きたぐちのくち

−ある言語障害者のつぶやき

北口 幸男 著

 

ほろ苦さと抱腹絶倒が「くち」からほとばしる。      by  牧口 一二


 いま北口幸男は旬である。現在50歳、脳性まひ者で車いすを駆使しつつ言葉が出
ないので会話補助装置(トーキングエイド)を携えて街をゆく。所属は「おおさか行
動する障害者応援センター」(略称:応援センター)。

 なぜか応援センターには言語障害者が多い。それも代表、事務局長はもとより、
リーダー的存在のツワモノのほとんどが言語障害を誇っている。ゆえに理事会をはじ
め様々な会合は時間がかかること、かかること。それでも言語障害者たちは「思いの
10分の1も話せなかっただろうな」と、出しゃばりで早口なボクなどは反省しきり
なのだが、会議中はついわれ先にしゃべって、また反省。

 そんな後ろめたさもあって、ある日ある時、北口さんに「日頃の無念なやりきれな
い思いを一字一字パソコンに叩きつけて、うっぷん晴らしをしてみないか」と、声を
かけた。それからじいーっと待つこと8年、彼から「できた!」と連絡が入った。

 さっそく読んでみて驚いた。つね日頃の会話に機械を使っている彼の言葉、「話
す」と「書く」はやっぱり違って文章を綴るのに時を要しただろうな、というボクの
想いを粉砕するごとく、ほろ苦くもあり笑い転げるエッセイが並んでいた。おいお
い、グサッとくるうっぷん晴らしはどこに? さぁ〜てお立会い!

     



前書きにかえて

 

  “障害者”に“健常者”……この世にいろんな区切りはあるけれど、どうあがいたって“私は私”……。

 脳性麻痺という障害を抱いて生まれ、いわゆる“障害者”として生きてきました。私に障害があるのだろうか、それとも周りに障害があるのだろうか…、悩みに悩んだ四十数年間。筋肉の硬直も、言葉がでにくいことも、二本足で立って走りまわれないことすらも、いつしか、私の日常となっていたのです。あらためて“障害者”だと意識することなんてほとんどない今日この頃。不思議に思われるかもしれませんが、四十数年という長い時間にあった多くのいろんな経験が、“私は私”であると思える今に、導いてくれたのでした。

 初めて自分と周りの子どもとの間に違いを感じたとき、あれ?と不思議に思ったのを憶えています。みんながかけっこをやりだした時、養護学校への進学を言われた時、大学で自分の思いを言葉で伝えられなかった時など、なにか新しいことが始まる度に、自分が“障害者”であることを感じていたように思います。けれど、そんな経験を繰り返しながら、いつしかこれが普通、これが私になってきたのです。まあ、言ってしまえば一種の慣れ。

 私と初めて出会った人は、まず車いすに乗った私の姿に戸惑い、筋肉の硬直による独特な動きにあっけにとられ、会話補助装置(キーボードで文を作成し、それが音声となる機械。通称「トーキングエイド」、もしくは「北口の口」)から抑揚の無い言葉が発せられた時には、もう既に目が宙を泳いでいる…。それでも二度、三度と出会いが重なるごとに、相手の反応が自然なものへと近づいてくるのです。一年、五年、十年越しの付き合いともなれば、車いすもトーキングエイドも持たない私は、私でないと言われるほどになるのです。

 誰もが違った“私流のやり方”を持っているように、周囲からみれば障害とされるようなことですら、しっくりと馴染んだ“私流”。

 約五十年間の一つひとつが重なり合って、人としての幅ができたような、できていないような……。 まあ、こんなことは死ぬ間際まで分からないままでいたいもの。とは言うものの、ただ、“私は私”へのつながりとして、これまでの一つひとつの経験を振り返ってみようと思います。
(本文より)

 

 


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著者紹介

きたぐちゆきお

1960年、大阪生まれ。
脳性マヒによる肢体不自由と重度の言語障害をもつ。
堺養護学校を経て、1982年3月近畿大学短期大学部商経科卒。
その後、カフェに勤務したのち、おおさか行動する障害者応援センターの活動に共鳴して事務局員となり、事務局長、代表を歴任する。
障害者施策に詳しく、特に交通、まちづくりの分野に力を注いでおり、マニアックなまでに磨きがかかっている。
現在は、応援センター事務局員、障大連運営委員(交通担当)、アクセス21主宰。大阪市交通局バリアフリー委員会モニター部会委員。

 

 

 


 

 

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