証拠は捏造されたのか!? − 野田事件・青山正さん、再審を申し立てる

『そよ風のように街に出よう』87号(2015年1月15日)より

 

 

 2014年7月14日は暑くて長い一日となった。朝9時に新大阪駅を出る新幹線に乗って、常磐線の松戸駅に着いたのが午後0時過ぎ。そこで野田事件再審弁護団の弁護士や支援の人と落ち合い、千葉地方裁判所松戸支部に向かう。駅前の高架広場から直接商業ビルに入り、エレベーターで上に上がって外に出ると、小高い丘の上に作られた松戸中央公園が目の前に広がる。緑豊かな公園脇の道を5分ほど歩くと裁判所に着く。この道はこれまで何度も通った。野田事件裁判を傍聴したり、保管されている証拠品を閲覧したり、裁判所近くの松戸拘置支所に収監されていた青山正さんと面会するために。

 裁判所前の広場には10数人の人だかりがしていて、その中の5、6人は肩にテレビカメラをかついでいる。この日野田事件の再審請求を行うことを事前に知らせていたので、報道各社の記者やカメラマンが弁護団の到着を待っていたのだ。午後1時、主任弁護人の和久田修さんを先頭に4人の弁護士と、枯れ木も山ということで私を含め3人の支援メンバーが隊列を組んで裁判所に入る。その日夜のテレビは「野田の女児殺害 元被告が再審請求」「35年前の女児殺害事件 元服役男性が再審を請求」などと報じたが、裁判がらみのニュースではお決まりのこのシーンは、その後の記者会見の模様と一緒に各局で流された。

 請求手続きを終えて戻ってきた和久田弁護士は、裁判所のロビーで待っていた人たちに「無事、受け付けられました」と報告、すぐに一同は記者会見場の松戸弁護士会館に移動する。介助者と一緒に大阪からこちらに向かった青山さんは、定刻に30分ほど遅れて会見場に現れた。聞くと、朝の出発準備に時間がかかったらしい。事件当時31歳だった彼も去年からは介護保険の利用者である。めっきり体力も落ち、何事にも時間がかかるようになった。

 再審弁護団からの報告の後、司会者に促された青山さんは立ち上がってマイクを握った。
「これから裁判、もう1回やりますから、皆さん、応援お願いします! 以上、終わります」。
 活字にすればそうなるのだが、実際は「やりますから」は「やりまから」、「お願いします」は「おねがます」のように聞こえる。それにしても、以前の青山さんしか知らない者が大勢の記者やテレビカメラを前にこのように自己主張する彼の姿を見たらきっと驚くに違いない。長く付き合ってきた私自身が、少し面食らうほどの落ち着きぶりだった。

事件発生、そして青山さん逮捕

 千葉県野田市の瀬戸地区は、今では分譲住宅が建ち並ぶ東京のベッドタウンになっているが、30数年前は田畑や竹林が広がる中に民家が点在する田園地帯だった。1979年9月11日、そこに住む小学校1年生の女の子が下校時間を大幅に過ぎても帰宅しない。家族から通報を受けた警察官、消防団員、それに地元住民が加わって夜になると捜索はかなり大規模なものになる。そして夜の9時、数人の住民が懐中電灯片手に通学路近くの竹林に足を踏み入れ、その中にある穴を覗きこんだ。以前は井戸だったが、使わなくなったので土で埋めた。その土が長い年月を経るうちに沈んで、当時は1・5mほどの深さになっていた。その穴の底が、新しい土を盛ったように黒くなっている。不審に思った住民が棒で底をつつくと、そこから女の子の左膝が出てきた。

 遺体は全裸で両手両足を紐で縛られ、性的な暴行を受けた跡があった。彼女の衣服やカバンなどの持ち物は周辺から見つからなかった。後の司法解剖によれば、死因は「気道閉塞による窒息死」。口の中に彼女自身のハンカチとパンティが詰め込まれていて、それが原因だった。頭頂部に直径3cmの陥没骨折があったほか、全身に小さな傷があった。

