4人放談 こんな大人になっちゃった……

こどもとおとなの明日のための教科書

 


主なテーマ

てれび・さわらぬ神にたたりなし
むかしのこども
つれあい・ぶんか・かんがえかた
しごと・おいたち
いまどきのこども
良いこと、悪いことのあいだ
人間が好き? 嫌い?
愛、そして男と女
やっぱり人間はわからない

 


 

座談の後に
山田 太一


 反省としては、しゃべりすぎたと思っています。聞き役に回ろうと思ったのに、雰囲気のせいにする気はありませんが、とても気分のいい人たちの仲間に入れて貰って、自分のつまらないことをしゃべりすぎました。いい訳けをすれば、法律で認める身障者である長谷川さん牧口さんの現実はしゃべって貰うけれど、自分の現実は口にしないというのも差別的なことだという気持ちになって来たのです。

 しかし、どうも弾丸を沢山撃ったのに、的の中心に当っていないというもどかしさが残りました。常識の域を出なかったのではないか?

 無論常識は大切です。

 しかし、身障者の現実に対して、常識が無力であったり、逆に変革をこばむものとして作用することも多いわけです。

 以前私がドラマのテーマにした「他人に迷惑をかけない」という世間の常識が、いかに身障者を外へ出にくくさせているかというような現実。それをくつがえすには「ぎりぎりの迷惑はかけてもいい」というような反常識(というのも少し大袈裟かもしれませんが、実行すれば相当抵抗のあることですから)で武装しなければならないというようなことを考えると、もっと反常識的発言が出来なかったか、と頭の弱さを恥じています。心の狭さかもしれません。

 長谷川さんには、いろいろ驚きました。テレビを見るということは知っていましたが、色紙も書いてしまうし、電話番号もすごいし、女性にはもてるし、私の方が余程障害を持っていると思いました。

 「でもね」と長谷川さんはいいました。「でも、やっぱり見えないんです」

 そういう言葉には、凡庸ないい方ですが胸をうたれました。

 牧口さんの、小学校時代の思い出も凄絶で、しかもそれをそれほどには思っていらっしゃらなかったということにも沢山教えられるものがありました。なんでも意識化すればいいというものではない、という気がいたしました。

 小室さんの御人柄については、前から感銘を受けておりましたが、益々仏さまのような味が加わって、長谷川さんと話している時の口調など、とてもいいなあ、と思っていました。山の手の育ちのいい人なのかな、と想像していましたが、小さな頃のお話はとても教えられるところがありました。こういう人格をつくるのは山の手や知識階級ではなく、むしろ下町共同体や叔父さんという別の価値観なのだと、私も下町うまれですから、いささか手前味噌になりますが、郷土自慢をしたい気持ちになります。

 座談が終って「そよ風のように街に出よう」の編集をしてらっしゃる河野秀忠さんが「なんやちょっと若々しさのない会話になってしもうたなあ」と溜息をついておられましたが、五十三歳で若々しいというのは欠点かもしれません。過激な座談は、もっと年齢的にも若い人にやって貰い、セットにするとなにかが見えて来ないかと思いました。個人としても、いまどんな過激さ若々しさが身障者にとって可能か、を聞きたい思いがしています。

(略)

 悪をなすにしても善をなすにしても、ただ生きるにしても、複雑に人々と関わらずにはいられない時代に、他者の現実に無関心だということは、自分に対する無関心でもあると思います。

 身障者の方々の現実に限らず、少しでも多くの人の現実を生き生きと感じること、そして出来るだけその人の身になること、そういうことが可能な人間になりたいと願っています。

(以下本文へ)


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