真 空 地 帯

― 女性「障害者」渾身(こんしん)奮闘記

宮本 洋子 著

 




 私は、「旭川荘(肢体不自由児施設)に行ったら足が治るよ」と周囲の大人たちから言われ、喜んで施設に入った。一度にたくさんの友だちができ、また、車いすにも初めて乗った。「車いすに乗ったら、自分の行きたいところへ自由に行ける」とはしゃいでいた。施設に預けられた子どもは、みんな「家に帰りたい」と泣いていたのに、私は「足が治る」ことを信じていたから、キャーキャーと笑っていた。だから周囲の人たちに「こんな子は初めてだ」と珍しがられた。同い年のえみこと友だちになり、二人で池の中に入って鯉をつかまえて、ビショぬれになって遊んだりした。えみこも私と同じポリオ(脊髄性小児マヒ)で、両下肢が不自由だった。

 施設に入った当の本人である私は、毎日楽しく過ごしていたが、施設に入れた母親の方は、「ようこがさびしくて泣いているのでは」と心配した。幼い娘と別れて暮らすことになって、母親の方こそさびしかったのだろう。そこで、「靴を持たせていなかったから」という口実で、自宅からバスを三回乗りついで、県南の玉野市から片道三時間かけて私に会いに来た。ところが私は、先生(私たちは寮母さんをこう呼んでいた)に、
 「ようこちゃん、お母さんが靴を持って来てくれたよ」
と言われても、
 「今、えみちゃんと遊んでいるから、預かっておいて」
と返事をして、ケロリとしていた。母親はガックリと肩を落とし、また三時間かけて玉野市に帰って行った。今から思えば、親の心、子知らずだった。

 毎日、えみこと楽しく遊んでいたが、私の足は一向によくならない。不思議に思い、先生に尋ねてみた。
 「私の足は、いつになったら治るの」。
 すると先生は、
 「ようこちゃんの足は、もう治らないのよ。車いすに乗るか、補装具をつけて松葉づえを使って歩くかのどちらかよ」
と言った。ガーンと雷に打たれたようなショックを受けた。私は周囲の大人たちにウソをつかれていたのだ。悔しくて、施設に入って初めて泣いた。そして、
 「みんなウソをついた。家に帰りたい。もう、家に帰るまでご飯を食べない」
と、ハンガーストライキに入った。何せまだ小学校一年生だ。もちろん、「ハンガーストライキ」という言葉も意味も知らなかった。私は、六畳ほどの小さな図書室に立てこもった。何も食べず飲まず、一人で泣きながら本を読んだ。
 次の日の朝、ほほに涙の跡を残している私に、先生がおにぎりを二個持ってきてくれた。そのおにぎりをむさぼるように食べた。少女の怒りは、空腹に歯が立たなかったのだ。こうして、私のささやかな一日間のハンガーストライキは幕をとじた。 (本文より)

 


 

 この文章を書き始めた最初のころは、ある市が主催する「自分史文学賞」に応募してみようと思っていた。だが、前年の大賞作品を読んでみて、やめた。吃音の作者が、“障害を克服して”明るく生きていくという内容のものだったのだ。
 「さすが行政主催の賞だな。相変わらず、健常者が抱く理想の障害者像だな」
と思った。
 人間の歴史に明暗があるとすれば、私は暗の部分、それも深い闇の部分を書こうとしている。当初の予定で「自分史」という形態をとったが、
 「今、私が書いておかなければ、すべてが闇から闇へと葬られてしまう」
というせっぱ詰まった気持ちで書いた。幼くして亡くなってしまった何人もの障害者の無念さを、書き残しておきたかった。私の表現力が、その気持ちに追いつかないのが自分でもわかって、書きながら何度もはがゆい思いをした。
 「人が宇宙に行く時代に階段が」という活字を雑誌で見た。これだけ科学が発達している時代に、街にあふれる階段が障害者の行く手をはばんでいる。まるで障害者だけがポツリと、とり残されているようだ。さまざまな福祉制度ができてきたが、依然、障害者は「かわいそうな人」として扱われ、施設に隔離収容され続けている。あまり外に出てこない(出て行けない?)ちっぽけな存在だから、街の姿はほとんど変わらない。障害者は社会に翻弄されている。車いすの一級建築士がいればいいのだが、養護学校からは絶対と言っていいほど無理だ。こんな理不尽なことがあっていいのだろうか。私の怒りはおさまらない。だから書くのだ。今後も「障害者」にこだわり続けたい。 (「あとがき」より)

 

 

 

著者紹介

みやもとようこ

1956年、岡山県玉野市に生まれる。
1才3ヶ月の時ポリオ(脊髄性小児マヒ)に罹患。
6才で肢体不自由児施設旭川療育園に入所。
以後、養護学校高等部卒業まで施設生活を送る。
四国学院大学英文科を卒業後、岡山市役所勤務。
2010年3月退職。


 

 

ホームページへ