 すぐに捜査本部が立ち上げられ、被害者の遺留品の捜索と周辺の聞き込みが始まった。はじめは何人かの不審人物が捜査線上に浮かんだようだが、捜査の網は早くに青山さんに絞られた。遺体発見現場のすぐ近くに住んでいたこと、彼に知的障害があったことが警察の見込み捜査につながったようだ。2人の警察官が「内偵」と称して連日彼の家に上がりこみ、彼の動静を伺ったが、事件と結びつくような言動もなく証拠も出てこない。捜査は難航するかに見えたが、事件から18日後の9月29日の朝、青山さんは「強制わいせつ致死・死体遺棄」の容疑で逮捕される。

 逮捕の決め手とされたのは、金属粉と油だった。しかし、実は決め手と言うには証拠価値が乏しいということが後の公判で明らかになる。死体発見から1日半経って見つかった被害者の衣服に油や土砂が付着していて、その土砂の中から細かな金属粉が見つかった。青山さんは自宅の玄関に研磨機を置いて、口紅中ぶたのバリ取り(加工した時にできる突起物を削ること)の内職をしていた。その時に出る金属粉が、被害者の衣服に付着していた金属粉と一致したとされた。しかし被害者の衣服から採取された金属粉は土砂や植物片に混じった状態だったし、青山さんの衣服から採取された金属粉は被害者から採取されたものよりかなり大きい。これでは、遺体発見現場周辺の土砂が被害者の衣服に付着したことの証明にはなるかも知れないが、両者が犯行時に直接接触したことの証明にはならない。そしてもう一つ、被害者の衣服に付いていた油が、青山さんの家にあった食用油と成分が酷似していたというのもあやしい。油はどこの家庭にもあるサラダ油だったが、被害者の衣服付着油と対照されたのは、2つの販売店のものを除けば青山宅の油だけだった。明らかに対照資料が不足していて、青山さんを犯人だと決めつけた上で初めて意味をもつ証拠だと言える。しかし、この2つを「決め手」とせざるを得ないほど、青山さんと犯行とを結びつける証拠が不足していたのである。

取調べ、そして起訴

 青山さんは逮捕後数日は否認を続けたが、厳しい追及に耐えられず3日目あたりから自白を始めた。ただ、警察と検察が異なる犯行ストーリーを描いたために自白は大きく変遷し、現場の状況や他の証拠との矛盾も顕著だった。しかし後に裁判官は「知的障害ゆえに細かな変遷はあるが大筋は一貫している」として、任意性も信用性も認めることになる。

 そして逮捕から10日後の10月9日、事件の最大証拠が発見される。被害者の遺留品が発見された際、手提げカバン裏の住所と名前の部分が切り取られていたのだが、青山さんの自白によって、その布片が彼の定期入れから出てきたのだ。これが事実であれば「秘密の暴露」(真犯人しか知り得ないことが、その供述によって明らかにされる)であり、決定的な証拠と言える。しかし、後述するように、そこには警察による証拠ねつ造の痕跡が色濃く残っていた。

 千葉地方検察庁は、青山さんに責任能力や訴訟能力があるかどうかを判断するため、中田修東京医科歯科大学教授(当時)に精神鑑定を依頼した。中田氏は、公判前、つまり有罪か無罪かが裁判で争われる前であるにもかかわらず、鑑定書に次のように書いている。

「(被疑者は)面接の最初から馴々しく、好機嫌で、後に見るように、非常に幼稚で制限された応答しかできないが、質問にはすらすら答え、一部の取調べ時の録音テープで知られるような、あまり答えないような状況は全く見られなかった。すでに充分に自白しているので安心した心境にあるためらしい」。

