新・私的「障害者解放運動」放浪史 16

『そよ風のように街に出よう88号』(2015年9月発行)より

●闘う心は、継続されたか


 1973年4月29日、映画「さようならCP」の上映運動後、映画づくり運動を経て、日本脳性マヒ者協会・大阪青い芝の会(会長・高橋栄一さん)が、関西各地の若い障害者たちの結集によって結成された。一方、視覚障害者の楠 敏雄さん(2014年逝去)率いる関西障害者解放委員会と、当時、大阪府が計画していた、寝屋川市に建設、開校する「府立第8養護学校」に対する建設阻止運動の共闘のために、時を置かずに、大阪青い芝の会に所属していた関西各地の若い障害者を中心に、続々と、兵庫、和歌山、京都、奈良に、各県青い芝の会を誕生させ、その集合体としての、関西青い芝の会連合会(関西青い芝)も結成されて、優生保護法改悪阻止・79年養護学校義務化阻止の、闘う体制構築の筋道を形成しつつあった。

 他方、神奈川県青い芝の会連合会の横塚さん、横田さんたちを中心に、東京を始めとする、関東各県の青い芝の会の、青い芝の会全国化への模索も続けられていた。この関西、関東の動きが連動して、全国青い芝の会総連合会(全国青い芝の会、会長・故横塚晃一さん)が、1973年9月に旗揚げしたのだった。

 それらを前後する時期、ボクは、関西青い芝のKさんや、Mさんたちと、無けなしのカネを投入して、障害者解放運動の理念を学ぶべく、大阪と東京間を行ったり来たりしていた。ということで、全国青い芝の会結成の時に、脳性マヒ者運動規範として、掲げられた「青い芝・行動綱領」の策定作業にも、チョロチョロと参加させてもらった。ワープロもパソコンも無い時代である。これまた無けなしのカネ(こればっか)で購入した、和文タイプライターを駆使してと書けばカッコいいけど、実体は、ポツン、ポツンの雨だれ1本指打法。拙い文書作業の書記さん役。ちなみに、現在も、この1本指打法は、ボクの伝統術として、使っている。

 その行動綱領は、それ以前にあった、神奈川県青い芝の会連合会行動綱領を下敷きにして、議論されて策定された。この行動綱領は、以後の青い芝運動に絶大な影響とチカラを与えたのだった。

〈全国青い芝の会行動綱領〉
◯われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
 われらは現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつ、自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ、行動する。
◯われらは、強烈な自己主張を行う。
 われらが脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうとする意志である。われらは、強烈な自己主張こそがそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ、行動する。
◯われらは、愛と正義を否定する。
 われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ、真の福祉であると信じ、且つ、行動する。
◯われらは、健全者文明を否定する。
 われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが、現代文明の告発に通じることを信じ、且つ、行動する。
◯われらは、問題解決の路を選ばない。
 われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行うことのみが、われらの行い得る運動であると信じ、且つ、行動する。

 これが、70年初頭に策定された、伝説の行動綱領である。その人間解放の輝きは、現在も色あせてはいない。そしてまた、悲劇の道程をたどった綱領でもあった。1976年8月に、大阪で結成された、全国障害者解放運動連絡会議「全障連・初代代表・故横塚晃一さん」には、全国青い芝を始めとして、全国各地の障害者団体、個人が参加して、全国青い芝会長の横塚さんが代表に就任されたのだったが、今度は、全障連の行動綱領づくりに当たって、青い芝側から、青い芝の行動綱領を採用せよとの、強い要求が出、その取扱いを巡って議論が紛糾した。その板ばさみの中、横塚代表は、就任1年で、退任されることになってしまった。だから、ボクには、この行動綱領の心は、今の時代に伝わったのだろうかの想いも残っている。

 

●伝わったぁ。バクバクっ子の宣言



 2009年、臓器移植法が改悪され、障害者運動の根幹を成す、本人の意志の同意がなくても、親族の同意だけで、移植のための臓器提供が行えることになった。まさに、新優生思想の時代到来である。積極的に、いのちの問題として、臓器移植法改悪に異を唱えてきた、人工呼吸器をつけた子どもの親の会「バクバクの会」の結成20周年記念総会が、2010年7月31日、東京で開催され、その場で「バクバクっ子・いのちの宣言」が発表された。
 その策定のために、起草委員会が組織されて、1年間を費やし、多くのひとたちの意見を集約して、成文化されたものである。ボクは、バクバクの会事務局員として、その起草委員会の事務局の整理役をやったのだが、青い芝の行動綱領のことが、頭から離れなかった。

