もらったものについて 8

 立岩 真也

 


 

■一九六〇年から七〇年代についてのものすごく乱暴な要約

 前回は震災の関係について少しこちらの活動を紹介した。そう活発にというわけにもいかないのだが、ぼつぼつとやれることを続けてはいる。HPで「生存学」→「東日本大震災」に載せているので、ご覧ください。

 そんなこんなで、行ったり来たりで、書いている本人が自分が書いていることを(どこまでのことを書いたかを)なかば忘れしまっていて、さっきざっとこれまでの見出しなど辿ってみた。そしたら、一つ書いてあることは、「左翼」の運動が、もっと言えばその「左翼」のなかでの対立が、この国の障害運動にけっこう大きな影響を与えているということだった――私が知る限り、そんなことは他の国々には起こらなかったことではないか思う。そして、その対立は、時には泥仕合のようなところもなくはなかったのだが、それだけのことではなく、すくなくともいくらかの意味があったと私は考えているし、それを引き継いで考えることが私(たち)の仕事であるとも思っている。そういうことを言いたくて、昔話のようなこともしたりしてみたのだ。ということで今回は、既に書いたことも多いのだが、半年とか一年も立てば、人はたいがいのことを忘れるからということで、重複を気にしないことにして、すこし「復習」することにしよう。

 まず、日本では、ちゃんとした左翼は共産党に、という時代があった。ただ、(もうとっくになくなってしまった)ソ連、とくにスターリン(の体制)がとんでもであるといった話はかなり前から伝わっていたし、そこらから発せられる、ころころ変わり、またそれではうまくいくはずないと思われる「指令」には従えないという人たちが出てきて、その人は「党」から除名されたりして、いろんな方向に行くのだが、一部は「新左翼」とか(「党」からは「トロツキスト」などど呼ばれる)集団の形成に向かう。

 一九六〇年の安保(日米安全保障条約)反対の時、反対した人たちはとても多様だったが、その中には、こうして共産党から離れた左翼の人たちがおり、そこには「共産主義者同盟(ブント)」たちの一群もいた(「安保ブント」などとも呼ばれる)。結局安保条約は自然承認ということになり、一時期盛り上がった運動は急速に退潮に向かう。ただ、あきらめの悪い人たちはいたわけで、そんな人たちは「次」を狙っていたということがある。そして、その間、様々な「党派」が現われ、並存することになった。そしてそういう人たち(一九六〇年に学生として参加した人たちはだいたい一九三〇年代、そして四〇年代の頭あたりに生まれた人たちだった)とはすこし離れて、いわゆる「団塊の世代」の人たち(戦後、一九四〇年代後半あたりの生まれの人たち)が出てくる。その人たちが、一九六〇年代末から一九七〇年代初頭にかけて、大学他で一騒動起こすことになった(それに肯定的な人たちは「大学闘争」と言い、そうでない人たちは「大学紛争」と言った)。その人たちは、そういう既存の党派に参加したり、あるいはとくにそういうものに所属しない人たちは「全共闘(全学共闘会議)」などと名乗った。それで、その世代は――そういうものに参加した人の数はたかが知れているのだが――「全共闘世代」とも言われる。

 ベトナム戦争が続いていて、日本や(当時はまだ「返還」前だった)沖縄を経由して軍隊や兵器が送り込まれるという状況だった。同じ時期にアメリカでもフランスでも他の国でも「叛乱」が起こった一つは「反戦」だった。さらに、日本の大学闘争は学生の不当処分をきっかけにして始まったところがあり、それは「学問」だとか「研究」だとかを問題にすることになった。また、水俣病などの公害や薬害の問題が――以前からあったのだが――広く認識された時期でもあった。

 派手にやっていたのは「突入」だかとか「占拠」だとかそんなことで、まあそれは、相手の方が力が強いわけだから、結局は潰されることになる。また、「新左翼」の中の様々な党派が「内ゲバ」を始め、激化し、人殺しの類いまで起こることになる。また一部は、武装闘争の方に行く。といっても国内ではそうたいしたこともできないわけで、例えば「日本赤軍」の人たちの中にはは、パレスチナだとか、外国の方に行く人たちもいて、いくつか事件を起こす。それもいくらか人々を驚かせる。

 私自身は一九六〇年の生まれで、一九六〇年のことはまったく知らなかった。一九七〇年前後のこともなんだかよくわからなかった。東京大学の安田講堂というところを占拠した人たちがいて、そこに警察・機動隊が放水やらいろいろやって、その連中を引きずり出したのだが、そのニュース映像にしても、実際にその時に見たのか、後の「再放送」を見たのか定かでない。ただ、「連合赤軍」が警察に追いつめられる中で、人質をとって「浅間山荘」に立て籠もったのを警察が攻囲した「あさま山荘事件」(一九七二年のことであったこと、警察突入時の同時中継の視聴率の各局の合計が八九・七%だったことは、いまウィキペディアで知った)は学校から帰ってテレビをつけたらやっていて、見たのは記憶している。そして、その内部でリンチ、人殺しがなされたことがわかる。

 そういう生臭いことごとが、その運動の退潮にとって決定的だと語る人たちもいる。そうなのかもしれない。そして、共産党系の人たち(その中の若い人たちの組織は「民主青年同盟(民青)」と言った、というか、言う)の人たちは、「改革」を言いながらも――ときに「防衛」のためということで、けっこう自分たちも暴力的であったこともあったのだが――、暴力反対、民主主義を守れ、等々を言って事態の「収拾」の側に立った。

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