鳥にしあらねば 83

 

『殺したんじゃねえもの 344』(2016年4月発行)より

  前回、大津地裁による関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じる3月の決定について、各全国紙がどんな反応を示したのかを紹介した。そこには安保法制に対する態度と相似の、各紙の姿勢の違いを見ることができた。〈読売+産経VS朝日+毎日〉というおなじみの対立構図である。この間、安倍政権によるメディアへの圧力が強まっているとは言え、まだこのような主張の違いが見られるのはけっこうなことだ。この国では民主主義が死に絶えていないことの証左だろうから。ただし、そうした対立構造がまったく見えなくなる報道の領域がある。そこでメディア各社は、日頃の確執を忘れたかのように足並みをそろえる。どの領域か。犯罪報道と障害者報道である。

 「逮捕=犯人」視報道の犯罪性については多くの人が指摘してきた。警察発表を垂れ流し、後にそれが間違っていたことが明らかになっても、ごく一部の例外(例えば松本サリン事件)を除いて謝罪することなどない。それを信じるに足りる相当の理由がある場合(だってオカミ=警察がそう言ってるんだから信じて当然でしょ)、名誉棄損で訴えられる心配もない。第一、冤罪の可能性を考えて独自に調査するなんてコストがかかり過ぎる。そう考えるのは、企業として当たり前なのかも知れない。しかし報道機関には他の企業と違い、ペン(表現の自由)によって権力を監視し、そのことで民主主義を支えるという重要な仕事がある。ところが犯罪報道では、保守もリベラルもみな「ペンを持ったお巡りさん」に変身して「社会の敵」に立ち向かう。それが読者や視聴者のニーズに添うことだと自分を納得させて、手間暇がかかる本来の仕事をサボってしまう。

 もう一つの障害者報道のステレオタイプも目に余る。最近は独自の視点で障害者問題に迫る企画も散見されるが、「障害を乗り越える」「障害者を支える」といったお決まりのフレーズによって殺伐とした日常を潤(うるお)そうとする記事が依然として多い。中でも深刻なのが、親による障害者殺しの報道だ。例えば2月22日の毎日新聞朝刊の記事。「愛した44年 母絶望」「脳性まひの息子、首絞めた朝」という見出しが躍る。「介護家族」というシリーズの一つで、リードはこうだ。「44年にわたって介護を続けた脳性まひの次男(当時44歳)を殺害したとして、殺人罪に問われた大阪市の母親(74)は今年1月、大阪地裁の法廷で泣き崩れた。『後悔の念でいっぱい。本当にかわいい息子だった』」

 記事は、母親が次男をとても愛していたこと、介護が重労働だったことを強調した上で、腰ひもで首を絞めて殺害した後「母親は仏壇の前でお経をあげていた」こと、最後の数年間弟を介護した長男が「弟にも人権はあるが、弟は立派に生きた。私は母を許している」と法廷で証言したことなどを紹介している。地裁の裁判員裁判は2月4日、母親に懲役2年6月の実刑を言い渡し、弁護側は執行猶予を求めて控訴した。記者は直接言及することを避けているが、恐らくこの実刑判決は意外であり、不服だっただろう。だからこそ記事にしたのだ。

 これまで親による障害者殺しが起きるたびに、私たちは同様の報道パターンを見せつけられてきた。保守もリベラルもみな同様に介護の大変さを語り、殺す側に同情した。なぜ障害者報道や犯罪報道の領域では各社の報道姿勢に違いが見られないのか。原発や安保のように明確な政策上の争点になりにくいからか。しかし個々の政策は、「人間とは何か」や「どんな社会を目指すのか」といった重要な価値観に支えられているはずだ。2つの領域はまさにその価値観と直結していると思うのだが、どうか。