 鑑定では、少女の水着写真や外国人女性の舞踏写真など4枚の写真を並べて「どれがよいか」と青山さんに尋ねるという実験を行っている。そして彼が成人より少女の方が「よい」「かわいい」と答えたことをもって幼児性愛(ペドフィリー)だと決めつけるのだが、そこに性的な意味合いを貼り付けるのはどう考えても無理がある。鑑定の結論部分では、肝心の責任能力や訴訟能力については「法家の判断にまかせたい」などと曖昧に答える一方で、今後の措置として「手術的去勢または薬物去勢が有効」だと断じている。総じて到底科学的とは言えないものだったが、時の権威によるこの鑑定は検察官を起訴に踏み切らせただけでなく、後の一、二審裁判官が有罪心証を形成するのに大きな影響を与えた。

有罪判決、そして証拠

 千葉地裁松戸支部で1980年1月に始まった一審は、87年1月、懲役12年の有罪判決で終了した。それまで大筋では自白を維持しながら時々否認の言葉を発していた青山さんだったが、一審の最終段階になって「本当はやってない」と否認に転じた。そのため公判が再開されて本人尋問が行われたが、裁判官は結局「犯罪の証明に欠けるところはない」として有罪判決を言い渡したのである。続く89年9月の東京高裁控訴棄却判決、93年12月の最高裁上告棄却決定で青山さんの有罪が確定した。

 一、二審の判決文には、証拠を都合よく解釈したり、知的障害者への偏見をあらわにしている部分が見られる。一例をあげると、二審判決は、彼が持っていたとされる新聞の切り抜き(写真)が「被告人のように性的関心が児性愛の段階にある精神発達遅滞者にとっては、性的刺激となり得ることは経験則に照らし新聞切り抜きて明らか」だと言う。そしてその切り抜きを「幼女の裸体写真」と表現するのだが、写真を見れば一目瞭然で、それは女の子が男の子にシャワーをかけている写真が右端に載った簡易シャワーの宣伝広告である。それをあたかも写真部分だけを持っていたかのように言うのは明らかな歪曲だ。そして裁判官は「性的刺激となり得ることは経験則に照らして明らか」だと言うのだが、その「経験則」は自らの知的障害者に対する無知や偏見を言い換えたに過ぎないのではないかと思う。

 ではそのような裁判官の予断や偏見を離れて、青山さんの有罪を支えた証拠にはどのようなものがあるか。まず直接証拠として自白があるが、前述したように至る所で他の証拠とと矛盾し、捜査側の都合によるとしか考えられない変遷を繰り返していた。自白が一応完成した段階で、青山さんは竹林に連れて行かれて犯行を“再現”し、それをビデオに収められている。それを観ると、青山さんがいろいろな場面で自白通りに犯行を“再現”することができなかっただけでなく、被害者が反抗や逃亡の素振りをまったく見せず、時には犯人に協力して自分のカバンを古井戸跡まで運んだりしている。まったく現実性に乏しい自白=犯行ストーリーだった。逮捕の決め手とされた金属粉や食用油の証拠価値が低いことも前述した。その他、被害者の手足を縛っていた紐、体内から見つかった乾電池などの証拠があるが、いずれも青山さんが犯人だとしても矛盾はないという程度の証拠に過ぎない。

 そして指紋の問題がある。死体発見現場周辺からは多くの指紋・足跡が採取されたが、青山さんのものは一つもなかった。現場の状況を考えれば鮮明な足跡が出なかったとしても不思議ではないが、指紋が出なかったのはおかしい。自白では終始素手で犯行を行ったことになっているし、逮捕時の家宅捜索でも彼の家から手袋らしきものは見つからなかった。それに青山さんは幼児の股関節脱臼の影響で足に障害がある。そのせいで犯行“再現”ビデオでは、穴を取り囲むように密生している竹につかまらないと穴の上り下りできなかった。周囲の竹からは18個の指紋が採取されたにもかかわらず、彼がそこにまったく指紋を残さなかったというのは考えにくい。これは明らかに無罪方向の証拠だと言える。しかし恐らく最初から有罪心証を強く持っていただろう裁判官が、こうした不都合な証拠に目を向けることはなかった。

