新・私的「障害者解放運動」放浪史 17

『そよ風のように街に出よう89号』(2016年4月発行)より

●またまたの別れ


 前までの訃報をかいくぐり、いよいよ、結成30周年を迎えた「豊中市国障年市民連絡会議」の歴史に着手しようと身構えているところへ、またまた訃報が飛び込んできた。ボクの住まいする、大阪北部の街・箕面市の職員であった、森田正樹さんが亡くなったのである。享年45才。腎臓癌だった。3年くらい前に発病して、以後、入退院を繰り返してもいた。ファミリィは、お連れ合いさんと、2才と4才の子どもさんがいる。さぞや森田さんは、心を残しただろうなと思うと、涙が溢れた。2011年2月7日、森田さんの告別式が無宗教で、多くの知人、友人が集まる中、行われた。ボクは、その式場の片すみで、沈黙を守り、森田さんと共有した時間の記憶をたぐり寄せることしか出来ないでいた。

 ボクと森田さんの出合いは、多分、1996年頃だったと記憶の声がする。ある日、ボクの友人でもある、視覚障害者で、全国的な障害者解放運動のリーダーでもあったKさんから、「後輩のひとりに、森田というヤツがいて、大学は出たものの、就職先がなく、ブラブラしているんだけど、河野さんの周辺で、面倒を見てくれるところはないだろうか。」と、持ちかけられたのだ。当時のボクは、今現在もそうなのだけれど、障害者問題資料センター・りぼん社を拠点に、そよ風本誌編集長をしながら、自宅のある、箕面市でも、障害者仲間たちと、人権の街作りにも精を出していた。地域運動としては、「箕面国障年市民会議事務局」として走り回り、障害者市民の働く場としての、障害者市民事業所、作業所づくりの只中にいたから、そのKさんいうところの、後輩の森田さんにも力を貸してもらおうと、ウンウンとうなづいたのだった。そして、箕面の街にやって来たのが、視覚障害者の森田正樹さんだった。当時、社会的には、現在と同じような政治状況で、自社さ連立政権の首相、村山さんが、年頭に辞意を表明して、世間を驚かせていた。また映画「男はつらいよ」の俳優・渥美清さんが、夏に亡くなっている。



●もうひとりの視覚障害者のこと



 箕面にやって来た森田さんは、ボクが代表であった豊能障害者労働センターのスタッフとして、働くことになった。当時は、箕面における障害者市民運動の勃興期にあたり、ボクも若かったし、仲間も元気だった(今は、いささか高齢化している気味がある・笑)。森田さんが箕面に来る少し前には、粘り強い行政との交渉の結果、日本における最初の義務教育の普通中学校に、視覚障害者のTさんを、英語教師として送り込むことに成功していた。このTさんは、後年、スゥエーデン、カナダへの留学を果たした後、高槻市の教育センターに転勤し、肝臓病で亡くなられた。誰もが口アングリするほどの酒豪だった。

 このTさんもまたまた、件のKさんの紹介だったなぁと、今思い出した。森田さんは、同じ視覚障害者として、Tさんと急速に接近していった。ある日、Tさんが、森田さんにヒソッと耳打ちしたのだそうである。「あのね、この箕面じゃあ、河野のいうことを聞かないと、やっていけないぞ」と。ボクが最も嫌う人間関係の在り方を諭したのだ。そんなことを森田さんは、隠さずにハッキリと話してくれたりもした。でも、今は亡きTさんに文句をいっても仕方のないことだけれども、Tさんよ、あまりにも、あんまりじゃないかと、呟くしかない。

 森田さんは、日成らずして、このTさんに影響を受けたのか、箕面市職員試験を受けることとなった。またまた、大立ち回りが始まった。森田さんが受験する前後から、ぼくたちのエンジンは全開された。連日、箕面市職員課、健康福祉部に押しかけ、「森田さんを障害者市民の働く代表として、職員採用試験に合格させよ」と、強談判。「落としたら、ただでは済まさない」と、スゴんでみたりもした。そんなことが奏功したのかは不明だけれど、森田さんは、見事に難関を突破して、箕面市職員となった。

 そのボクたちの強談判の矢面にたって、交渉役だったのが、健康福祉部長のNさんだった。現在、箕面市教育長職を退職して、ボクが副会長をしている箕面市人権啓発推進会議の会長をしているのだから、笑うに泣けぬ奇妙な因縁でつながっている。