〈バクバクっ子・いのちの宣言〉
「ひとつ」
わたしたちは、みんな、つながっているにんげんです。
いっしょうけんめいにいきています。
「ふたつ」
いま、せかいは、いのちのじだいです。
わたしたちには、そのいのちを、ひとりのにんげんとして、たいせつにすることが、もとめられています。
「みっつ」
どのいのちも、ころしても、ころされても、じぶんでしんでもいけません。
とおといしにかたは、ありません。とおといいきかたと、とおといいのちがあるだけです。
「よっつ」
わたしのかわりも、あなたのかわりもありません。
わたしたち、にんげんは、わたしのいのちを、せいいっぱい、いききるだけです。
「いつつ」
わたしたちは、わたしたちのいのちをうばうことをゆるしません。
わたしたちは、わたしたちをぬきに、わたしたちのことをきめないでとさけび、ゆうきとゆめ、きぼうをともだちに、にんげんのいのちのみらいにむかいます。
2009年7月31日

 どうだ。全国青い芝行動綱領の心は、39年間の時を経て、見事に、生き生きと、生身の言葉と気持ちとして、伝わり、バクバクっ子の輝きとして、表現されている。先人たちの熱い想いと闘いは、連綿たる歴史として、ひとびとと時代に反映されなければならないのが、まさに今ではあるまいか。

 とはいえ、ボクたちの世間では、「長期脳死」などという、珍妙なフレーズに、見られるごとく、生きているのに、死んだことにするというような、いのちの商品化がすすむ。また、ボクたちの未来、障害の有無にかかわらず、子どもたちのいのちが軽んじられる事件があとを絶たない。今こそ、障害者解放・にんげん解放の旗を掲げ、いのちの救済の旅に、ドッコイショと腰を上げる時ではあるまいか。まぁ、年寄りの繰り言かも知れないけれど。



●4年前の正月の訃報



 今こそ、障害者解放・にんげん解放の旗を掲げ、いのちの救済の旅に、ドッコイショと腰を上げる時ではあるまいか。まぁ、年寄りの繰り言かも知れないけれど。なんとかせんとなぁと、あれこれ思案している内に、その年、2011年が明けた。元日には、それなりに、年賀状が100枚程届いた。ボクは、自分からは、年賀状を出さないけれど、届いた年賀状には、返事をすることにしている。

 その年賀状の束の中に、1973年に制作した8ミリ映画「カニは横に歩く」(以前に紹介した。障害者問題資料センターりばん社設立前の制作委員会の作品)の撮影時に、近畿大学の学生でカメラマンとして、活動してくれていたM君のものがあった。現在は、医療関係の会社を退職して、長野県白馬村で、ペンションを営んでいる。賀状には、ひとつの訃報が記されてあり、『広田が、長い癌との闘病生活の後に亡くなりました。冥福を祈ってやってください』と、あった。何も知らなかったボクは、放心してしまう他に方法を持てなかった。だから、広田君の記憶を文字にすることから、今回の放浪史を始めていくことにした。

 映画「さようならCP」(1972年制作)の関西上映実行委員会の呼びかけに応じて、上映運動に集まってくれた学生たちがいた。大旨、3つのグループに分かれていて、神戸大学のグループ、近畿大学のグループ、大阪学芸大学(現在は、大阪教育大学となっている。当時は、大阪府池田市と大阪市天王寺区に学舎があった。今は、大阪府柏原市に本拠がある。)のグループがそれである。神戸大学グループの中には、りぼん社設立時に、ボクとの共同代表を担ってくれたS君がいた。S君は、大阪でペインクリニックと眼科のソフトレンズ販売業を営んでいたが、数年前病気で死去した。そして、広田君とM君は、近畿大学のグループに属していた。学芸大学のグループは、上映運動が始まって、しばらくして、他のグループとの意見が合わなくなり、離反していってしまった。



●全学闘争委員会ってかぁ



 広田君の属していたグループは、グループといっても4人くらいの小さいもので、全共闘運動が、70年以後、そのファッション性を失い、低迷期に突入していた時代の空気とは関係なく、近畿大学全学闘争委員会の名前を、恥ずかし気もなく名乗っていた。その小グループは、どこでどう学んだのか、多分、党派とは関係なく、独学でだろうが、4人とも毛沢東主義者を自負していた。もう以前に書いたことがあるが、ボクも手伝いに行ったけれど、無謀にも、何の目的も無く、全学バリ封鎖闘争をやりかけて、頓挫したという、笑うに笑えぬエピソードもグループとして持っている。