 ただ、いかにその心証が強くても、さすがに以上のような証拠だけで青山さんを有罪にするのは難しい。そのことは裁判が始まるずい分前の段階で、捜査本部も十分認識していただろう。そして前述したように、青山さん逮捕の10日後、決定的な証拠が出てくる。それがネーム片である。

最大証拠の出現、そして疑惑

 被害者の衣服やカバンが見つかったのは事件の2日後の朝で、死体が発見された古井戸跡からわずか18mの草むらだった。その前日にはすぐ近くで足跡が採取されている。だから二審判決も「何者かが後日そこに投棄したのではないかとの疑いさえも、生じないわけではない」と言わざるを得なかった。紙幅に限りがあるのでその点はこれ以上触れないが、発見時、カバン裏の被害者の住所と名前が書かれた部分(ネーム片)が切り取られていた。発見後すぐに呼び出された被害者の父親が確認しているから、それは間違いない。当然、このネーム片の発見に捜査の主力が注がれる。

 9月29日に青山さんが逮捕された時の捜索差押調書には、「捜索の目的たる人又は捜索差押の目的たる物」の筆頭に「被害者の鞄から切り取った布片」と書かれている。その日、捜索は朝から夕方まで及び、汲み取り式便所の便槽までさらうという徹底ぶりだった。そして逮捕時に青山さんが履いていたズボンのポケットから「トランジスターラヂオ1台(紐、鎖、鍵付、二つ折財布、定期入れをガムテープで巻いてある物付)」も押収された。他の押収物を見ても、何かが隠されている可能性があるのはこの財布や定期入れしかない。しかし、この定期入れからネーム片が出てくるのは、青山さんの逮捕から10日後の10月9日。それまで警察官は定期入れの中を一度も確認しなかったというのである。

 それだけではない。青山さんの供述の任意性を担保するために取調べは録音テープに収められ、その一部が開示されている。それを聴くと、10月9日の午前、ネーム片のありかを追及された青山さんが「黒いのでよう…」と定期入れのことを言い出している。取調官はその中を確認するために部屋を出る。そしてしばらくして戻ってきた取調官は、はっきりと「見てもらったけど何も入っていなかった」と言っている。しかし午後になって、その定期入れからネーム片が出てくるのである。しかも写真撮影の準備までして、青山さんに定期入れを開披させている。

 一審公判では、証拠品保管係の警察官が「その日午前と午後の2度、取調官に定期入れを貸し出した」と証言したが、裁判官は「1度しか借り出していない」という取調官の証言の方を採用して「証拠品保管係の記憶違い」と決めつけた。それどころか、「むしろその(二人の証言が食い違う)こと自体、捜査機関の証拠工作などのなかったことを窺わしめる」とまで言って検察官の肩を持っている。
 ネーム片についてはこの他にも、遺留品の発見状況を記録した写真がとても不鮮明な2枚しか開示されていない、10月9日、野田署1階の証拠品保管場所から2階の取調室に定期入れを持ってくるのに「1、2時間はかかる」と取調官が青山さんに言っているなど、不審なところが多い。ひょっとしたら最大の有罪証拠が青山さんの無実を語っているのではないかと弁護団が考えたのは自然な流れである。

カバンすり替え説、そして鑑定

 以上のようなネーム片にまつわる多くの疑惑を、どうすれば合理的に説明できるか。弁護団は3つの仮説を立てた。@被害者のカバンと材質が同じカバンを入手し、実際の切り口と一致するようにネーム片を切り取って定期入れに入れた。Aどこか別の場所から発見されたネーム片を定期入れに入れた。B被害者のカバンを別のカバンとすり替え、そのカバンからネーム片を切り取って定期入れに入れた。まず@は、切り口を完全に一致させることが難しいという理由で除外した。残る2つはどちらも可能性がある。では、証明しやすいのはどちらか。Aはネーム片の発見者が名乗り出たり、捜査官自身が告白しない限り証明は難しい。しかしBは、被害者が実際に持っていたカバンと証拠品のカバンを比べれば証明できるかも知れない。そこで弁護団はBのカバンすり替え説
に基づいて専門家に鑑定を依頼することにした。

