとりもどす人生を創っていきますか。そして、ひとり悩み、苦しみ、責められ、自らを縛っている、障害者の兄弟たちよ。ためらわずに、私たちの隊列に飛び込んでこい。私たちは、いつでもあなたのそばにおり、いつでも、あなたの力を必要としている。

 この映画を、卑劣、残忍な国家権力と、それを支えるひとびと。そして、自由と解放のイバラの道で、今日も闘っているひとびと、その途上倒れた無数のひとびとに捧げます。

 教育が、与え、奪ってきたものは、何なのか。
 差別と選別、混乱の極みにある教育に、私たちは切りつける。
 実践現場に反乱を。こけおどしの民主主義をふみしだく、自由をこそ、私たちは夢想する。
 1979年、養護学校義務化の意味をさぐりつつ、私たちは、それを拒否する。
 障害者問題資料センターりぼん社・映画制作委員会

 


●制作委員会の思い出

 


(前略)私たちの創る映画は、原則として8ミリを採用しています。それは、16ミリにはない、細やかな感情が観る人々に伝わることと、どのような集まりにも活用されうるという特性を備えていることによります。私たちにしても、もっと映画的な手法が駆使出来る、16ミリに魅力を感じることがないわけではありません。しかしながら、私たちがその手法を手に入れる時、ただの映画屋としてではなく、障害者の自立と解放の運動の高揚が、それを獲得するという条件がなければなりません。そうした意味では、私たちをはじめとする、多くの友人たちが切り開いてきた、解放運動的地平が、この「ふたつの地平線」の次回作において、より多くの映画的手法を、人間の解放的文化所産としての技術として、獲得されることを強く望んでいます。

 私たちは、当初、なけなしの知恵とサイフの中味をはたき、ストーリィを考え出そうとしました。つまり、社会的状況があり、運動的力量があり、言葉としての秩序があり、その上で映像の組み立てがあると。このごく平凡な発想を、私たちの映画作りに課しました。しかしながら、この努力は、現実の展開によって、次から次へとくつがえされ、映像に描かれる運動ではなく、障害者解放運動の過激たらざるを得ない、現実の動きをストーリィが追いかける結果になりました。

 私たちは、映画作りに関しては、ごく経験主義的な素人集団にしか過ぎません。映画作りにおいては、多くの諸先輩が残された業績を、私たちの幼稚性が踏みにじることになるかも知れません。しかしながら私たちの関わる障害者解放運動の現実は、私たちが振り回す手足と知恵によってしか、形成され得ないのです。そんな傲慢さと思い込みの背景には、それほども切迫している障害者現実があるのです。

 多くの映画屋さん。ごめんなさい。でもまぁ、誰が映画を作っても、映画のようなものを作っても、いいじゃありませんか。(後略)

 その現実のひとつがこれだ。映像にも取り入れられている、車イスのまま乗りたいという、普通の願いを踏みにじられた時、川崎バス闘争の必然性は用意されていた。のたうち回りながら「バスに乗せろ」と叫ぶ障害者の生き生きしたした姿に対して、どこから動員されたのか知らないが、いわゆるバスに乗る市民的権利を奪われた、労働組合の幹部と称する通行人が(全国青い芝の会の乗り込みによって、川崎駅前では、バスが78台止められた)撮影を続ける私たちに、障害者の友人を指さし、「こいつらを片付けろよ」と、詰め寄ってきた。私たちの労働組合運動に対する、暗澹たる気持ちを誰が知ろうか。こんちくしょうめである。


●曲がってしまった角



 世界中のあらゆる社会には、「ああ、あの時に、社会の形が曲がり角を曲がったんだ」という時がある。韓国の光州事件、中国の天安門事件、アメリカのベトナム戦争などがそうである。では、日本は、どうなのか。日本は、70年安保闘争ではあるまいか。70年から7年目にでき上がった映画「ふたつの地平線」には、それなりに幼いけれどの感慨がある。まだまだ、言葉が青い。にしても、70年に国の体制が角を曲がって、7年目。新しい国の顔が形成される時代。エネルギィが石炭からガソリンヘ。学校制度が、別学体制へ。能力主義、優生主義が国の基礎部分になる時代に、障害者解放運動が台頭して、対抗軸の舞台に躍り出たのだから、ある意味で素晴らしい時代にいたことになる。しかしながら、次回作を夢想していたボクが、時代の波を乗り切ることに夢中になるあまり、作品の構想すら組めずに、今日に至っている現実もまたある。情けないなぁ。トホホホである。

 というところで、この奇妙な、忘却の彼方からやってきた、2冊の映画シナリオとの出会いの記憶編はオシマイ。さて、次からは、どの方面に出撃して、障害者市民の現代史と個人的記憶物語を展開しようかと、脳の中味をガラガラポン。  つづく