 ボクが、タバコの吸い殻を、何気なく路上にポイすると、その4人の内の誰かが、必ず「人民の街を汚してはいけません。人民解放軍の3大規律には、そう書いてあります。盗るな、奪うな、汚すなと」と、咎めた。その咎めの声を激しく上げるのが、広田君とK君だった。その4人が尊敬してやまなかった、中国の人民解放軍も、天安門事件を鎮圧する軍隊として、あるいは、民主化運動の対立軸として、急激に、近代化と膨張をしつつあるのだから、時代を感じてしまう。ノーベル平和賞も、そこのけ、そこのけである。

 広田君は、りぼん社設立の後、近畿大学を卒業して、大阪府高槻市の教職員試験を受けて、合格。もう30年以上前のことになる。その頃から疎遠な関係になり、時折、教職員組合の教研集会などで顔を合わせるくらいになってしまった。広田君は、とてもシャイな青年だつた。4人の中では、出しゃばることがほとんどなかった印象がある。いつも恥ずかしそうに、下を向いて、顔を合わさないようにしゃべるのが常だった。あれで学校の教師が勤まるんかなと、ボクなんかが心配しても仕方がないけれど、気にはなる人物でもあった。しかし、珍しく4人の内、M君を除いて3人が、大阪と奈良県の教師になり、職場や地域が各々離れた近畿大学のグループ4人だったけれども、その後も交流はあったようだ。賀状をくれたM君が経営するペンションには、折りにふれ、4人で集まっていた様子なのだ。ボクがそのペンションに行き、利用した折りに、M君が記念の集合写真をたくさん見せてくれたので、広田君の笑顔を覚えることができたのだった。



●記憶のままに



 広田君とともに過ごした、青臭く、貧乏だった時代からは、想像もできない時代に、ボクたちは、生きている。その時代というシロモノは、ひとりひとりの個人の生きた証をリセットして、忘却の彼方に押しやり、忘れ去る。ボクは、時代が広田君を忘れても、日本障害者解放運動の勃興期に、広田君は、参加し、その一翼を確かに担ったひとりだったことを、忘れるなと自らに命じることしかできないけれど、その事に、大切なひととしての意味を見出そうと想う。

 今の時代に急激に進むテクニカル革新を批判しない、もしくはできないでいるひとびとは、新しいテクが開発されると、それらを無条件に受け入れてしまう傾向にある。昨日できなかったことが、今日できるようになれば、できることを、することにほとんど抵抗しない。そして、それはいいことなのだ、につながっていく。例えば、障害者問題の根幹を揺るがす、臓器移植にしても、能力主義差別につながる、出生前診断にしても、それができるようになれば、それをすることはいいことなのだと考えてしまうひとびとが、社会の多数派になりつつある。しかし、ボクたちは、そこで踏みとどまり、できることをすることが、必ずしもひとびとの幸せにつながらないことを、障害者市民運動から学び、知っている。テクによるからだの生理リズムが破綻し、ひとびとの関係性を希薄にして、社会のあり様を歪めてしまことなどなど。ボクたちは、どこかで、できることを、しないという選び方の考えを模索しなければならないだろう。しかしながらテク革新のスピードはいかにも早い。ひととしての倫理・規範の話し合いが追いつかない。その結果、できることをして何が悪いのかという言説が市民権を得てしまう。そして、ひとびとの願いと想いは、粉々になる。それらは、障害の有無に関わりなく進んで行く。それが、いまの時代の風景色ではあるまいか。
 だからこそ、ボクたちの障害者市民解放・にんげん解放の運動が広く、世界と時代、歴史から強く求められているのだ。

 その運動の歴史は、実に多く、多彩なひとびとによって、支えられ、切り開かれてきた。広田君も、確かに、その内のひとりだったことを忘れてはならないだろう。それがどんなにダサク、アナログな行為だとしても、人間は、機械ではないのだから、すき間や冗長、時として、後ろ向きになっても、忘れてはならないことは、記憶に留め続けねばならないのだ。 さようなら、広田君。ありがとう、広田君。  つづく