 しかし、問題があった。被害者の遺留品が発見された時、現場で撮った写真が開示されていないのだ。いや、実際は2枚だけ、草の葉に隠れてカバンの赤い色や体操服の白い色がやっと確認できるような写真が証拠として提出されている。なぜかそんな写真しか証拠として出されてない。でも確か、被害者の遺留品が発見された翌日(9月14日)の新聞朝刊に、その遺留品の写真が掲載されていた。そこで弁護団は新聞社やテレビ局に協力を求めて、その写真を探した。そして見つかったのが下の写真右である。これは警察が発見直後の遺留品をポラロイドカメラで撮影して、記者会見時に掲示したものを報道各社が接写したものだ。ボケているが、他に被害者が実際に持っていたカバンの写真はない。この写真のカバンと証拠品のカバン(写真左)を比べるしかない。2つのカバン

 2枚の写真をカバン製造会社の担当者や写真家に比較してもらい、カバン中央部の中ぶたボタン、イラスト下の商標登録の文字、カバン底部の角の形などが異なり、2つのカバンは別物だという意見書を作成した。また別の写真専門家からは、2つのカバン写真を透明シート上にプリントして重ね合わせ、カバンの外枠を一致させるとイラストや中ぶたボタンの位置が異なるという鑑定結果を得た。以上の新証拠は、1992年に上告趣意書の補充書として提出された。しかし翌93年12月、最高裁は、カバンすり替え説をはじめとする弁護団の主張にまったく言及することなく門前払いの棄却決定を出し、青山さんの有罪が確定した。

再審請求へ

 その上告棄却決定から再審請求まで、20年と7か月という時間がかかった。いろいろな理由が考えられる。母を亡くしきょうだいとの関係も断ち切られた青山さんには、雪冤よりも一刻も早く事件や裁判のことを忘れたいという思いが強かったと思う。弁護人と支援者が集まった会議の席で彼が両手で大きな丸を描いて再審請求の意思を表明したのは、上告棄却から10年後だった。そして、彼に知的障害があったことは捜査や裁判を歪めただけでなく、弁護や支援の質にも影響したと言える。一般的に冤罪事件は、その当事者が「やっていない!」と叫び声を発し続けてはじめて周りが動く。しかし青山さんはぼそりと「本当は殺したんじゃねえもの」とつぶやくことがあっても、必死に無実を訴え続けることはなかった。それがつまり「野田事件」なのだ。

 さて、今回の再審請求書の中身を詳しく紹介する余裕がなくなった。弁護団は3つの新証拠を提出した。自白の信用性を否定する法医学の内藤道興鑑定、文中で紹介した指紋の不存在に関する齋藤保鑑定、そしてカバンすり替え説を補強する宮崎大輔鑑定である。最後の宮崎鑑定は2つのカバンの中ぶたボタンに注目し、光の反射具合からボタンの相関係数(類似性の度合いを示す数値)をコンピュータで算出したものだ。やや専門的なため、裁判官がきちんと理解できるかどうかだ。

 今後さらに弁護団は青山さんの供述鑑定を提出する予定で、闘いの場は裁判官、検察官との三者協議に移る。そこで検察からどれだけの証拠を開示させることができるかが、再審請求審の帰趨を握っている。2011年に再審無罪となった布川事件、14年に再審開始決定が出た袴田事件など、再審請求審で証拠が開示され、それが再審開始につながるケースが相次いでいる。野田事件の場合も、本来存在するはずの証拠、特に発見直後の被害者のカバン写真をはじめとする捜査の初期段階の証拠を開示させない限り、証拠ねつ造=すり替え説をさらに補強することは難しい。再審請求を機に拡充された弁護団の奮闘に期待したい。

 

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