鳥にしあらねば 108

 

『殺したんじゃねえもの 369』(2018年5月発行)より

  財務省の福田淳一事務次官(当時)がテレビ朝日の女性記者に浴びせたという言葉は、ここに引用するのさえはばかられるほど野卑だ。財務官僚は官僚の中の官僚だから、彼はいわば日本の官僚機構の頂点に位置すると言っていい。その人物が、森友文書改ざん問題で財務省が揺れに揺れている最中にこれほど愚劣な言動をとったとすれば、そんな官僚たちに政策決定を(ゆだ)ねざるを得ない私たちの不幸ははかり知れない。もっとも本人は、音声記録を示されても自らの発言を否定して名誉棄損で争う姿勢を示している。裁判が長引けば世間の関心も薄れるから、そのうち訴えを取り下げればいいという計算なのだろうか。

 今回の問題に関して、日本民間放送労働組合連合の女性協議会が4月18日に出した抗議声明には次のような(くだり)がある。

 「放送局の現場で働く多くの女性は、取材先や、制作現場内での関係悪化をおそれ、セクハラに相当する発言や行動が繰り返されてもうまく受け流す事を暗に求められてきた。たとえ屈辱的な思いをしても誰にも相談できないのが実態だ」。

 この声明からは、女性へのセクハラが深く沁みついた男社会に対する怒りは当然として、今のマスメディアが抱える問題も見えてくる。被害を受けた女性記者は財務省の記者クラブ「財研(財政研究会)」に属していた。他国に例を見ない日本の記者クラブ制度は、大手メディアが権力機関と結びついて情報を独占しようとするもので、近年とみに評判がよくない。そこでは記者たちと情報源(例えば事務次官)との「記者クラブ村」とでも呼ぶべき共同関係が成立する。もちろん共同関係と言っても、国家権力の中枢にいる者と記者との力関係ははっきりしている。セクハラはその構造の中で、その構造を利用して行われた。女性記者が自社ではなく他の出版社に音声記録を持ち込まざるを得なかったのにも、先の声明が「誰にも相談できない」と慨嘆するのにも、こうした背景がある。

 さて、しかし問題はそこに止まらない。次官の上司に当たる麻生太郎財務相が女性記者侮辱発言を繰り返しているのだ。次官の辞任を承認した後の会見で「女性にはめられたという見方もある」と語って顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、その後も()りずに「はめられた可能性があるとはよく言われている話なので否定できない。事実かもしれない」と発言して撤回に追い込まれている。それだけではない。5月4日には訪問先のフィリピンで「セクハラ罪っていう罪はない。殺人とか強わい(強制わいせつ)とは違う」と、相変わらず前次官をかばう発言を続けた。

 「セクハラ罪という罪はない」のは事実だから問題ないと受け止めた人は多いようだ。時に辛辣な政権批判をする小林よしのり氏もブログでそう言って麻生発言を擁護している。でも、「セクハラ罪という罪はない」けど「それがどうした?」という話なのだ。刑法や民法に規定がない人権侵害は世にあふれている。セクハラ罪もいじめ罪もないし麻生放言罪という罪もない。で、それがどうした? 敢えて「セクハラ罪という罪はない」と居直ることができる、その強者の傲慢さが問われているのだ。

 これまでも麻生発言はたびたび世間を騒がせてきた。革新都政が生まれた後には「婦人に参政権を与えたのが間違いだった」と嘆いたし、「政府のお金でやってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と終末期医療に注文をつけたのも記憶に新しい。そこに一貫しているのは強者に特有の鈍感さだ。吉田茂元首相を祖父に持ち、ボルサリーノを斜めにかぶってダンディーを気取る副総理に、そのことに気づけと言うのは所詮無理な話なのだろうか?