風が吹くように、風のように……
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おわりのものがたり・おとなのみなさんへ ―――

             折田 みどり

 人工呼吸器をつけたこどもたちのことを、わたしたちは、ありったけの愛情と親しみを込めて『バクバクっ子』と呼んでいます。バクバクとは、いつでもどこでも、たいせつなこどもたちに、生命をつなぐ呼吸をわたしたちの手で送ってあげられる手動式人工呼吸器(アンビューバッグ)のことで、それを使うとき「バクッ、バクッ」と音がすることから名づけられました。『バクバクっ子』は、呼吸器をつけて生きるこどもたちにピッタリの愛称だと、わたしたちは自負しています。
 この絵本に出てくる、ゆきちゃんや涼のように、呼吸器をつけて暮らすバクバクっ子たちは、現在、全国で2000人以上いると言われています。10年程前、ほとんどのこどもたちは、人工呼吸器をつければ、その一生を病院のベッドの上で四角い白い天井だけを見つめて生きるしかありませんでした。けれども、今では多くのこどもたちが、いろいろな問題はありながらも、呼吸器をつけていても地域でふつうの生活が送れるようになりました。医療技術・医療機器の発達と、どんなに障害が重くても家族と一緒に暮らしたいという、こどもたちの想いが、それを可能にしたのです。そしてその時から、人工呼吸器は病院で生きながらえるための生命維持装置ではなく、それを必要とするこどもたちが、自分自身の人生を、自らエンジョイするための道具のひとつになったのです。
 例えば、わたしたちが愛用のめがねを持ち歩くように、彼らは愛用の人工呼吸器を持ち歩きます。学校へ行ったり、家族で旅行に出かけたり、ともだちと遊んだり、ちょっと買い物に出かけたり…。どんな場面でも、人工呼吸器は彼らの生活をより豊かにしてくれる、とても頼もしい助っ人です。
 ところが、そんな彼ら愛用の道具に、社会の側は往々にして畏怖の念を抱きます。「人工呼吸器などというものは、素人が口だし手だしできない、医療の範疇のものだ。」という、遅れた社会通念のせいでしょうが、そのことは、それを使用するこどもたちへもゆがんだ視線を届けることになります。それは時として、彼らが、「たったひとりのたいせつな人間」として存在するということさえも、忘れさせるほど激しいものであったりするのです。そのたびに、彼らは、「ただ、ともだちと一緒に学校へ通いたい。」という、あまりにもあたりまえの想いにさえ、せつないほど身を焦がし、絶望のふちで心をさざめかせ続けなければならないのです。
 「呼吸器をつけている」、「医療的ケアが必要」というだけで、拒絶の姿勢を示す、学校や社会。その中にあって、それでも、ただ『あたりまえの人間として存在し呼吸しつづけよう』とする彼らを目の前にして、尚その想いを受け取れずにいる大人たち。
 その願いに応えられないでいる、わたしたち大人のふがいなさを恥じるしかないとしたら、わたしたちは、大人としてあまりにも情け無さすぎるし、大人をやっている理由ももはやないというものです。
 「学校が好き、ともだちが好き。」と、バクバクっ子たちの透明な瞳は痛いほどまっすぐに、わたしたちの視線へと光を放ちます。どんな「いのち」とも向き合い、どんな「いのち」も引き受ける責任と役目が、わたしたち大人の側にあることは自明の理です。この世に生まれてきたいのちで、必要のないいのちなど、ひとつもないのですから…。
 わたしたちの未来をつなぐ、たいせつなこどもたちのために、ひとりひとりの大人たちが、ひるむことなく、どんなこどもたちともまっすぐに向き合い、彼らが絶望のふちで涙をこぼさずにすむよう、大人の知恵と勇気でもって行動すること。それこそが、わたしたち大人がやらなければならない、『人権の世紀・21世紀』を創造する営みなのです。
 すべてのこどもたちがひととして愛し、愛され、すべてのこどもたちが、ひととして幸せに生きられるよう、わたしたちのだれもが真剣であらねばならないと想うのです。

(『やったネ』後文より)

 

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