 森田さんが箕面市の職員になってからは、あまり接触することが無くなっていた。しかし、その流れていた時間のせせらぎの中で、失恋をしたり、結婚をし、ふたりの子どもさんにも恵まれて、彼なりの幸せを組み立てていることを、人伝に聞いてはいた。また、職場を、教育委員会、健康福祉部、人権文化部などと渡り歩き、亡くなる直前までは、人権文化部だった。そしてまた、ヘンな因縁なのだが、森田さんの上司だった健康福祉部長がOさんというひとで、彼が箕面市に就職したペエペエの頃からの、ボクの友人のひとりで、障害者市民運動の一角を担ってもいた。森田さんとは、その関係上、職場でのつき合いだけではなく、個人的にもつき合い、ふたりで温泉巡りなんかを楽しんでいたとのことだった。そのOさんが、森田さんの告別式で、友人代表として弔辞を読んだのだけれど、最後には号泣してしまい、ボクたちは、所構わずなみだの海に溺れたのだった。

 亡くなったから書くのじゃないが、彼は、沢山のひとたちに愛されていたし、また、沢山のひとを愛した存在だった。自分の視覚障害を隠すことなく、ある意味で、障害を武器に、そこから多くのコミニケーションを創り出して、仕事に活かしていたように想う。ボクも、場面は違うけれど、箕面市の人権施策審議会とか、人権教育推進会議などの委員をしていて、その会合のときに、森田さんが事務局の一員として、カチャカチャと点字で記録を取りながら、真剣に意見を述べるのを何度も見ていた。その鮮明な記憶が、今も生きている。ボクと森田さんが出合った時代。やっと障害者市民の就労問題が、人権のこととして、ひとびとの口の端にのぼり始めた頃でもあった。市職員採用に障害者市民が加わるなぞ、砂漠の中で、コップ一杯の水を探すようなもので、珍しい事件でもあった。そのような状況の中で、森田さんは行政職員への扉をこじ開けたのだ。森田さんの就職の後、ボクたちとの交渉の結果、市職員採用に当たっては、まだまだ課題があるけれど、障害者市民別枠採用の仕組みが作られ、最近では、市役所庁舎の中に、障害者職員の姿がチラホラ見られるようにもなってきた。

 森田さんが築き上げた、市役所組織の中での障害者市民就労の実体は、確かに残された。それは、今までにあった、構成概念としての職員採用と拮抗し続けるだろう。「働く場のない、不幸な障害者市民」ではなく、「不幸を作り出している社会の側を問い直す、市役所で働く障害者市民」の存在であったとして。森田さんは、尊厳のある生を生き切った。そして、誰にでもある只の死を迎え入れたのだろう。だから、仲間たちの待つ、伝説の世界に向かったと、ボクは、確信する。しかしながら、ひとつだけ気にかかる場面があった。死に顔の表情が苦痛に見えたのだ。幼い子どもさんたちに想いが残されたのだろうか。



●東日本大震災襲来



 悲しい訃報をなんとかクリアーして、さぁ今度こそ、30周年を迎えた「豊中市国障年市民連絡会議」のことを書こうとしたらば、とんでもない事態が降りかかってきた。こんなことがあるんだと、にんげんの不確かさを思い知らされた。

 20年前の1995年の阪神淡路大震災で経験した事柄の、質、量、空間、事態の深さを、遥かな距離で凌駕する震災の襲来が、それである。読者のみなさんには、すでに耳タコのフレーズであろう、2011年3月11日、東日本大震災が起き、その被害のすさまじさが、全国のひとびとの心を覆い尽くした。ボクはこの事態は尋常ではないと直感した。このような事態の中で、現代史における、大阪府豊中市の障害者市民運動の重要性を認識しつつも、ペンを後ろ向きに振るうのは、いささか、ボクの心構えにとっては、不条理な感が否めない。やはり、目の前、身の回りで起こっていること、現在進行形のありのままの時代を、叶わぬまでも、書き記し他者に手渡す作業が必要なのではないかと愚考して、心ならずも、またまた方向転換する。重要な時代の今とこれからに目を凝らして。

 20年前の時もそうだった。寒い冬空に雪が舞い、被災したひとびとが手をかざすたき火の、鮮やかさと、夜の闇の深さの対比を思い出した。避難所には、ひとが溢れ、ひとびと的矛盾がうず巻いていた。その困難は、ひとつのブレもなく、今回の大震災でも再現されてしまっている。ボクたちが経験した20年前の認識は、新しい姿をして、ひとびとの間にある。否、阪神淡路大震災の時は、地震と火災が多くのひとびとの命を奪ったのだけれど、今回の震災では、地震、大津波、原子力発電所事故がつながり、現在もまだ進行中なのだ。20年前に、被災した障害者市民の救援が、どんどん後回しにされたことから、そうあってはならぬと、たくさんのひとたちの助力を得て立ちあげた「被災障害者支援・ゆめ風基金」の牧口代表理事(ボクが副代表理事のデコボココンビ)と語り合った。自然災害はある。しかし、これほどとはと。

