鳥にしあらねば 101

 

『殺したんじゃねえもの 362』(2017年10月発行)より

  今さら何でそんな解りきったことを言うんだと叱られそうだが、私は古い人間である。ジャズが好きで、電車ではたいてい携帯プレーヤーでジャズを聴きながら本を開いている。ただし、聴くのは1950年代のハードバップが中心で、それ以後のフュージョンやフリージャズは体がまったく受け付けない。トランペットのマイルス・ディビスでも、50年代なら心が揺さぶられるが60年代後半になると気分が悪くなる。単純で堅実なリズム、心地よいコード進行、気の利いたアドリブが揃ってはじめて私にとってジャズになる。

 性についても同様である。これまでを振り返れば常に誠心誠意だったとは言えないが、それでも“愛”のないセックスはご法度だと肝に銘じてきた。もちろん“愛”は異性愛者の専有物ではない。性は多様であってLGBT(性的マイノリティ)の人たちが存在するのは当たり前だと思う。それぐらいには保守的ではないつもりだが、それでも“性愛”は1対1の、一定期間固定された関係において存在すべきだという道徳観から自由ではない。

 F・エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』で、原始の乱婚状態から西欧近代の一夫一婦制に至る道筋を描いたが、彼に従えば、右のような私の道徳観は資本主義という生産様式(下部構造)に規定されたものに過ぎない。マルクス主義の上部構造、下部構造は今ではあまり評判がよくないが、的を射ていると思う。だからこそ、今の一夫一婦制から実質的に自由であろうとすることには、資本主義社会から自由であろうとすることと同様の困難がつきまとう。

 私たちの“良識”は多かれ少なかれ時代に規定されている。そんな当たり前のことに思いを致すことになったのは、先日『スカーレットロード』というドキュメンタリー映画を観たからだ。旧知のKさんから、娘のYさんがこの映画を日本で上映したいという希望を持っている、できれば協力してほしいという電話があった。そのすぐ後にYさんからメールが届いた。彼女は「SWASH(Sex Work and Sexual Health)」というセックスワーカー(性労働者)の支援団体で活動している。名前から分かるように、ワーカーたちの権利擁護と健康管理が活動の目的だ。このオーストラリア映画は障害者に有料でセックスを提供する女性を撮ったものだが、映画を観て障害者問題の視点から感想を聞かせてほしいと言う。古い人間を自覚している私は、きっと自分の手に負えないと思って一度は試写会への参加を辞退したのだが、再度別の日に試写をするという案内が届いた時点で抵抗を諦めた。

 映画を詳しく紹介する余裕はない。セックスワーカーと障害者をつなぐ団体を立ち上げた一人の女性が、セックスを通した障害者とのつながりに積極的な意味を見出そうとする物語だ。この映画はセックスも経験できない“かわいそう”な障害者への慈愛の物語というステレオタイプか、それとも障害者をダシに使って性労働を正当化しようとするプロパガンダか。あるいは、格差を推進力とする新自由主義と「フーゾク」への蔑視や障害者への排除の視線に支えられた“良識”とを、内側から食い破る可能性を秘めた物語か。これから各地で上映される予定なので、機会があればぜひご覧いただきたい。
(『スカーレットロード』予告編 → https://www.youtube.com/watch?v=meLvRr4fTBQ )