野田事件とは


 野田事件とは、どのような事件だったのでしょうか。なぜ、青山さんは逮捕され、有罪判決を受けたのでしょうか。まずは、事件とその後の裁判の経過を追ってみたいと思います。

事件発生

 1979年9月11日、千葉県野田市で小学校1年生の女の子が下校途中に行方不明となり、捜索の結果、その夜9時ごろ、竹林の古井戸跡の穴の中で両手足を縛られ全裸で埋められているのが発見されました。
 遺体解剖の結果、死因は「気道閉塞による窒息死」。死亡時刻は、胃の内容物から食後1時間ないし1時間半と推定され、その日の給食が12時半から1時ごろですから、死亡時刻は2時から2時半ごろとなります。また、口の中には、本人のハンカチとパンティが詰め込まれており、頭頂部には直径3cmの陥没骨折があり、さらに膣内と肛門内にかなりの裂傷が認められました。

捜査から逮捕へ

 野田警察署は、事件発生翌日から遺体発見現場の近くに住む青山正さんに目を付け、連日家に上がりこみ、内偵を行いました。また一方、マスコミ各社は、遺体発見の翌日から新聞の1面の見出しに『変質者の犯行』とすでに差別的な文言を躍らせています。こうしたなかで、近隣の住民も知的障害者である青山正さんに疑いの眼を向けるようになるのです。そして、住民のなかで、「青山さんならやりかねない」といううわさが飛び交うようになり、青山さんが犯人だという空気が充満するようになってしまうのです。そして、ついに事件から18日後の9月29日朝、「強制わいせつ致死・死体遺棄」の容疑で青山さんは逮捕されてしまいます。しかし、この逮捕された段階では、まだ青山さんと事件を直接結びつけるような証拠は見つかっていなかったのです。

取調べ

 青山さんは、逮捕されてから3日間は容疑を否認しています。しかし、その後徐々に捜査官に聞かれたことを部分的に答えていくようになります。10日余りにわたった警察と検察の取調べで、ようやく自白らしきものが完成しました。しかし、その内容は、現場の状況と異なっていたり、日ごとに内容が変わってしまったりと多くの矛盾を残したものでした。取調べの状況を録音していたテープからは、青山さんが捜査官に詰問されて答えに困っている様子や、ようやく青山さんが答えても、捜査官が抱いている犯行ストーリーと異なれば再度詰問されるといった様子がうかがえます。
 このような取調べの中で、重要な証拠が発見されています。逮捕から10日後のことでした。被害者の遺留品が発見された際、被害者のカバンの名前を書いた部分(ネーム片)が切り取られていたのです。警察は、そのネーム片を青山さんが持っているものと考えて追及を続けました。その結果、青山さんの供述によって、青山さんの定期入れの中から発見されたのです。このことが本当なら、決定的な証拠です。しかし、その発見過程でも供述が二転三転するなど疑問だらけの発見でした。

精神鑑定から起訴へ

 そして、自白も一応完成した後、千葉地方検察庁は、青山さんの責任能力と訴訟能力の有無を判断するため、中田修教授(当時東京医科歯科大学)に精神鑑定を依頼しました。もしその能力がないと判断されれば、公訴棄却となってしまうからです。鑑定は、2ヶ月にも及ぶものでしたが、面接は4回しか行われていませんさらに、中田教授は、裁判がまだ始まっていないにもかかわらず、青山さんが犯人であることを前提に鑑定を行い、その鑑定書は予断と偏見に満ち溢れた内容でした。そして、1979年12月15日、青山さんは起訴されます。

裁判・第一審

 1980年1月28日、千葉地方裁判所にて第一審が開始されました。裁判が開始された当初、争点となったのは青山さんに責任能力・訴訟能力はあるのかということでした。検察側は、先の中田教授を証人に立て、訴訟能力はあると主張し、一方弁護側は、西山詮医師(当時墨東病院)の鑑定に基づき、訴訟能力なしと主張しますが、裁判所は、判断保留の決定をし、審理を強行しました。そして、いよいよ青山さんが法廷で初めて証言する段となりました。検察官はあの手この手で青山さんに質問をしますが、なかなか要領を得ない青山さんの答えが続きます。しかし、取調べの時、いつも繰り返されていた質問が始まると、青山さんは徐々に犯行を認めるような証言を始めたのです。検察官はこれ見よがしに、犯行の全体像を質問し終わると、青山さんに改悛の情を求める質問を始めました。つまり、反省を促すような質問です。すると、それまでずっと犯行を認めてきた青山さんが「本当は僕、殺したんじゃねえもの」と答えたのです。これは、青山さんが公の場で初めて犯行を否認した言葉です。しかし、その否認は誰にも注目されませんでした。そして、第一審もいよいよ結審しようかというころ、青山さんはようやくはっきりと犯行を否認するようになりました。そして、急きょ本人質問が行われたのです。しかし、法廷の場での青山さんの否認の言葉は、裁判所には届かず、1987年1月26日、懲役12年の有罪判決が下されたのです。

裁判・控訴審と最高裁

 青山さんの無実を確信していた弁護団は、東京高等裁判所に控訴します。しかし、東京高裁は、被告人尋問を2回行っただけで、弁護側が申請した証人や証拠をほとんど却下し、異様なスピードで審理を進めました。このような裁判所の訴訟指揮に対して、弁護団は抗議の総辞任をしました。その後、新弁護団を結成し、無罪主張の最終弁論を行いましたが、1989年9月6日、東京高等裁判所は控訴棄却の判決を下したのです。
 この判決に対して、弁護団は最高裁判所に上告し五度にわたって、上告趣意書、上告趣意補充書を提出しました。中でも、重要な物証である被害者のカバンが、警察によってすり替えられ、証拠がねつ造された事実を強く主張しました。しかし、1993年12月20日、最高裁判所も上告を棄却し、懲役12年が確定してしまいました。

 

 

ホームページへ