●よくぞ、ゆめ風基金を立ちあげておいたものだ。そのお陰で、救援が準備期間もなく、開始できた。本当のところ、震災直後から、現地の被災状況調査を始め、北海道から、関東にまで広がる沿岸部の被災に直面しつつも、東北3県、福島・宮城・岩手に、被災障害者救援の拠点としての「被災地障害者センター」を短期間に立ちあげることができたし、新潟県には、後方支援拠点も作る事ができた。また、瞬時を置かず、救援金募集のアピールにも取り組むことができ、四苦八苦しつつも、救援金を集め、被災地の救援活動支援として届け続けられている。

●ボクも牧口さんも、その年齢から逆算すれば、当時、牧口さん74才。ボク68才。おたがいに40年以上、この世界に住み続けている、残された人生は、取るに足らないものだろうと、簡単に推測できる。だからこそ、ふたりで固い約束を交わしたのだ。東日本大震災の規模、被災地の広さ、原発事故のありさま、放射能被害と、どこから視ても、どこから語っても、言葉が届かないくらいに、甚大な被害状況がボクたちの行方を遮っている。この現実から考えれば、気の遠くなるくらいの時間と尽力が、「復活」には必要であろうことは、容易に想像できる。この悲惨な状況を少しでも切り開くことが、ボクたちの人生の最後の闘いになるだろう。だから、牧口さんも、ボクも、誠実にこれらの事実に向き合い、お互いに支え合って、ひととしての闘いを、闘い抜こうと。

 とはいえ、ことは、ことほど左様に簡単ではない。複雑な人間模様とか、組織のありようとかがある。煩雑な事柄に身を持てあますこともある。決意だけでは、前に進めないことがあるのだ。馬に年を喰わせ過ぎると、そういうことが判然としてくる。

 だから、ボクたちに出来る事をキチンとやる。出来ない事はハッキリさせて、他者にお願いする。それが今のボクたちの立ち居振る舞いではないだろうか。牧口さんは、飄々とその生き方を実践している。そんな牧口さんを尊敬しているのだが、ボクは、まだまだ生臭くて、青臭いから、救援活動も中途半端になってしまう。まぁしかし、「終の活動領域」がふたりで確認されたのだから、やるしかない。



●初期の東北3県の救援活動からのぞき見えたもの



 大震災発生時は、ちょうど統一地方選挙の最中であり、大阪府豊中市の市会議員選挙には、車イス障害者のIさんが立候補していて、ボクは、選挙対策本部長に祭り上げられていた。選挙戦は、たくさんの障害あり無しの仲間が集合して、暖かくも、結束のある素敵な選挙だった。しかし結果には、わずかに届かず、みんなで涙を飲むことになってしまった。選対本部長の責任と力不足ではあった。一所懸命に闘った仲間には、本当に申し訳ない気持ちではあったけれど、ボクの心の中は、ふたつの想いに分裂していたことも、まぎれない事実で、「選挙」と「救援」がせめぎあっていた。ひとりの人間にできることは限られている。その認識の甘さが、今回の救援活動のなかで露呈してしまったのだった。

 選挙後、ボクの活動は、ゆめ風基金事務所を中心に続けられている。その中から見えた、東北地方のさまざまな文化、風向きがあった。救援初期は、現地から毎日、それこそ津波のように、悲鳴に近い情報が集中した。内閣府の調査によれば、地震や津波で亡くなったひとは、一般市民に比較して、障害者市民は、その倍になるという。
 主な理由と見られるのが、東北における福祉力の低さである。東北における障害者市民施策は、多くの場合、収容型施設であり、地域生活の要である生活支援策は乏しいし、地域生活を支援するヘルパー派遣事業所も極端に少なく、ヘルパー制度を利用する習慣もあまりない。その結果、施設に入所していたひとたちは、震災被害から免れ、入所していないひとは、家族介護に頼る在宅生活を余儀なくされていたようで、だから、沿岸部で暮らしていた障害者市民は、津波に流された可能性が高い。家も家族も流されて、障害者市民の安否確認は、未だに遅々として進んでいなかった。

 そして、最近では、恐ろしいことに、障害者市民にとっては、災害に強い入所施設が必要であり、もっと作るべしの声が高まっているという。これらの動向に対して、被災現地の障害者センターは、必死の努力で、障害者市民の自立した地域生活こそが、ほんとうの意味で、地域防災につながると活動し続ける。

 阪神淡路大震災のときもそうであったように、障害者や高齢者、病人は、避難所では生活ができない。ひどい時には、邪魔になる、あんたたちの来るところではないと排除される。段差だらけの場所、和式トイレしかない場所、匂いと感染症に悩まされる場所、それが現実の避難所の姿だとすれば、あまりにも悲しい。仮設住宅もできているが、障害者用のスロープがある戸数はあまりに少ない。

 今回は、ここまでだが、しばらくは、読者のみなさんとともに、現代史の立会人として、東日本大震災の真実の一面を書き綴るつもりでいる。数々の方向転回をお許しあれ。へろへろと、亡くなった方々の無念に想いを馳せつつ。救援活動を息長く続けつつ。   つづく