鳥にしあらねば 113

 

『殺したんじゃねえもの 374』(2018年11月発行)より

  「欠席多く、知能が低く、学習中ほとんど仕事が出来ず、学級のお客さん」。「小学校児童指導要録」の第6学年「備考欄」に担任教師はそう書いている。成績はオール1。「所見欄」には「社会性の発達がいちじるしくひどい」とも記している。教師らしからぬ言葉の乱れからは、この児童、青山正さんに向けられた強い侮蔑の視線が伝わってくる。57年前、彼は担任からこのような全否定にも等しい評価を受けた。小学校での欠席日数は1年生の時の38日から年ごとに増え、6年生では149日、出席日数はわずかに98日である。中学校では出席したのは入学式とその後の数日だけだったというが、学校側が登校するよう積極的に働きかけたかどうか怪しい。当時の時代背景を差し引いても、公教育が彼に向けた視線はあまりに冷たいものだった。

 時間は20年近く飛ぶ。少女殺しの犯人として逮捕された青山さんの起訴前精神鑑定を行ったのは、東京医科歯科大学で犯罪精神医学を教えていた医師である。起訴前鑑定は被疑者の責任能力や訴訟能力を判定するために行うものだが、その「家族歴」は、青山さんの父方と母方の家系に各一人「精神異常者」がいることが判明したと書かれた後、こう続いている。

  「父は道楽者で意志薄弱性の異常性格の傾向を有するようであり、母は無学であり、姉は非常に勝気な性格であり、そういう点からも遺伝的・環境的に問題の多い家系である」。

 公判前であるにもかかわらず、この医師は青山さんが犯人だという前提で鑑定を行い、いろんな噂をかき集めて、彼だけでなくその家系まで非難した。犯罪精神医学の権威からも、小学6年時の担任と同じ視線を感じるのは私だけではないだろう。

 それから7年後、千葉地裁松戸支部は遺体発見現場での実況見分で青山さんが犯行をほぼ再現しているとして、「中等度の精神遅滞者である被告人に捜査官が犯行の手段・方法・手順をあらかじめ教え込んで再現させることは到底不可能」だと決めつけて自白の任意性を認め、有罪判決を言い渡した。判決の直前に青山さんは否認に転じたが、判決文にはその否認の中身を検討したような形跡はまったくない。

 さらにその8年後、阪神淡路大震災の8日前に青山さんは大阪にやってきた。「やってきた」というのは正確ではない、連れてこられた。満期出所した後、彼は千葉県内の作業所で、代表を務める障害者と同居しながらクッキーづくりなどに励んだ。でもその生活は半年も続かない。一緒に働く仲間の中に「小さい子どもを見る目がおかしい」「やっぱり犯人ではないか」という疑心が芽生え、ついに代表の彼女も青山さんを支え切れなくなった。彼は彼女たちと一緒にワゴン車で大阪にやってきて、そして一人置いていかれた。彼女を「お母ちゃん」と呼んで慕っていた青山さんのショックは激しかった。その日の夜、彼女たちが千葉へ発った後、彼はこれから住むことになるアパートの一室で「オー、オー」と声を上げて泣き続けた。私はただ、その彼の横顔を眺めるしかなかった。

 そしてそれから23年半の後、棺の中の青山さんの少し腫れた顔に目をやりながら、その人生を想った。母と姉とその二人の子どもとの関係が生活のほぼすべてと言っていい田舎暮らしを続けていた彼は、事件に巻き込まれ、千葉から遠く離れた大阪に連れてこられ(しかしその後逞しく生きたけれど)、二度と故郷で生活することはなかった。彼を捕まえ裁いた者たちは軽侮と“正義”感と権力装置によって彼を翻弄した。では彼を“支援”した私はどうだったか。彼の死によって再審開始への道は一層険しくなったが、その自問を抱えながら残るわずかな可能性を追求したい。