鳥にしあらねば 100

 

『殺したんじゃねえもの 361』(2017年9月発行)より

 『そよ風のように街に出よう』編集長の河野(かわの)秀忠が逝った。彼の息子さんから携帯にメールが入ったのは9月8日の朝7時前。「今は安定していますので安心してほしいですが一時危険でしたので報告します。今朝4時半頃、父の血圧(上)が30台まで下がり、病院から緊急呼び出しを受けました。呼吸も一時弱くなったとのことで心配していましたが、今は安定しています」。心が騒ぐ。「ご連絡ありがとうございます。すぐに駆けつけたいですが、昨夜から今日の夕方まで奈良の梅谷さんの所です。また連絡します」。普通学校への就学闘争で全国に名を馳せた知的障害の梅谷尚司さんは、奈良北部の山あいでお母さんと暮らしていて、私は月に2回泊まり介護に入っている。彼の目に触れないように布団を頭からかぶってガラケーのボタンをポチョポチョと押した。代わりの介護者が見つかるかな、などと思案しているところに折り返しメールが届いた。「今は兄弟で見守っており、血圧も平常値近くに戻って安定しています。駆けつけ等は不要です」。

 胸のざわめきが少しおさまったのもつかの間、昼過ぎに息子さんから電話がかかってきた。「父が亡くなりました。いったん家に戻ったところに病院から電話があって、私も弟も間に合いませんでした」。半月先の75才の誕生日を迎えることはできなかった。

 昨年6月に自宅で転倒して前頭部を強打し、一時は生命すら危ぶまれる状態だった。その後部分的ではあるが意識を取り戻し、リハビリ専門病院に移ってからは自分でミキサー食を口に運んだり、車いすの乗り降りもできるようになっていた。編集メンバー宛ての当時のメールに私はこんな河野との会話を記している。

私「最近、歩く練習してるの?」
彼「してない」
私「えっ? してるって聞いたよ」
彼「ヤスコさんは、ちょっと歩いてる」
私「ヤスコさんって、連れ合いの?」
彼「そう。ちょっとだけ歩いてる」

 保子さんは、この会話の9年前にガンで亡くなっている。恐らくその時、彼の意識の中には闘病中の妻の姿があったのだと思う。認知症のおじいちゃんとして、これから地域でどうやって生きていくか、私はそんな相談を友人たちと始めていた。

 しかし今年の初夏に入って急激に状態が悪化し、意識混濁状態に陥った。酸素マスクをつけ、中心静脈栄養の点滴を受けながら必死で呼吸を続ける姿からは、生きようとする強い意志を受け取ったのだが、かつて障害者解放運動の中で示したその強靭な意志も病を撃退することはできなかった。

 ここまで筆を進めて、私が河野について書いたりしゃべったりする時、彼に敬称を付けたことがないのに気づいた。例外は彼の息子さんの前だけで、その時は「お父さんはね…」という具合になる。編集メンバーへのメールでも「今日、編集部のマキさんと西村さんと3人で河野を見舞ってきました」となる。これはつまり、彼の家族を除けば私は彼にもっとも近しい人間(の一人)ということではないか。40年以上一緒に活動してきたんだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、そのことに今気づいて、急に寂寞感に襲われた。河野とは時に確執もあったが、それでもやはり同じ志を持つ大切な先達であり友人であった。

 9月14日の朝日新聞「天声人語」氏が河野の死を悼み「在野の哲学者」と称えるのを読んで、私は『ツァラトゥストラはかく語りき』を連想した。河野は箴言(しんげん)の人であった。短いが、人を動かす言葉を知っていた。そうして極貧を乗り越え、荒れ野に踏み込み、道をひらいて先頭を走り切った。「河野は死んだ!」と、ニーチェとは逆の思いを込めてニーチェのように叫ぼうか。