新・私的「障害者解放運動」放浪史 16『そよ風のように街に出よう88号』(2015年9月発行)より |
●闘う心は、継続されたか
他方、神奈川県青い芝の会連合会の横塚さん、横田さんたちを中心に、東京を始めとする、関東各県の青い芝の会の、青い芝の会全国化への模索も続けられていた。この関西、関東の動きが連動して、全国青い芝の会総連合会(全国青い芝の会、会長・故横塚晃一さん)が、1973年9月に旗揚げしたのだった。 それらを前後する時期、ボクは、関西青い芝のKさんや、Mさんたちと、無けなしのカネを投入して、障害者解放運動の理念を学ぶべく、大阪と東京間を行ったり来たりしていた。ということで、全国青い芝の会結成の時に、脳性マヒ者運動規範として、掲げられた「青い芝・行動綱領」の策定作業にも、チョロチョロと参加させてもらった。ワープロもパソコンも無い時代である。これまた無けなしのカネ(こればっか)で購入した、和文タイプライターを駆使してと書けばカッコいいけど、実体は、ポツン、ポツンの雨だれ1本指打法。拙い文書作業の書記さん役。ちなみに、現在も、この1本指打法は、ボクの伝統術として、使っている。 その行動綱領は、それ以前にあった、神奈川県青い芝の会連合会行動綱領を下敷きにして、議論されて策定された。この行動綱領は、以後の青い芝運動に絶大な影響とチカラを与えたのだった。
〈全国青い芝の会行動綱領〉
●伝わったぁ。バクバクっ子の宣言
〈バクバクっ子・いのちの宣言〉 とはいえ、ボクたちの世間では、「長期脳死」などという、珍妙なフレーズに、見られるごとく、生きているのに、死んだことにするというような、いのちの商品化がすすむ。また、ボクたちの未来、障害の有無にかかわらず、子どもたちのいのちが軽んじられる事件があとを絶たない。今こそ、障害者解放・にんげん解放の旗を掲げ、いのちの救済の旅に、ドッコイショと腰を上げる時ではあるまいか。まぁ、年寄りの繰り言かも知れないけれど。
その年賀状の束の中に、1973年に制作した8ミリ映画「カニは横に歩く」(以前に紹介した。障害者問題資料センターりばん社設立前の制作委員会の作品)の撮影時に、近畿大学の学生でカメラマンとして、活動してくれていたM君のものがあった。現在は、医療関係の会社を退職して、長野県白馬村で、ペンションを営んでいる。賀状には、ひとつの訃報が記されてあり、『広田が、長い癌との闘病生活の後に亡くなりました。冥福を祈ってやってください』と、あった。何も知らなかったボクは、放心してしまう他に方法を持てなかった。だから、広田君の記憶を文字にすることから、今回の放浪史を始めていくことにした。 映画「さようならCP」(1972年制作)の関西上映実行委員会の呼びかけに応じて、上映運動に集まってくれた学生たちがいた。大旨、3つのグループに分かれていて、神戸大学のグループ、近畿大学のグループ、大阪学芸大学(現在は、大阪教育大学となっている。当時は、大阪府池田市と大阪市天王寺区に学舎があった。今は、大阪府柏原市に本拠がある。)のグループがそれである。神戸大学グループの中には、りぼん社設立時に、ボクとの共同代表を担ってくれたS君がいた。S君は、大阪でペインクリニックと眼科のソフトレンズ販売業を営んでいたが、数年前病気で死去した。そして、広田君とM君は、近畿大学のグループに属していた。学芸大学のグループは、上映運動が始まって、しばらくして、他のグループとの意見が合わなくなり、離反していってしまった。
ボクが、タバコの吸い殻を、何気なく路上にポイすると、その4人の内の誰かが、必ず「人民の街を汚してはいけません。人民解放軍の3大規律には、そう書いてあります。盗るな、奪うな、汚すなと」と、咎めた。その咎めの声を激しく上げるのが、広田君とK君だった。その4人が尊敬してやまなかった、中国の人民解放軍も、天安門事件を鎮圧する軍隊として、あるいは、民主化運動の対立軸として、急激に、近代化と膨張をしつつあるのだから、時代を感じてしまう。ノーベル平和賞も、そこのけ、そこのけである。 広田君は、りぼん社設立の後、近畿大学を卒業して、大阪府高槻市の教職員試験を受けて、合格。もう30年以上前のことになる。その頃から疎遠な関係になり、時折、教職員組合の教研集会などで顔を合わせるくらいになってしまった。広田君は、とてもシャイな青年だつた。4人の中では、出しゃばることがほとんどなかった印象がある。いつも恥ずかしそうに、下を向いて、顔を合わさないようにしゃべるのが常だった。あれで学校の教師が勤まるんかなと、ボクなんかが心配しても仕方がないけれど、気にはなる人物でもあった。しかし、珍しく4人の内、M君を除いて3人が、大阪と奈良県の教師になり、職場や地域が各々離れた近畿大学のグループ4人だったけれども、その後も交流はあったようだ。賀状をくれたM君が経営するペンションには、折りにふれ、4人で集まっていた様子なのだ。ボクがそのペンションに行き、利用した折りに、M君が記念の集合写真をたくさん見せてくれたので、広田君の笑顔を覚えることができたのだった。
今の時代に急激に進むテクニカル革新を批判しない、もしくはできないでいるひとびとは、新しいテクが開発されると、それらを無条件に受け入れてしまう傾向にある。昨日できなかったことが、今日できるようになれば、できることを、することにほとんど抵抗しない。そして、それはいいことなのだ、につながっていく。例えば、障害者問題の根幹を揺るがす、臓器移植にしても、能力主義差別につながる、出生前診断にしても、それができるようになれば、それをすることはいいことなのだと考えてしまうひとびとが、社会の多数派になりつつある。しかし、ボクたちは、そこで踏みとどまり、できることをすることが、必ずしもひとびとの幸せにつながらないことを、障害者市民運動から学び、知っている。テクによるからだの生理リズムが破綻し、ひとびとの関係性を希薄にして、社会のあり様を歪めてしまことなどなど。ボクたちは、どこかで、できることを、しないという選び方の考えを模索しなければならないだろう。しかしながらテク革新のスピードはいかにも早い。ひととしての倫理・規範の話し合いが追いつかない。その結果、できることをして何が悪いのかという言説が市民権を得てしまう。そして、ひとびとの願いと想いは、粉々になる。それらは、障害の有無に関わりなく進んで行く。それが、いまの時代の風景色ではあるまいか。 その運動の歴史は、実に多く、多彩なひとびとによって、支えられ、切り開かれてきた。広田君も、確かに、その内のひとりだったことを忘れてはならないだろう。それがどんなにダサク、アナログな行為だとしても、人間は、機械ではないのだから、すき間や冗長、時として、後ろ向きになっても、忘れてはならないことは、記憶に留め続けねばならないのだ。 さようなら、広田君。ありがとう、広田君。 つづく
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